2
二
恭一は万年筆を机の上に投げ出して、書類の束を横に退けた。いつの間にか、黄色い西日が彼の横目を刺すように焼いていた。くすんで少し黄色くなった腕時計の消えかけた四の数字に、短針の先が触れて、鈍く輝いた。恭一は下の闇市のなじみの店で飴の一つも買おうと思って、椅子を立った。軋んだ音を立てる木製の扉を押し開けようとしたその時、扉がするりと開いて、壮健な一人の仏頂面の紳士が部屋の中に早歩きで突進してきたので、恭一は驚いて身を翻した。
紳士はそこで初めて恭一に気が付いたらしく、相好を崩して言った。
「怠業かね?下の闇市の饅頭は売り切れていたよ」
「飴が目当てです。飴が売り切れているのは見たことがありませんから」
「それなら安心だ」
少将はがま口を懐から出してきて、真新しい黄銅の輝きを含んだ五円硬貨を握らせた。
「私にも一つ、頼む」
恭一は階段を下りた。一歩降りるごとに、猥雑なバラック街の喧騒が耳に突き刺さった。
古いとはいえ革靴と背広の人間は、闇市には一人もいなかった。雑多で無秩序な街のそこかしこに、靴磨きの戦災孤児、手や足のない傷痍軍人、そして闇市を取り仕切る愚連隊と博徒がいた。背広と革靴の恭一の周りにはすぐに彼らが寄ってくるので、彼は早足で、逃げるように歩いた。
《軍服か国民服を着てさえいれば》恭一はつぶやいた。恭一の有り金はたったの八円だったから、この狂ったインフレーションの世の中では、本当に飴を二つ、値引きしてやっと買えるだけの金でしかなかった。服という外見が変わるだけで、周りの人間が全てスリかコソ泥のようになってしまうのが、あまりにも嫌だった。
恭一はなじみの出店とは別の店で、三円もする飴を二つ買った。普段は怒った顔どころか驚いた顔すら見せない少将が部屋に入ってきたときの表情が今まで見たことがないほど強張っていたことを思い出して、恭一は戻ろうとした足を止めた。わざわざ少将が飴を買いにやらせたのは人払いのためではないかと思うと、今すぐに戻っていいのかどうか見当がつかなかった。迷っている間にそれなりの時間が経ってしまい、恭一が事務所に戻ったのは結局いつもと同じような時間だった。
恭一の口の中で、粗悪な硬い飴がバリッと音を立てて砕けた。恭一は目の前の紳士の顔を見つめ、その真意を探ろうとしたものの、その表情からはいかなる感情を読み取ることもできなかった。無味乾燥とした事実だけが目の前に転がっている。
「それでは、私を左遷すると…そういうことでありますか」
紳士は何も言わなかった。ほんの少し恭一の顔から逸らされた視線が、すべてを物語っていた。
「少将は、少しずつ仕事も任せてくださるという話で…」
「そのような話は知らぬ。貴様に渡した切符は今日の晩の夜行であるから、急いで東京を引き払うように。遅れても旅費は出さない」
途中で言葉を遮られて、恭一は怒りを抑えきれなくなった。
「そのような横暴は、承服いたしかねます」
恭一は一瞬次の言葉を探して口ごもったが、ついにその本心を言ってしまおうと決心した。左遷よりも、自分に対してその程度の評価しかなされていなかったということが、何より恭一のプライドに深い傷を入れた。
「私は、しょせんその程度の手駒であったと…そういうことで、ありますか」
「…そう思っても構わない」
恭一は割れたままの窓から差し込む西日が、雲に遮られるのを感じた。瞬間目を閉じて、開いて、言った。
「了解いたしました。この酒巻恭一、今すぐに東京を引き払い、新任地へ出立いたします。…当分、東京へは戻りませぬ」
恭一は当分どころか、一生でも戻らないつもりだった。恭一が目を閉じていた間に中将は椅子を回していたから、その表情を探ることもできなかった。白地に黒で富永と書かれた物言わぬネームプレートが、翳った西日のせいで濃い柿色に融けた。恭一は部屋を出て階段をまた下った。昼間と夜のわずかな隙間に、闇市はその喧騒ごと呑み込まれてしまったようで、恭一はただ自分の足が階段を踏みしめる軋んだ音だけを聞いていた。
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