極北

群衆の中の猫

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第一章 極北の夜

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この広い土地の全体を張りつめさせて余りあるほど、非日常の浮ついた感じは確かに満ちつつあった。それは足元からひたひたと上がってくる洪水のように、いずれは息をすることも許さないほどのひりついた焦燥と緊張に転化していくに違いなかった。そうして高まったこの場所の内圧が限界を迎えた時、ついには状況は破綻し、結末に向かって急速に進んでいくことになるだろう。その先に待つのが大なり小なり破滅であることは明らかだった。


 恭一はさっきまでもたれかかっていた土嚢から静かに体を起こした。この土嚢と塀を超えたその先には、日本の進もうとする道を認めようとしない人間が百人単位で陣取っている。彼らは新しい道へと転換して進むことを良しとせず、ただこの五年間の戦争を惰性で続けようとしている、と恭一は思った。


 朕深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑み…放送そのものは程度の悪い無線機のせいで細切れになっていて、とても一回聞いただけでは全容はわからなかった。しかし練兵場に集まっていた士官の一人が、どこか安堵したような表情を浮かべた途端、それは次々と伝播していった。時折自信なさげに雑音を混ぜたり小声になったりする無線機が何と言ったかは、すでに大きな問題ではなかった。言葉すら必要なかったにもかかわらず、兵士としてあるいは士官としての軍隊生活には何一つ変化するところがなかった。どこの基地においても次第に、徹底抗戦とか特攻だとか、そういう言葉があふれていった。


 目の前のこの基地はもう自身で止められない所に来ているんだ、と恭一は思った。この妙な雰囲気が焦燥に代わっていくことも、その先の破綻も、全ては急ブレーキをかけた貨物自動車と同じだ。止まれないまま、目の前の崖に向かってずるずると走ってゆく。


 《しかし何よりも》恭一は土嚢に再び背を預けた。《気に入らないのは彼らのやり口だ》

恭一は自分の基地にもいた「彼ら」の若い将校を思い出した。胸から腹にかけて、黒い詰襟の真ん中に金ボタンが輝いていた。聖戦だとか高邁な理想の実現とやらを口走りながら去っていく背中を、恭一はしばらく眺めていた。その時の彼らはいまだに自分たちの優位性にしがみつこうとしているようだった。きっと戦争が終わって数日経ったら、途端に好き勝手命令できる身分が惜しくなったのだ。聖戦みたいな美辞麗句で覆っているのが醜悪なエゴイズムであるとしたら、あの放送を吹き込んだ人間も浮かばれないことだ、と思った。恭一にはあの声が本当に天皇陛下の肉声であるという確証こそなかったものの、あの日の放送の背後には間違いなく天皇陛下がいたのであり、その意に反している「彼ら」は、恭一にとっては疑いなく不逞の輩であった。しかし恭一の基地にいた抗戦派の士官が基地司令の必死の説得で恭順したとき、恭一は安堵と同時に彼らを蔑視する感情も浮かび上がってきた。その程度で翻意する軟弱な意志と、膨れ上がった階級意識の生んだエゴのアンバランスさが、どうしようもなく不快に感じた。


 恭一は腕に巻いた時計を見た。時計の短針と長針は今にも十二のところで重なろうとしていて、しかしわずかにその間に空白を残していた。《後二分》恭一はそっと抱え込んだ小銃を見た。二分後にはそこら中の世界の音が全て銃声に支配され、辺りは殺伐とした戦闘に呑み込まれてしまう。恭一は最後に道端の花を見つめた。それはもうすぐ意識の底からも排除しなければならない物であり、それゆえに美しく見えた。

腕時計の二本の針が、またその間隔をわずかに狭めた。


 目の前の男はやや猫背で、ひどく小さく見えた。蛇のように細い狡猾そうな眼が、恭一を下からにらみ上げた。口元だけの薄気味悪い笑いが恭一を捉えた。未だに耳が銃声で痺れていて、目の前の男が何か言った最初の方は、あまり聞き取れなかった。

「司令と君の顔は、随分と似ているね」

恭一は目の前の男とその階級章をしっかり睨みつけて言った。

「同道していただきます、富永中佐」

富永と呼ばれた男は薄笑いを消すでもなく立ち上がった。恭一は最後に、床に転がった死体をちらと見て、慌てて目をそむけた。


 薄く死相の張りつめた顔は、まぎれもなく、恭一の父親のものであった。

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