22-黄昏のセルティネーア姫〜そのころ教会にて

 首都シャマト アルトリアノ城外


 住宅地より北西、首都全域を囲む城壁の内側には主に穀物が栽培されている広大な耕作地がある一画にぽつんと林に囲まれた場所に建てられた古い教会があった。


 その中ではそこに住む子供たちの嬉々とした声のもと夕食の支度を行っていた。


「さぁはやく、食器を並べて!」

「みんな、帰ってきてるー?」

「ネイラお姉ちゃん、ご飯まだぁ?」

「はいはい、今お皿によそうから待ってなさい」


 教会の奥にある厨房で年若いエプロン姿の少女がせっせと鍋の中からスープを掬い人数分のお椀の中へと移し替えていた。


「ケイト、気をつけて運んでね」

「うん、大丈夫」


 待機していた女児にスープの入ったお椀を渡してリビングの方にまで配膳させつつ、もう一つの鍋に出来上がっている根菜と豆の料理をそれを大皿の上に移す。


「ほい、シャロット菜の煮物だよ!」

「ええ〜? またそれ〜?」


 テーブルの中央に持ってかれたそれを見て、席についた子供たちは一斉に落胆の声をあげた。


「贅沢言わないのよ。これでも切り詰めてやっとのところなんだから」


 そう言ってネイラと呼ばれた彼女はエプロンを脱ぎ、頭にしていた頭巾をとって黒褐色の髪を顕にする。


「だっておいしくないんだもん」

「シャロット菜、においいやー」

「ったく……この子たちったら……」


 好き嫌いの激しい子供たちのクレームを前に、彼女は悩ましく頭を抱えてしまう。


 この古びた元教会の建物には親を亡くした子供たちが集まり共同生活を営んでいる。いわゆる孤児院のような施設であった。


 下は乳児から上は十代前半までの子供たち。ネイラは中でも十四歳で最年長であった。


 着るものもみすぼらしく寂しい環境ではあったが、その分彼らの表情はとても清らかで暖かなものだった。


(子供たちの好きなものをたくさん食べさせてやりたいのはやまやまなんだけど……)


 貧乏施設特有のジレンマに苦心するネイラであったが、そんなところにふと教会の正面扉の方からノックの音が飛び込んできた。


「ねぇ、外に誰かいるよー?」

「えっ、誰かしら?」


 ネイラは他の子供たちに席について大人しくしているように言いつけながら、リビングから教会のホールへと向かう。


 ホールの中はリビングよりも広く、ホールの両側には木製のベンチが何台か並べられているが、そのほとんどは年季が入ってボロボロでいくつかは壊れて使えない。教会の要である祭壇のところにはかつては立派な神を模した像が造立していたのであろうが、今はどこかへ移送させられていてただのホコリのみがその場に残っている。


 ネイラが入口の方に視線を向けると、白いフードを被った小柄な体躯の人の姿がちょうど扉を開いて入ってくるところであった。


「あ、あの……ごめんください」


 一礼しながらフードをめくってその美しい銀髪をなびかせたのは、この国の姫君であるセルティネーア・ド・ジルネヴその人であった。


「これは、セルティネーア姫! ようこそいらっしゃいました」


 突然の来訪にも関わらずネイラは笑って歓迎し、セルティはふたたびお辞儀をしながら教会の奥へと進んでいく。


「夕食の支度をなさってたのですか? お邪魔してすみませんでした」

「いえいえとんでもありません。貴方様であればいつでも構いません。どうぞこちらに」


 ネイラはそのままセルティをリビングの方へと通すと、中にいた子供たちがセルティの姿を見て喜びの声を上げる。


「うわぁ姫様だ! こんばんわ~!」

「姫様! もしかして今日もお城の美味しいもの持ってきてくれたのー?」

「セルティネーア姫様! 今日も素敵です!」


 大人しく席についていたはずの子供たちは男女共にセルティの元へと駆け出し元気に飛び跳ね始める。


 年齢にしてみれば子供たちとセルティはさほど差はないはずだが、ほっこりとした表情でほほえむセルティのほうが幾分か大人びていた。


「こらこら、あなたたちこんな入口に固まってちゃ姫様が歩けないでしょうに!」

「ふふ、皆さんとてもお変わり無くて何よりです」


 どうやら毎度お馴染みの光景のようで、呆れ果てるネイラではあったが、それでもその表情は穏やかなであった。


「こちらのバスケットにチーズとハム、それとパンを少々ながら持ってきました。皆様方で分けてください」

「わーい! 肉だああ!」

「黒くないパンだ! やったぁ!」

「こら、あなたたち! 手当たり次第に掴もうとしない!」


 セルティがテーブルの上に大きなバスケットを置くと子供たちは夢中になって集まって中身を取り出そうとし、ネイラが慌てて子供たちの手を払い除けながら

中身を覗いて品物を確認する。それはどれも城の中の王族にしか許されないであろう一級品ばかりの品々であった。


「いやはや、姫様。いつも本当にありがとうございます。わざわざ私たちにこのようなものをお城の方に知られず持ってくるのはいつも大変でしょう?」

「え、ええ……まあそうですね。おそらくアネッタあたりには感づかれているでしょうが……」


 やや苦笑気味にセルティはそう答える。


 ここへ来る間もセルティはなるべく姿を見られないように城の倉庫から食料を拝借したり、変装して城の抜け道からやってきたりしていたのだが、何故か倉庫の入り口に、城の抜け道となる納屋の周りがとどこぞの侍女の影をなんとなく感じ取っていた。


「本当は昼間のうちにお伺いしたかったのですが、今日は午前中からやや慌ただしかったもので、来るのが遅れてしまいました。申し訳ないです」

「いえ、とんでもございません。姫様が私たちを支援してくださっているお陰で私たちは無事に今日を生きて過ごせているのです。本当にいつもありがとうございます」


 そう、セルティはまだ12歳にも満たない年齢で、この孤児院というべきこの場所に出資を行っていた。もちろん、城の者たちには内緒で。


 彼女が自由に使える財産は少ないものの、こっそり宝物庫に侵入しては良さげなものを街の質屋に持っていって売りつけたりしている。身も蓋もない言い方をすれば横領もとい窃盗である。


 しかし、セルティはそれで救われる民がいるならばとあくまで善意と使命感で動き、今日までこのような慈善活動をおこなっていたのであった。


「そう言ってくれるととても嬉しいです。さぁ、はやく皆様方でご夕飯といたしましょう」 


 こうして、この日の食卓には孤児たちとネイラ、そして王族のセルティが囲うことになった。



 しばらくの時間が過ぎた頃、ようやく夕食の準備が整い、子供たちが全員椅子の上に座り始め、席に座れない赤ん坊は乳母車の中で寝かせられて食卓のすぐ近くに運ばれた。


 テーブルの上の燭台に火が灯され薄暗かった室内に柔らかな光が広がる。


「さて、みんな祈りの時間だよ」


 最後に座ったネイラの呼びかけに応じて子供たちとセルティは両手を胸の前に組んでそっと目を閉じる。


「――天空にございます聖女様よ」


 十数人の声が一斉に重なり、厳粛な空気があたりを包み込んだ。


「今日ここに、我らに祝福を与えてくれたことに感謝いたします。大地にございます精霊様よ、明日もまた再び変わらぬ加護のございますことを願います」


 その一節を唱え終え、数瞬の黙祷の後全員の目が開かれる。


「それじゃあ、みんな召し上がれ!」


 ネイラの号令のあと子供たちは大はしゃぎで目の前の食事にありついた。


 テーブルの一番端、貴賓席ともいう場所にセルティの席があてがわれると子供たちは率先して彼女のために切り分けたパンやら水やら配膳してもてなそうとする。


 いつもこうして素直に手伝ってくれればいいのにと穏やかな表情で愚痴をこぼしながらネイラは乳母車の赤ん坊にスプーンでヤギのミルクをゆっくりと飲ませていた。


「姫様、今日のおかずはシャロット菜だよ!」

「うっ……そうですか。と……とても美味しそうですね……」

「あれ、もしかして姫様、シャロット菜苦手なの?」

「へぇっ!? い、いえ、王族たるもの好き嫌いなんてしませんよ! というか好物です! 毎日食べています!」

「そうなんだ、じゃあいっぱいよそってあげるね!」


 子供たちは素直に親切心からかセルティの前に置かれた皿の上に次々と盛り付けていく。


 セルティがしまったと思いながらも時既に遅しというべきで、あっという間に大盛りのシャロット菜の煮物が彼女の目の前に鎮座された。一緒に豆も煮てあるはずなのだが皿の中にはほんの数粒しか入っておらず、所狭しの根菜であった。


「さあ、どうぞ姫様!」

「ぼくたちの分も分けてあげたからねー!」

「わたしたちの畑から取れたんだよそれー、いっぱい食べてほしいなぁ」

 

 子供たちの期待の目がセルティにはとても眩しく、そして残酷であった。


「わ……わーい、シャロット菜がいっぱいだなぁ……」

「姫様……無理しなくて良いんですよ?」

「い、いえ……お構いなく。なんてったって私は王族なので……」


 ネイラの優しい言葉に、セルティは首を振りながら子供たちのために笑顔を絶やさない決意をした。――しかし、服の下は冷や汗でびっしょりではあったが。


「じ、じゃあ……いただきます……」


 セルティは木のフォークでシャロット菜の一つを突き刺して持ち上げてみる。


 一口大に切り分けられた褐色のそれは煮汁のてかり具合も相まってなにやら禍々しいものに見えた――少なくともセルティにはそう感じた。


 ゴクリと息を飲み、覚悟を決めて口の中に入れようとした、そんな時だった。


 再び、教会の入り口の方で何やら大きな物音がした。


「えっ、何? 何の音?」

「なんか扉を開けたような音だったけど……」


 子供たちは席に座りながらリビングの出入り口の方を見つめている。


「また、お客さんかな。ケイト、この子たちにミルクをやっててちょうだい」


 ネイラも物音に気づいたようで、スプーンを隣の女児に渡しながら席を立つ。


「みんなはここで静かに食べていなさい」

「はーい」


 子供たちの無垢な返事を聞きながらネイラはリビングの扉を目指す。


 一方、セルティは今の物音を聞いて妙な胸騒ぎを感じ取っていた。


「…………いまのは」


 彼女の頭の中に一瞬よぎったのは、日中に起きたあの出来事。


 入浴中のセルティがいる大浴場に大胆にも大扉を破壊して侵入してきたあの真っ白な髪の少年。


 言葉も分からなければ真意も掴みきれない、今この孤児院にいる子供たちとは違う、不思議な子供。


「あ、あの……!」


 気づけばセルティは無意識に席を立ってネイラの後を追いかけ、リビングの扉をくぐっていた。


 そして、ホールの中に出てくるとそこには中央で入り口を見つめるネイラと扉の方に夕日の逆光を受けた人影がそこに佇んでいた。


 黒いローブに身を包み、頭の上から深々と被っているフードのせいでその顔は窺い知れない。体格は大柄な男性のようで、アルトリアノ城の兵士たちと比べてもかなり立派なようであった。


「あなたたち、どちら様でしょうか? ここは教会ではなく孤児院ですが――」


 彼に何かしら物々しい雰囲気を感じ取ったネイラがやや警戒気味に話しかけるとローブの男はふいに視線をネイラの方に向けた。


「……ふん、人間風情が」


 重々しい声音をさせながら、フードの隙間からネイラを見つめる紫色の瞳。


 それを見たセルティは突如全身に凄まじい悪寒が走り抜けた。


「危ない、ネイラ様!!」

「えっ……?」


 セルティの声につられて後ろを振り返ったその瞬間、フードの男が人差し指をネイラの方に突きつけた。


突き刺せ闇の魔槍よダグ・スティングレイ


 その言葉と共に男の指先からどす黒いオーラが走り、呆然と立ち尽くすネイラに向かって飛び出した。


「――――――――――――!!」


 あらゆる物事が一瞬で過ぎ去った。


 男の指先から真っ直ぐに伸びたそれは西日が差し込むホールを凄まじい速度で縦断しネイラのこめかみに瞬く間に吸い込まれ、そして頭の後方へと突き抜けていった。


「っ――――――」


 ネイラの乾いた声が短くうめき、そして彼女の表情から時間が失われた。


「ネイラ様……!?」


 セルティの目の前でネイラの身体が力が抜けるように崩れ、床の上へと倒れ込んだ。


 セルティはすぐに彼女の元に駆け寄りその身体を抱きかかえた。


「ネイラ様、しっかり! ネイラ様!」


 必死に彼女を呼びかけるセルティであったが、すぐに彼女の異変に気が付いた。


「え……こ、これって……なん……なに、これ……」


 抱きかかえた彼女の頭から漏れ出す真っ赤な液体。それはセルティの服を染め上げ、床の上に絶え間なく注がれていった。


 身体を掴んだ手がいつの間にかその熱を帯びた赤液にまみれ、そして、それがなんであるかを認識するのにセルティはしばらくの時間を要した。


「う、うそ……これって、そんな……ネイラ様……」


 半開きになったネイラの目には既に生気が失われ、その光を失くした瞳がセルティの顔を絶望へと染め上げた。


「ふん、やはり他愛もない種族か人間は。この程度の魔術にやられてしまうとは」


 指先を下ろしたフードの男は冷たい声で言い放ち、物言わなくなったネイラを抱えるセルティたちを見下ろす。


「どうして……どうしてネイラ様を……!」


 親しき友人を抱える手が震え、恐怖と怒りがないまぜになったセルティの眼差しがフードの男に向けられる。


 彼はそんなセルティをしばし見つめ、そしておもむろに頭に被せたフードを取り払う。


「――! そ、それは……!?」


 フードの下に隠されていたものは、人間と変わらぬ容姿をした頭の両側面から突き出す二本の短い角。青みをおびた肌をした相貌には眼尻から頬にかけて伸びた一本傷の痕があった。そして、フードの隙間からも見えていた紫色の瞳には底知れぬ闇を思わせる彼の感情がひしひしと伝わってくる。


「俺は、お前たちの言うところの『魔族』というやつだ」


 彼の正体を知りセルティは言葉を失う。


 今よりも千年もの前、このアルトリアノ王国で人間と争った種族。


 ドラン山脈の向こう側に住まいあらゆる魔術と強大な肉体を持ち、今は結界によって封印されたという伝説上の存在。


 おとぎ話程度ならば子供でも知っている邪悪な生物を眼の前にしたセルティは途端に目眩のようなものに襲われる。


(な、なに……? な、なにか頭の中に語りかけてくるような――)


 その感覚に覚えがあるような気がしたセルティだが、ような気がしてセルティは必死に自我を保とうとする。


「――姫様、どうかしたの?」


 背後から呼びかける声に気が付いてセルティははっとなって振り向く。


 リビングへと続く扉の側に物音に気付いた子供たちがおずおずと様子をうかがいに覗き込んでいた。


「来てはいけません!」


 セルティは血に塗れた手を子供たちに向けて突き出す。


「えっ…………?」

「どうしたの……え、ネイラお姉ちゃん……?」


 セルティの鬼気迫る声がそうさせてしまったのか、ただならぬ気配を感じ取った子供たちがまた一人と扉の方から顔をのぞかせ教会のホールの惨状を目の当たりにしてしまう。


「えっ? なに、なに? 何が起きてるの???」

「あの、おじちゃんだれ?」

「姫様……そこに倒れてるのって」

「うそ――ネイラねえちゃん、血が……」


 一つの不審がさらなる不審を呼び寄せ、そしてそれは刹那的に、連鎖して恐怖を呼び起こす。


(まずいです……このままじゃあ……)


 状況の悪化を予見したセルティは、こときれたネイラの亡骸をそっと床に寝かせると、フラフラと足元をおぼつかせながらも立ち上がり両手を広げて目の前の魔族の男に立ちはだかった。


「聞きいてください! 魔族の者よ!!」


 全身を赤い鮮血に染め、小さく幼い唇がかりそめの気丈を振る舞って立ち向かわんとする。


「彼らに、この施設の子供たちにどうか手を出さないでください。代わりにこの私、セルティネーア・ド・ジルネヴの命をあなたに委ねます……!」


 西日に照らされた姫君の銀髪が輝き、その隙間から覗く金色の瞳が王族としての矜持を映し出した。


「…………フン」


 されども、男はさも意に介さぬように掌をセルティの正面に差し出す。


「元より用があったのはお前の方だ、”密書”を託せられし姫君よ」

「――――み、”密書”……?」


 その単語を聞いた途端、セルティの意識がまた再び反転する。


「――――――――――っ!?」


 頭の中に押し寄せる姿。それは、今朝に見たあのおぼろげな夢の中のような錯覚。


 何もない場所で実感がなく、ただ浮遊しているような感覚。


(な、なにかが……いや、囁いてくる…………!)


 いつの間にかセルティの両手は縮こまり、震える自身の身体を押さえていた。後ずさり、つまずいて後方に倒れ込んでしまい、教会の暗がりに彼女の瞳が同化してしまった。


「ひ、姫様…………!」


 異常な事態に怯える子供たちの声も、セルティの耳には届いていなかった。


(な、なにが……私はいったい……何を……させさせられ……!?)


 彼女にしか聞こえない囁き声が頭の中で徐々に鮮明になっていく。その度にセルティの表情は翳り、己の自我が塗りつぶされていく。


 その様子を魔族の男はやや訝しむように見つめていた。


「随分な反応のようだが、人間側の託宣者はこうなるものなのか。まあいい、どちらにせよ、計画に支障はないか」


 そして、教会のホールを突っ切ってセルティのそばに近づこうとした――その瞬間だった。


 突如、男の背後より一本のナイフが空を切って飛び込んできた。


「…………っ!?」


 すんでのところで気配に気が付いた彼は身を翻して空中のナイフを片手で叩き落とした。


 そして、扉から差し込む夕日に数瞬目を眩ませたその時、眼前に現れた何者かに強烈な蹴りを叩き込まれた。


「この動きはっ……!?」


 男の身体が宙を舞い、教会奥の壁へと吹き飛ばされる。その勢いは石造りの壁を突き破り、屋外へと放り出されるほどの威力であった。


「姫様、ご無事ですか!?」

「――ア……アネッタ……?」


 扉より現れた黒いメイド服に身を包む自らの従者アネッタの姿を、セルティは朦朧としながらもなんとか確認する。


「……貴様、姫君の護衛か」


 先程の蹴りによって叩きつけられた衝撃で破壊された教会の壁から這い出るように魔族の男が再び教会内に侵入し、指先をアネッタに向ける。


突き刺せ闇の魔槍よダグ・スティングレイ!」


 一瞬の詠唱の後に放たれる必殺の魔術。アネッタの心臓めがけて飛び出したそれは彼我の距離を刹那のうちに駆ける。


「――――――――!」


 しかし、アネッタはそれをも上回る速度で避け、教会の床を疾走する。


 距離にして十歩、それを一足で跳び越えた彼女は渾身の正拳突きを繰り出した。突然の反撃に魔族の男はとっさに片手で防御を余儀なくされる。


「クッ……!」

「何者かは存じないが、大人しく地に伏せよ!」


 普段は冷静で謙虚ある面持ちのメイドの彼女は、今は姫を脅かす敵を討ち倒すための羅刹と化していた。


 空を引き裂く回し蹴りに両拳による五月雨のような連打、息をつかせぬ殴撃おうげき蹴撃しゅうげきの嵐が魔族の男の身動きを鈍らせる。


(この人間、只者ではない。このままでは姫を取り逃がす……!)


 状況の不利を悟った男は、魔力を掌に集め呪文を唱える。


爆ぜよ焔の黒玉よバグ・グレネイ!」

「――――――――!」


 収斂された魔術を察知したアネッタは瞬時に床を蹴り、男から距離を離す。


 そして、即座に男の目の前の空間がどす黒い爆炎を伴って爆破を引き起こした。それは小規模なものでアネッタはもとより教会内にいたセルティや子供たちを巻き込むほどではなかったが、退避が遅れていれば間違いなくただでは済まないほどの威力であった。


「その魔術――そして、角が生えたその姿。まさか貴校は…………!」


 警戒するアネッタは爆炎による煙が晴れるのを待っていると、魔族の男は懐から薄緑色の何かを取り出した。


「……マロム、使うぞ」


 彼は六角柱型のそれを握りしめ、そしてそれを勢いよく教会の床に叩きつける。

 

「――――!?」


 アネッタが何かが砕けるのを視認した直後、床の上に緑色に輝く見知らぬ文様が男の足元を中心に広がっていく。


「な、なに……!?」

「へんな光が広がって……」


 遠巻きで呆然と戦闘の様子を見ているだけだった子供たちだったが、さすがの事態に驚きと不安の声を漏らす。


「あなたたち! 早く教会の外に出なさい!」


 アネッタが叫ぶのもつかの間、突如教会中が大きな振動にみまわれる。


「こ、これは…………!?」


 空気が震え、建物の天井に溜まったホコリが一斉に降り落ちてくる。


 崩れた壁から石片が転がり落ち、その揺れは段々と巨大なものへと変わる。


「来い――ディ・ハーガ」


 男の唇からその名が投げかけられると、文様の光が教会すべてを満たし、その中から巨大な影が現れる。


「これは……!?」


 アネッタが驚愕の表情をみせたその直後、周囲一帯に尋常ではない衝撃波が広がり、教会のホールが爆散する。



 それは、アルトリアノ王国を照らしていた太陽が地平線に沈み長い夜が始まる、まさにその瞬間であった。

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