閑話-母と娘〜傷だらけの姉

 ほんの少し遠い昔の話。


 とある村の四つ子の長女として生まれた少女はとてもやんちゃな性格をしていた。


 とても喧嘩早く、ものすごく直情的なところがあり、自分の家庭のことを学校や近所の子供たちにからかわれると、すぐに殴りかかってきていつも相手に大怪我を負わすほどだった。


 彼女は運動神経に恵まれ、また一度見た動きならどんな動きも再現できるほどの天性の才能を持っていた。


 そんな彼女だから、たとえ喧嘩の相手がいくつか年上だろうが常に力づくで勝ってきた少女は、まだ小学生であるにもかかわらず多くの子供や大人たちに恐れていた。


「アイカ、どうしていつもすぐ喧嘩になっちゃうの?」


 ある日、少女の母親はいつものように相手を殴って擦りむいた少女の手に消毒液をふりかけ、殴り返されて腫れた頬に氷嚢を当てながら優しく話しかける。


 喧嘩の時とは違って、畳の上に座って治療を受けている少女はとても静かで大人しく、いつもの鬼の如き暴れん坊ではなく可憐な洋風人形のような雰囲気を漂わせていた。


「……あたし、バカにされたくない、家のこと」


 ぽつりとこぼれた彼女の声は傍らの母親だけに届いた。


「いくらユウくんがあばれても、いくらヒロ兄がムカつくぐらいあたま良くても、いくらヒメカが弱っちくても、みんながいじめられてたら、あたしはたたかいたい」

「…………アイカ」

「お母さんにも悪く言うやつなんかゆるせない」


 そう言って傷だらけの拳をぎゅっと握りしめるアイカ。それを彼女の背中ごしに見つめる母親は

手に持った氷嚢を静かに畳の上に置いた。


「ぎゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」

「わっ! いきなり何!?」


 唐突に身体を抱き締められた少女は恥しそうに振りほどこうとしながらも、母親はそれでも強く抱き締める。


「アイカが自分のこと守ろうとしないから、お母さんが守るの」

「――――えっ?」


 一瞬何のことか分からずに戸惑う少女に、母親は微笑みながら絆創膏を取り出して少女の手を取る。


「ヒロトやヒメカ、ユウトも私も、たくさん守ってくれてありがとう。でもね、それでアイカがたくさん傷ついてしまうのはちょっと違うかな」

「そ、それは……仕方がないっていうか、その……」

「アイカが傷付くと、私も傷付く」

「―――――――!」

「アイカが痛いと、私も痛い。アイカが苦しいと、私も苦しい。アイカが泣いちゃうと、私も泣いちゃうかな」


 母親は小さな絆創膏を一つずつ摘むと、少女の擦りむいた手の甲に一つずつ貼っていく。


「そしてね、誰かを傷付けるのは自分も傷付けるの。身体じゃなくて、心の方がね」

「自分の心……」


 そう言われ少女は今まで自分が殴ってきた者たちのことを思い出した。彼らを殴ったとき殴られたとき、その時自分はどうであったのかを。


 痛かったのか、悲しかったのか。それともただただ怒りだけが支配していたのか。


 どれだけ思い出そうとしても、少女はぼんやりとしか思い出せなかった。


 分かるのは、あのままじっとはしていられなかったという想いだった。


「だからね、アイカ。私にも守らせて、アイカが守りたいのを」

「えっ……?」

「アイカが一人で頑張らなくていいように、私も一緒に頑張るから」


 背中ごしに感じるぬくもりに、手のひらを優しく包み込む温かなもの。


 確かに感じる母親の想いに彼女の眼から静かに涙がこぼれ落ちた。


 一度溢れてしまえば、もう抑えることはできずとめどなく出るそれを彼女は延々と嗚咽と共に流しだした。


 母親はただ優しく微笑みつつ、それが自然に止むまで、後ろから彼女を抱きしめ続けた。


「――そういえばね、ゲンおじさんの知り合いが最近ここに越してきて道場を開くみたいなの」

「道場……?」

「その人どうやら昔弓道を教えていた人みたいで、もしアイカが興味あるなら習ってみたらどうかなってこの前ゲンおじさんが言っていたわ」

「弓道……でもあたしそんなの……」


 彼女はスポーツならばなんでも出来てしまう。プロの動きを少し真似するだけで、なんなら感覚だけでも力技だけでも大抵の競技はすぐにマスターして他者を圧倒してしまう。


 そして、そこに彼女の『楽しい』という結果がついてきたことは、ただの一度もなかった。


 そんな彼女の心中を察してなのか、母親は付け加えるようにして言った。


「弓道ってね、矢を的に当てるスポーツみたいなものだけど、それを上手くできればいいってものじゃないらしいわ」

「えっ、勝ち負けは大事じゃないの?」

「結果よりも、その過程の動作、心持ちなんかが大切らしくって……要は精神が完璧じゃないと駄目、らしいわ」

「精神……?」


 弓道という名前はなんとなく聞いたことのある彼女だったが、他のスポーツとどう違うのか気になり始めた。


「もしかしたら、アイカの手助けになるかも……なんて」

「あたしの手助けに? どんな?」

「うーん……たとえば……怒ってもすぐ我慢できるようになる……とか?」

「――もしかして、それをあたしにさせるため?」

「ギクッ」


 聡明な長男ヒロト並な妙な鋭さを向けられ、母親は一瞬笑顔がひくつく。


「え、えーっと、弓道って落ち着かないと上手くできないらしいから、何か精神統一のコツとか教えて貰えるんじゃないかなぁーって思って……」

「へぇ……精神統一ねぇ……」


 図星を取り繕う母親だが、語れば語るほど泥沼に嵌っていく。先ほど一緒に彼女の重荷を背負いたいだの言ったそばからこれでは彼女を信じてないとでも言わんばかりである。


 そんなつもりでは無いにしろもっと言葉は選ぶべきだったと後悔する母親だったが、言われた当の本人はやけに落ち着いていた。


「うん……あたしちょっと興味あるかも」

「えっ?」

「あたしだって、すぐに手を出さないようにしたい。ヒロ兄ちゃんみたいに冷静でヒメカみたいに優しくなりたい。そうなれるならあたしなってみたい」


 同じように家族を守る自分の兄妹たちの姿を思い浮かべながら、彼女は理想を語った。


「そしたらあたし、ちゃんとみんなを守っていけるかな?」

「……うん、アイカならきっと出来るよ」


 今はまだ絆創膏だらけの彼女の手を、母親は上からそっと優しく撫でる。


 いつかその手が優しく大きくなる日が来るであろうと、そう信じながら。


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