閑話 或る幼い姉の回想
それは、
行方不明になった
「くそっ……くそ……今のは……!」
その物音の中に聞き覚えのある声がして、彼女は血相を変えながら音のした方向へと急ぐ。
最近この山中で腹をすかせた熊の目撃情報があり、集落全体に注意が促されていた。
無鉄砲で向こう見ずな彼女でもこの野山に一人で入るのは躊躇っていたが、弟と妹がこの山に消えたかもしれないと悟った彼女は大人たちの静止を振り切り山林の中へと突き進んだ。
やがて、妙な獣臭に混じって嗅いだことのない鉄臭いものに彼女は気が付く。
普段は感じることのないものに背筋がゾクリとしながらそれでも彼女は葉枝をかき分けて進むとやがて木々がやや開けた場所に出た。
そして、視界の先でその惨状を目撃した。
「ヒメカァッッッ!!」
懐中電灯の先に照らされる血まみれの妹とその間際の距離に立つ一頭のツキノワグマ。
想定しうる最悪の現場を前に彼女はパニックに陥った。
どうする、どうすればいい、どうすれば助かる。
ヒメカは、
そんな時、彼女のすぐ脇の草むらから何かが飛び出した。
「えっ?」
それは、彼女のよく知る人物――末弟のユウトが泥と葉と血に塗れながら手に槍のごとく鋭く尖った切り口にされた竹とギラつく大きな鉈を握りしめ山中を疾走する。
「――――!」
「ゥグッ…………!?」
凄まじい速さで暗闇の斜面を真っ直ぐに駆け上がるユウトに、ツキノワグマが一瞬驚いて逃げ出しそうになった瞬間、ユウトから投げ放たれた鉈がツキノワグマの後ろ足に直撃する。
「ゴァッ!?!?!?」
たまらず地面を転がるツキノワグマに、ユウトは躊躇なく近付き竹槍で追撃する。
一度ではなく、何度も。何度も。何度も。
本来なら子供の力で猛獣の硬い筋肉に傷を付けることなど不可能なはず。そのツキノワグマは痩せ細って筋肉が薄くなっていたが、それでもユウトは肉付きのさらに薄い肋骨の隙間や関節などを的確に狙って突き刺していた。
両手で竹槍を握りしめて、ひとつひとつ、確実に。
「な、何……あれ……」
自らの弟が、弱々しい小柄のとはいえツキノワグマを一匹圧倒している。
そんな光景を彼女はただ呆然と見ていることしか出来なかった。
斜面の上方を懐中電灯の光がユウトの顔を写す。その顔は真っ赤に染まり、そしていつもと変わらない無邪気な笑みを浮かべていた。
その表情に、彼女の背筋に冷たいものが走り抜けるような感覚が襲う。
やがて、彼は動かなくなったツキノワグマに最後の一突きを刺し、後ろ足に突き刺さった鉈を強引に引き抜に、そして斜面の下にいる二人の姉には一瞥することもなくまた山の草むらに入っていった。
まるで嵐のように訪れ、嵐のように去っていった彼を、彼女はただ呆然と立ち尽くして見ていることしか来なかった。
瀕死の妹を置いてはいけず彼女は血みどろになった妹を抱えて野山を歩き始めた。
麓の集落にたどり着き、妹を救急隊に預け彼女はまだ見つからない弟を探そうとしたが、すでに彼は自宅に戻っていた後だった。
発見されたとき、彼は何故か全裸で川辺で水遊びをしていて多くの大人たちが安堵ともに呆れたような反応を見せたという。
誰も、彼がツキノワグマの返り血に染まっていた事実など知る由もなかった。
そして事件の全てが片付き、数週間ほど経って妹が病院にて容態が安定し始めたころ、彼女はふたたびあの野山の入口に訪れた。
【熊、出没注意】と書かれた薄汚れた看板とその先に広がる不気味なほど静かな山の様相。
そこで起きていた悪夢のようなひととき。
大丈夫、大丈夫や。
彼女は心の中でそう何度も呟き続ける。
ヒメカもユウトも、ヒロ兄もお母さんも全部ウチが守る。守るんや。
あの日の光景を彼記憶の浅い所から深い場所へとしまい込むことを決め、彼女はその森の前から立ち去った。
そのことを知っているのは今や彼女一人だけだった。
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