閑話 或る幼い妹の記憶
昔、私は命を落としかけた事がある。
毎日、小学生や中学生相手に喧嘩をしまくって生傷を増やしまくるお姉ちゃんとは比べものにならないくらいに文字通り生死の境を彷徨った事件がある。
多分一年ほど前のある日、ユウくんがいなくなって家族や近所の人総出で村中を探し回ったことがあり、私は心配のあまり大人たちから禁止されていた野山の方にまで探索の足を伸ばしたのだ。
日が落ち、静かな暗闇の雑木林で懐中電灯を片手にユウくんの名を呼んでいたら、私の背後に何かが草木を踏み締める音が聞こえてそこに振り向いてみた。
懐中電灯の光の先に黒い毛並みが写って、ユウくんの髪の毛だと思ってとっさに近付こうとしたその時、それが私の弟ではないことに気が付いた。
とてもガリガリに痩せ細って、小さな背丈。ともすれば人間と見間違えるほどの体格のそれは、一頭の小さな子熊であった。
動物番組で一度見た子熊はぬいぐるみみたいに丸っこいものだったが、この子熊はそれよりも成長した感じで、大人と子供その中間のように思えた。
大人ほどではない、されど子供ではない。
その意味を理解するのに、そして、私の思考が理解する前に、私は先に足を前に出してしまっていた。
そして子熊は動き出した。
一瞬、私の視界が暗闇に包まれ、何かにぶつかったような衝撃が全身を包みこんだ。
そして、再び懐中電灯の光が子熊を写すと黒い毛並みから覗いた赤く染まった牙がすぐ目の前に並んでいたのが見えた。
「あ……ッ!」
とっさにできたのは少し身体を起こして、後ろに引いただけ。その瞬間、低く怖い唸り声が響き、それに飲み込まれるのを感じた。
そして私のお腹の方で何かが引き千切られるような音がはっきりと聞こえた。
焼け付くような痛みと、熱いお湯が私の下半身に向けて一気に駆け下りるような感覚。
何もできていなければ。きっと私の首がそうなっていただろう。
「痛ッ………………ああっ!!」
身体が後ろにあった斜面に滑り落ち、その拍子に私の皮肉が引きちぎられて子熊の牙ごと持っていかれる。私と子熊の距離が空くと同時に自分の一部を失う感覚を痛みと共に覚えてしまった。
「うぐ……あぁ……っ」
斜面に生えていた何かの木にぶつかって私の身体はそこに止まる。まだすぐ上方にはあの子熊がいて、ほんの少し差す月明かりの中で口元がモゴモゴと動いているのが見えた。
何をしているのかは一目瞭然なのに、それをまだ頭で理解出来ていなかった。
風のざわめき一つのない林の中で、ぬちゃぬちゃと聞こえる音がある。
「あ……わたし……食べ……」
細かくて小さく早い呼吸の中で、私の意識は妙に鮮明だった。
どこかに落としてしまった懐中電灯の光は見えないのに、薄い暗闇の中で何をしているのか分かってしまった。
そっと自分に触れる。服の上から触ったつもりなのに、左の脇腹辺りがとても熱かった。ヌメッとした液体に濡れていて、それから何か"細長いもの"がはみ出しているのが分かった。
顔からなんだか妙に寒気というか張り詰めが消えるような気がして、そして私の目はあの子熊を探していた。
きっとそこにいるであろう。
私をまだ見ているだろう。
そしてまた近づいて――牙を向けるのだろう。
そんな者の存在に私は自然と笑みがこぼれてしまった。
「わ、わたしの……からだ……おいしい?」
それまで確かにあったはずの恐怖心が、その時不思議と消えてしまっていた。
なんとなくだけど、その子熊が可愛そうだと思ってしまったのだ。
あの痩せ細って、皮も肉も無さそうな、一人ぼっちの子熊に。
そこから私の意識は途切れて次に目が覚めたのは病院のベッドの上だった。テレビドラマで見たことのある集中治療室とかいうところで私は一ヶ月も眠っていたらしい。
私が病院に運ばれた時点で助かる見込みはほとんどなかったらしい。腹が大きくえぐれ大量出血し、内臓も一部失われていたそうだ。それでも生きていたのは奇跡としか言いようがないほどに
私の目覚めの報せを受けてすぐにお母さんやお兄ちゃんたちが駆け付けて会いに来てくれた。無菌室だからなのかマスクとかフードみたいのを被っていたからみんなの顔はよく見えなかったけどきっと凄く喜んで泣きそうな顔だったと思う。
一番印象的だったのは、アイカお姉ちゃんだった。
「ぜったいおねがい、もうあぶないことしないでぇ! もう、あんなのみたくない! もう、あんなことしたくない!」
どうやら、最初に私を見つけて、血みどろになった私を運んだのはお姉ちゃんだったようだ。いつもの関西弁が抜けて、弱々しいお姉ちゃんを見たのは久しぶりのことだった。
ごめんなさいと言いたかったのだけれど、その時はとても喋れる状態じゃあなかった。
そこから程なくして集中治療室から出られて、病室に移った後もいろいろ心配していた話を聞いたり、ちょっと説教されたり、それでも生きてて嬉しかったと聞いたり、色んな話を色んな人とした。
しばらくお姉ちゃんは病室で私のシーツにしがみつきながらよく泣いて喚いていたが、それも程なくして落ち着きいつもの関西弁に戻った。
ユウくんが心配のあまりにとった私の行動が、どれだけ周りの人に迷惑をかけていたのか、その時初めて知ったのかもしれない。
その事件がきっかけで周りの人たちがより一層に私のことを気にかけるようになったし、特にお姉ちゃんは常に心配なのかよく私の後ろをつけて監視し始めた。私は私でユウくんの側に離れないからお姉ちゃんとしては二人分見守ってることになる。
つくづく申し訳ないと思いながらも私は私の性格を変えられない、わがままな妹だ。
その後の話をお兄ちゃんとかに聞けば、どうやらお姉ちゃんが私を見つけ、あの子熊はすぐにその場を立ち去ったらしい。そして山を捜索していた猟師さんに見つかり射殺されたようだ。
親離れをした直後の子熊だったようで正確には子熊とは呼ばないのだろう。その胃の中には私の腹の肉以外には何も入っていなかったみたいだ。
そういえばどうやって私はあそこから生還できたのだろうか。
あの子熊が気まぐれに見逃してくれたのか、お姉ちゃんの叫ぶ声にでも驚いてその場を去ったのか。
もし、状況が少しでも違っていたらあの子熊は私を食べ尽くしていたのだろうか。猟師さんに見つからなければ今もまだ生きていられたのだろうか。
もう終わってしまった出来事にどうしても考えてしまう。
分かっていることは、その時の傷は塞がった今もまだ私のお腹の辺りに残っていることだった。
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