1-あらしのよるに
その日は嵐の夜だった。
夏休みの中頃、俺たち四兄妹は母さんの知り合いの家にそろって泊まりに来ていた。昼頃まではセミの鳴き声がうるさく、眩しいくらいの青空が広がっていたはずなのに、夕方から次第に雲の様子がおかしくなって日没する時には本格的に降り出した。
その頃俺たちは野山で野草取りだとか沢で魚釣りだとか、昆虫採集なんかを行って遊んでいた帰りで、母さんが運転する軽自動車の中で目的地に着くのを兄妹たちとともに待っていた。
自分が助手席に座り、その他の三人が後部座席だ。
「なぁんか結構な大降りになっとるけど、これ大丈夫なんかなぁ」
「今朝、おじさんの家出る時に見た天気予報では、小雨程度ってはずだったんだけど……」
長女のアイカと次女のヒメカの声だ。
二人が心配そうに見つめる窓の外は、いまだに雨と風がひっきりなしに吹き付け、山道を走る車が時折風にあおられてガタガタと揺れるような感覚がある。たまに遠くから雷が鳴る音が聞こえてきて、雷が苦手なヒメカは幾度か小さい悲鳴を上げていた。
「ユウくんの様子はどう、みんな?」
運転席でハンドルを握る母さんがそう訪ねると、後部座席の二人が揃って元気な返事をする。
「ぐっすりと寝てるで!」
「きっと遊び疲れちゃったんだよ」
二人の間に座ってすやすやと寝息を立てているのは末弟のユウトだ。泥と砂利で汚れた靴を履いた足をシートの上でまっすぐと伸ばし、着ているTシャツと半ズボンにも泥の跡が残っている。
「二人ともよく見ていてね。もしかしたらユウくん、この天気に怖がるかもしれないから」
「はーい、まかせとき!」
「ユウくんの好きな折りたたみ傘、用意しているよ!」
二人の声を助手席に聞きながら、俺はスマートフォンを操作して気象情報アプリを開いて直近の天気の様子や予報などを調べていた。
「母さん、この地域に警報が出ているみたい。該当地域の人は避難所に行くように指示も出てる」
「避難所かぁ……ここだとたしか小学校だったはず。ナミコさんたち避難できているといいけど」
「ナミコおばさんはゲンおじさんがついてるから大丈夫だよ。今は俺たちの安全を優先したほうが良いよ」
「ふふふ、そうね、まずは早く家に帰らなくちゃね、ヒロくん」
「母さんこそ、もう道路は暗いし雨に濡れているから安全運転でね」
車のヘッドライトが道路に差し込む雨粒を照らし出し、大雨の山道を走り抜ける。
いつの間にか後ろの二人の声がしなくなって振り返ってみると、案の定寝ているユウの両肩にもたれかかるようにアイカとヒメカがすやすやと寝息をたてていた。
「ヒロくんも寝ていていいんだよ?」
気付いたような母さんが優しく声をかける。
「いいよ、起きてる。天気の最新情報見ておかないとだし、それに何かあったら男の俺が率先して動かないといけないでしょ」
「偉いねヒロくんは。けど、頑張りすぎなくていいんだよ?」
「そういうわけにはいかないよ。だって俺は、
本当のところは車内の小刻みに揺れる感じが心地良くて今にも寝落ちしそうだったのだが、歯を食いしばったり太ももをつねったりしてなんとか耐えていた。
暗がりの外をぼんやり見つめ、掛けていた眼鏡の端が窓ガラスにこつんと当たる。
アスファルトの切れ目をタイヤが踏み越える度に座席下に置いた虫かごがガタンと揺れる。中身は何もない。本当ならカブトムシかクワガタムシを捕まえたかったが、今回は縁が無かった。
次の機会には必ず…………。
そう思っていた矢先、突然母さんの車が急停止した。あまり速度を上げていなかったからスリップこそしなかったが、ブレーキをかけた反動が車内にいた全員にかかる。
「どうしたの、母さん……!?」
そう呼びかけると運転席に座る母さんは何か焦りに満ちた表情で前方の方を見つめていた。
「あ、あれは……!」
俺は前のめりになった体勢を整えてフロントガラスの向こう側に視線を移すと、そこには道路上を塞ぐようにして一本の巨木が倒れ込んでいた。生い茂った枝が道路を占領し、とても軽自動車で踏み越えられるようなものではない。
「多分、落雷か何かで倒れたんだ……!」
「どうしよう、帰り道はこの一本しかないのに……」
カーナビを操作して迂回路を検索する母さん。
俺の頭の中にも覚えている限りの地図をひろげて道路を探したが、今から引き換えしても二、三時間はかかる距離だ。
それにその方向は川辺に近い橋が掛かっていて、下手をすると増水した川が氾濫を起こしている可能性もある。
こうなった場合、下手に動かずに救助を呼ぶほうが……。
「――あれっ? 携帯が……」
「どうしたの、母さん?」
「役場に電話しようとしたら繋がらないの……!」
それを聞いてお腹の奥がすくむような錯覚を覚える。
「そんな……バカな……」
試しに自分のスマートフォンで電話をかけようとすると、電話が接続出来ない旨のアナウンスが流れてくる。画面をよく見ると電波状況が圏外の表示になっていた。
もしやこの雨で電波の基地局が駄目になってしまったのだろうか。それにしたって悪い偶然が重なりすぎだ。
「――え、母さん!?」
ふいに、運転席に座る母さんがドアを開ける。吹き付ける強風と雨が入り込んで、つんざくような轟音が車内に響き渡った。
「母さん!? 何やってるの!」
「ヒロくん、今からここから走って役場の方まで行ってくる。多分、一時間くらいでつくと思うからそれまでここに待っててね」
「ここからって……ちょっと待ってよ母さん!」
そのまま外へ飛び出そうとする母さんの腕を掴んで必死に引き止めた。
「だめだよ、母さん! こんな嵐の中を生身で行くなんて! 行くなら男の俺が……!」
「駄目、ヒロくん。あなたには行かせられない。これはお母さんがやるべきことなの。それに――」
そう言って母さんは俺の頭をそっと撫でて、優しく微笑む。
「あなたはみんなをここで守ってあげて。みんなのお兄ちゃんとして」
母さんの視線が後部座席の方に向けられる。アイカ、ヒメカ、ユウト――みんなの寝姿を母さんは一人ずつ見つめていった。
胸の奥が痛くなって、家族のために自らを犠牲にしようとしている母さんの腕をこれ以上引き止められないような気がして、どうかこのまま時間だけが止まっていて欲しいと会ったこともない神様に願った。
いやだ、駄目だ。どうにかして止めなくちゃいけない。それなのに……。
「それじゃあ、行ってくるね」
そう言って母さんは俺の手を振り解して車の外へ飛び出し、ドアが閉められる。あんなに強く握っていたのにあっという間であった。
「母さん!!」
「ふにゃぁ……?」
「ううんっ……? もう着いたの…………?」
俺が叫ぶと、アイカとヒメカが気が付いたのか目を覚まして寝ぼけた声を上げる。
「アイカ、ヒメカ、母さんを止めて!」
「えっ、ママがって……?」
「止めてって……ええっ?」
混乱する二人をよそに俺は振り返ってドアのロックに手をかける。
母さんはヘッドライトに背中を照らされながら巨木に向けて走り、その幹を乗り越えようとしている。
急げばまだ――――、
そう思った時、窓ガラスに何か小さくコツンと当たる音がして俺は顔を上げた。
雨粒とは違った、何やら硬く、軽い音。山側の施工された法面の上部の方、木々が生い茂っている所から小石がポロポロとこぼれだして法面や道路上に落ちていくのが見えた。
「こ、これって……」
頭の中で何かがザワつき、そして助手席のシートの真下から徐々に湧き上がってくるような振動を感じて脳内で危険信号を発した。
「アイカ、ヒメカ! ユウトを守って何かにしがみつけ!! はやくっ!!」
二人が返事するのも確かめずに俺は急いでドアを開けてすぐさまに閉めた。そして、巨木の方に向かう母さんに向けてあらん限りの声を張って叫んだ。
「母さん、駄目だ!」
足裏から感じる確かな振動。やがてそれは山が張り上げた泣き叫びのような響きに変えて、大雨の音すら飲み込むほどに巨大になった。
「――――――!」
巨木の幹を越えようとする母さんが何かに気付いて山の方に振り向いたその時、闇のように暗い土砂と運ばれた大量の木々が母さんと巨木に向けて滑り落ちてきた。
そして、母さんの姿は闇のカーテンの中へ
「母さぁんっ!!」
大雨と強風、そして頭上で鳴り響く稲光。それらが俺の声を全てさらって虚空の中へ消していく。
耳鳴りのように響いていた山の悲鳴はまだ収まることなく、突然全身を巨大な揺れが襲った。
「うわっ!」
足元をすくわれるような恐ろしい揺れに思わず車のボンネットにしがみつくと、周囲の道路に大量の亀裂が走っていくのが見えた。
「お兄ちゃん、怖いよぉ!!」
「お母さん、助けてーっ!」
車の中からアイカとヒメカの悲鳴が聞こえてくる。頭の中の危険信号は鳴り止むどころかその大きさを際限なしに上げていって、心の底から湧き上がる恐怖感が心臓を鷲掴みにする。
いったいどこを見れば良いのだろう。どこを確かめれば良いのだろう。いったい何をすればこの状況は良くなるのだろう。
何かしなくちゃいけないはずなのに、何の思いつきも出てこなくて、ただただ揺れる大地に怯えてボンネットの上に身を預けることしかできなかった。
何もかもな無力な自分は嫌なのに――どうして、俺はまた。
記憶の中に蘇る、苦い思い出。
俺は車の中にいる妹と弟の姿を探した。
アイカとヒメカは涙に濡れたギュッと目をつむって真ん中に座る末弟の身体にしがみついて震えていて、二人に抱きしめられているユウトはいつの間にか目を覚ましていてぽかんとした表情で目を見開いていた。
闇の中の何かを探すようなユウトの視線が、ふと俺の方に向けられてその目と合う。
何故か、その時間だけは、ゆっくりと流れていたように感じて。
そうだ、あの時もこんな感じで――――。
そして、とうとう、足元の道路が崩れ去った。
周囲の道路を巻き込んだ山体崩壊は、母さんと俺たち兄妹、家族全てを飲み込んで闇の中へと連れ去っていく。
横転する車、頭上からなだれ込んでくる土砂と木々と大岩。
痛みと苦しみと恐怖のすべてが俺たちを食らい尽くして何もかもが奪われていく。
色んな感情がぐちゃぐちゃになって、最後の最後に何かしなければという思いすらも、闇のような土砂が俺の手を、足を、身体全部を捕まえて許さなかった。
閉じられていく世界、両耳から入ってくる音も山の叫び声以外には何も聞こえない。
たった一つ、自分の心臓の鼓動だけが俺の全てになった。
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