第二話
尚香の心によぎる、十年ほど前の思い出。
江東の春の陽光は穏やかに、大地は緑鮮やかで、目にもまぶしい明媚な彩り。
孫策は、西塞山よりこの方の、版図の鎮撫の多忙に追われ、久方ぶりの骨休め、供を連れての息抜きの、遠駆けに出かけんとする兄の背に、羨ましく見つめる尚香の視線の先には周瑜の姿。
孫策は妻の大喬と、なにかよもやま話。
隣の周瑜は小喬と、甘い愛の囁きか。
尚香のぽっと赤らむその頬は、春の陽気か恋の嫉妬か。
「じゃあ、夕方までには戻るからな」
見送る妻に言って、黒鹿毛の手綱を引く孫策に、なにか言いたげなそぶりの尚香。
孫策はこれから共に疾駆する馬の調子を丹念に調べ、顔をなでたりさすったりして馬に夢中。鷹揚な、悪く言えば鈍感な人間で、妹の心情の機微など察する繊細さなど持ちあわせてはいない。
そんな時、気をまわすのはいつも周瑜で――。
「おや、いかがしたかな、じゃじゃ馬さん」
周瑜は妻のもとから尚香のもとへ、おだやかに優美に微笑みながら、つっと近づく。
尚香、いささかためらいがちに、
「私も、行く」
さすがにこれを聞きとがめた孫策が、
「おまえは、まだ十になったばかりだ、我らについてくるなど、無理な話」
と、ぞんざいに言って、妹を小馬鹿にしたように大笑い。
つられて、取り巻き連中も、笑声を立てる。
だが、周瑜は笑わない。
「尚香、君はまだ、体も小さいし、馬を操る術も未熟。今はくやしいだろうが、あと五年もまてば、一緒に遠駆けもできようよ。ちょっとの辛抱、がまんなさい」
「いやです」
ぷんとすねる尚香。
「私も行きます」
と、自分の愛でるの仔馬のもとへ。
ほかっておけと、知らぬ顔で馬にまたがる孫策。
大丈夫かしらと尚香を気掛かりにみつめる周瑜。
孫策は、
「瑜、お前が甘やかすから、あいつがつけあがるんだ」
「策よ」と周瑜と孫策は
「ふん、腐れ儒者みないなことを言う。そんなものは、お前と権にまかせるよ」
まだ、馬具にもなれぬ仔馬をつれて、皆のもとへと来る尚香。
少しむずかる仔馬の背へ、たてがみを握って無理に飛び乗ろうとする尚香を、仔馬が嫌がり、棹立ちに。
後ろに倒れる尚香に、とっさに支える周瑜の手。それでも勢いとまらずに、どすんと大地に尻餅ついて、周瑜の支えがなければ、頭を打っての大惨事。
それみたことかと、兄の孫策の
その声を背に、お尻の痛みと悔しさで、目に涙を浮かべて尚香は、必死に泣きたい衝動を、こらえる勝気な乙女心。
「さあ、わかったでしょう、お転婆さん」
周瑜は尚香を起こし、彼女の瞳からちょっとこぼれた涙を指でふいて、慌てて駆け寄った小喬の手にあずけ、
「君が大きくなったら、いつか、いっしょに遠乗りにいきましょう」
周瑜は従者から手綱を受け取ると、颯爽とまたがる白馬の背。
見送る尚香は、小喬の裾をぎゅっと握って、くやしさをこらえ、いつかかならず兄を見返さんと心に誓う。
「あの時の」と尚香が、東屋の手すりを握った指は、くやしさを思い出したか力づよく、「あの時の、約束もまだ、かなえてもらっていませんわ」
「約束……」と周瑜はとぼけた様子で、「そんな約束をしましたかな」
「ええ、しましたわ。お忘れになりましたの?」
周瑜は往時の記憶を呼び起こそうとしているようだった。
――忘れていても無理からぬこと。
尚香は悲しさがこみあげる。
あのあとすぐに、孫策は死んだ。
孫策が殺した敵であった男の食客に暗殺された。
慈悲の心で敗者を許していれば、死なずにすんだかもしれぬ非業の最期。
「このまま夜駆けに参りましょうか」
いたずら顔で云う尚香に、
「ご冗談を」
と笑う周瑜。
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