浮月抄

優木悠

第一話

 十四日の月はまだ東にあり、煌々と名もなき翠巒すいらんを黒く照らす。

 うっすらとわずかに浮かぶうろこ雲は、ところどころで星々を隠してはいるけれど、月の光を厭わしくさけるように、ゆっくり流れる。

 陽のもとではきらめく翡翠の池も、月のもとでは宇宙を映す漆黒の鏡。

 江東の十月は春の気色。暖かな空気は幽愁を運ぶ。清籟せいらいは耳を慰撫する。

 孫尚香は、げんに身をもたれ、物憂げに水面に指を這わす。

 舟影に驚いて目を覚ました鯉がぴしゃりと跳ねる。

 ともに立つ少女は静かに竿を操る。

 玲琳は、愚図で気づかいの足りない百姓娘。さあれどその真っすぐな心情が気に入って、尚香は身の回りの世話をさせている。この娘だけは、この先もそばに置いておきたい。たとえこの先、碧落へきらくのかなたにこの身を流されようと。

 まだ遠くにみえる小さな島。月に照らされ浮かぶ東屋に、白くたたずむ影がひとつ。

 角灯ランタンの火さえ無用とばかりに、黒いとばりに身をひそめ、月を眺めるその姿。白き姿は月明かりのせいばかりでなく、その身にまとう気品の光か。

 影を見つめる尚香の、千々に揺れる琥珀の瞳。


 苔の彩る小島の岸に舟が寄る。と、白い影が優雅に近づく。

 影からそっと差しだす白い手に、浅黒い小さな手が重なり、影がちょっと力をこめて引っ張ると、尚香は釣られた魚のように、影に身を寄せる。

 玲琳は竿をトンとひとつき、すうっと島を離れていく。

 池の真ン中にわざとらしく盛られた小島の、周りにならぶ青柳。向こうに伸びた黒い影は岸まで届く石の橋。金にあかせて造ったつまらぬ景色。

 ――この嘘で作られた景色のなかで、あなたは真実そこにいるの?

 周瑜は白絹の衣も艶やかに、金の刺繍の揺らぐ袖。月に煌めく流眄りゅうべんまなこ

「どうして、舟などでいらっしゃったのです」

 周瑜は優しく問いかける。

「だって、こんな月の晩ですもの」

「おや、弓腰姫が風流な」

「あら、私ももう、嫁入る年ごろですのよ」

 周瑜の口が静かに、少し悲し気にほほ笑む。

 周瑜は、柴桑さいそうで先行きの展望を見据えるのに多忙の身。しかも戦場で負った傷がもとで最近は病がちの暮らし。そんな身で、情勢の報告と爾後の打ち合わせのために建業けんぎょうに来ていた。そこを尚香が無理を云って、南徐なんじょに呼び寄せたものだった。

 無理を重ねる痼疾の体、彼の美しさは以前にまして儚く、儚さのために凄艶であった。

「いつまでも、お転婆娘のままではいられませんの」

 尚香の心外そうに、ぷんとすねるその顔は、お転婆ざかりの少女のまま。

「これは、失礼いたしました、姫」

 周瑜は微苦笑で答える。

「姫はやめて、昔のように、じゃじゃ馬娘とお呼びになって」

「たったいま、お転婆は捨てたとおっしゃった」

「それとこれとは別の話」

「あなたも、わたしも、昔のままではいられないのです」

 わたしはずっと、昔のままでいたかった。

 長兄の孫策がいて、その隣りに周瑜がいて、それを私がみつめていた、あの頃のまま。

 ――あの頃に帰りたい。

 優しい風が吹き、柳がそよとゆれる。葉を揺らした風は、尚香の頬をなでる。周瑜の指がなでたと錯覚するような、懐かしいぬくもり。

 周瑜はいつも優しさと共にあった。

 孫策が没したあとも、なにくれとなく尚香家族を気にかけ、戦地から帰れば抱えきれぬほどの土産を届け、母が病に倒れれば医師をさがし、尚香が熱を出したと聞けば薬をさがし。

 それは亡兄に対する義理なのか、我らに対する愛情なのか。

 周瑜は尚香を東屋へ誘う。

 尚香は、衣のひらひらと舞う裾も厭わしそうに、だがいそいそ歩む。

 東屋の柱に掛かる角灯に、火を入れんとする周瑜の手をとどめて、

「月が綺麗ですから」

 周瑜は手をおろす、手すりをさするように。

 すっと、ひとすじ、東屋から眺める空に光の条が流れ、

「あら、星が」

 尚香が大発見を喜ぶ少女のようにつぶやき、周瑜は少女頃の面影を彼女の顔に見出して、

「人が亡くなると星が流れると云います」

「私、この前、たくさんの星が流れるのをみましたわ。いくつも、数えきれないほど。あれは、どこかで大勢の命が失われたのでしょうか」

「戦国の世で、あまたの命が失われない時などありません」

「私もいつか、流れて消えてしまうのでしょう」

 あなたはご存知ないでしょう。あなたを想い睡れぬ夜をすごしたことを。あなたはご存知ないでしょう。戦にゆく後ろ姿に涙を流した私の、想いを。

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