第三話

 うつろう談話は過去の思い出、今の暮らし、だけど、けっして未来は言の葉にのせず。未来の話を交わしても、それはふたりにとって無意味な空想。けっして訪れぬ遥かな夢想。

 歓語の時はたやすく流れ、月はいつしか天空の真ン中。

 北にある小高い北固山が黒く浮かぶ。

 甘露寺から漏れる灯火は幽玄に、山肌に星座を描く。

 兄の孫権は熱心に仏教を広める。天竺から来朝した新しい教えに、兄は夢中の様子。

 孫権は、父と長兄のもっていた猛々しさを、ふだんは心の深淵におしひそめ、ものごとを頭脳で図る知性派気質。その明晰なるはどの一族の血か。彼のような頭で考えてばかりの人間が盟主では、東呉自体が考えすぎて動けなくなる、日和見の席巻する国になってしまうのではないかしら、と心によぎる尚香の危ぶみは、ただの杞憂か。

「兄は、冷酷」

 尚香の心情がぽつりと口から漏れ出す。

「仲謀様は、民をいつくしみ、家臣を思いやる」

「ならば、その妹を――、この私を、なぜ玄徳などという老人に差し出すの?」

 周瑜はただ黙して語らず、じっと見つめる池の波。

「兄は国のために、平然と私を老人のにえにする」

 尚香の、手すりに乗せた手の、ひどく震えるのは恐れか怒りか。

「それは……」周瑜はためらいがちに、言葉をさがしながらというふうに、「それは、私の編んだ策略で……、仲謀様は私をかばっているのです。ただひとり、その身にあなたの厭悪を受ける覚悟で」

 ――やはり、そうなのだ。

 どうか間違いであってほしい。ただの思い過ごしであってほしい。女を政略の具にするだけのこの世の中で、この人だけは私を思いやってほしい。

 さいなまれ続けた、不安の日々。

 尚香は己の深憂が真実であったことを恨む。神を恨む。仏を恨む。この国を、この大地を、恨む。

「公瑾さま」と尚香は周瑜のあざなを呼ぶ。「あなたはなぜ、直接それを、私におっしゃってくださいませんでしたの?」

「それは」と周瑜はなにかためらいがちに、「姫、私を憎んでください。嫌ってください。その覚悟はとうにできております」

「あなたはどうして残酷なことをおっしゃるの。愛しいあなたを、どうして憎めるというの。あなたは憎めという。憎んですむなら、わたしはいくらでもあなたを憎みましょう。ですがそれはできない話。残酷です、あなたは残酷です」

「今は我ら東呉、大事のとき。みなが苦難に耐え、必死で戦えば、かならず豊穣の国が築けるのです。光輝に満ちた未来がおとずれるのです」

「いいえ、私が聞きたいのはそのような巧言ではありません。どうか、あなたの口からおっしゃって。あなたの言葉でおっしゃって。国のためにこの身を捧げろと」

「姫、お許しください」

「云えないのなら……」

 と尚香はいささかの逡巡のなかで、

「云えないのでしたら、せめて私に口づけを」

「なにをおっしゃるのです」

「私を抱きしめて。力いっぱい抱きしめて……」

「できない、できないのです」

「私はその思い出を胸に、玄徳の妻になります。その思い出さえあれば、私は荊州だろうと匈奴だろうと、たとえ地の果ての無聊の日々も、生きていけるのです」

 周瑜は目をかたく閉ざし、柳眉をきっと引きあげて、

「姫よ、どうかもういじめないでください」

「いじめてなどおりません。ただ私が欲しいのは、ほんの瞬きの思い出だけ」

「おゆるしください」

 周瑜はくるりときびすをかえす。

 石橋を立ち去るその背。

 追いすがる細い指。

 その指は、捕まえられぬ幻想を、もがいて握りしめようと、つかんだ虚空の冷たい空気。

 離れゆく白い影を、尚香は東屋の柱にすがってただ見送る。

 ――あなたは水面みなもに浮かぶ月のよう。手がとどくと思うのに、けっしてつかめぬ月の影。

 月は、尚香ひとりを照らす。

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浮月抄 優木悠 @kasugaikomachi

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