20XX/8/01 愛知県XX地方にて

@Nagasuka

神話と大学生

もう季節は秋だ。そろそろ街には長袖が増えて、コートやマフラーなどの防寒具が店にひしめく。若者は寒々しい季節でも特有の活発さが保たれ、気温と反比例するように熱気を帯びる。

僕はどうだろうか。21歳。大学の課題をこなす。時々伊坂幸太郎や村上春樹を読む。

クリスマスなどのイベントごとには10代のように狂乱しなくなった。これが大人になる、ということだろうか。

村上春樹の主人公のようにウイスキーは飲まない。お酒は社会にとって何のためにあるんだろうか。僕は1滴も飲めない。

ところで皆さんは民俗学をご存知か。世界各地、日本各地の文化を研究する学問である。

僕の研究室では日本各地の伝説を研究しており、民俗学の教授、南正喜がトップにいる。皆さんにここでの体験談をお伝えしようと思う。


 「僕、会話が苦手なんだ。もう一人女の子いたよね。帰っちゃったかな。」

教授とのファーストコンタクトだった。ここは南研究室。

気まずそうに言う教授は不器用そうで、優しそうで、少し愛嬌があった。人にばったり会った子供の熊みたいな、そういう印象である。鼻に乗っかっているチタン製のメガネが品が良い。

「ここは日本の伝記を読み解いて研究するところでね。東北の天狗伝説とか。関西のかっぱとか。九州の人魚とかさ。まぁ、神、鬼、妖怪の研究も入るね。うん。」

教授の喋り方はぷつんぷつんと途切れて、頭の中で慎重に考査してから口に出すような、慎ましやかなものだった。

「ここではフィールドワークはしますか?」

「あっ。愛知で、ってことかな。うん。神社があるから、そこを周ったり。時々するよ。」

この大都会愛知県に神秘的なものってあるんだろうか。喫茶店はあるけれど。


 9月に研究室に入所してから3ヶ月、僕は先輩と二人きりで教授の資料を仕分けたり、気晴らしに岐阜県の民俗誌を読んだりしていた。翡翠は健康、冷静に判断する。また、危険から身を守る、と書いてあった。

僕のいる大学は周辺に鴨川も銀杏並木もないけれど、文系棟の隅にある研究室は隠れ家のようで実際入り浸っていた。南向きで冬でも陽が暖かい。

教授は金曜に来て、それ以外はどこかに行っている。噂では奈良の狸と喋ったり東京の首塚を掘り返したりしているとか。誰が風潮しているんだろう。

「そろそろ何か指示されないですかね。」

「知らねえよ。でも、教授もマイペースだからなぁ。」

院生の男は北部優斗。23歳のアメフト部で、胸板が常人の2倍の厚さだった。一年浪人と留年をしているらしい。たまに酒臭い。

「僕、もう何をすればいいのかわかりません。授業にも意味がないし。」

「まぁ、気長に待てよ。俺もまだここにいる予定。」

彼は2ミリだけ口角を上げた。乱暴だが、悪い男ではない。


 そのの帰り道、外は乾燥していて、空気が身を切る。寒々とした枯れ葉の歩道だった。

僕は一人の女を見た。長い黒髪が艶々としている。

冬なのにコートを着ず、白い長袖、長ズボン。道端にしゃがんで、何かと話している。ちらと見た。

猫の死骸だった。前足が折れていて、片目が閉じている。カラスか他の猫にでも襲われたのだろう。女は穏やかに、その友人の頭を撫でながら、会話をしていた。

そのうち大人たちが三人やってきて、その女を車に乗せて、彼らは去った。車には名古屋精神福祉センターと書いてあった。


 「神や鬼、妖怪とか。ヒトではないものにはさ、どうやって対話をしたと、思う?」

今日は金曜日である。

外は雪で、研究室の赤々としたヒーターが中心にある。暖かくてとろんと眠い。

先輩が答える。

「巫女に乗りうつすんじゃないんすか?」

「そうだね。降霊術と言うものだね。恐山のイタコも、そうだ。」

「でも巫女も人間じゃないですか。」

「そう。そこで、いろんな道具を使う。」形代、神鏡、神棚、案、鳥居。

「お神酒もそうだ。」教授が言った。

「古代の人間は酒や踊り、時には薬物を使って狂い、ヒトではないものと、対話したんだ。各地の祭りは往々にして酒を飲み、騒ぎ、人々は興奮状態に陥る。天照大神を岩穴から連れ出したのも。ギリシア神話のディオニューソスも。」

「人間がヒトではなくなる、ある意味超越すると言うことですね。」

「近いね。」

教授はそれができるんですか?と聞くと、僕はそんなことできないと答えた。

なぜかその一瞬、教授を悲しく感じた。


 その日はバイトだった。僕は名古屋駅の定食屋で働いている。体力も気力もないので、ちょっときつい。

仕事帰り、名古屋駅のサラリーマンは陽気だ。花見帰りの酔っ払いもいた。

隣には僕と同じ学部学科の東野若苗(わかな)がいる。黒髪のショートカットで目が切れ長。背が高いわけじゃないけど、スタイリッシュな印象を受ける。

「西岡、もうちょっと動いて。とろいん?」

日本酒2合とつまみを運んだ後に僕を小突く。同じ時期に入ったのに仕事力地位ともに差が大きい。タメ口だと名古屋弁がきつい。

「ごめん。がんばります…。」

僕は酔っ払いの店内を注意しながら、少し気になって聞いた。

「若苗さんってどこの研究室なの?」

「何で。」

「だ、だって、こんなにシフト入れて、研究室暇なのかなって。あんまり学校でも見ないし。」

客が呼ぶが気づかないフリをする。

「あんたと授業被ってないだけだわ。研究室は南研究室だけど」

「はっ?」

「え?」

「僕と同じ。えっ!お前サボってんじゃん!!!」

初めて若苗さんの気まずそうな顔を見た。

「だって、行きたかったところやなかったんやもん。しょうがない。」

「しょうがなくない!おい、今度の金曜いくぞ。」

「はい…。」

「お前ら喋ってんじゃねぇぞ!!!!!」

店長の叱咤である。ごめんなさい。

あんたのせい、と若苗さんは淡い唇を尖らせた。

こうして南研究室は総勢4人となった。若苗さんとは週に最低2回顔を合わせることになる。

 

 教授は若苗さんが来て喜んでいた。やっぱり優しい。

北部先輩はドギマギしている。意外にシャイなのかもしれない。

薄汚い埃まみれの研究室で、若苗さんは窓からの陽光に当たってキラキラしていた。

外はもう暖かく、若葉が茂っている。緑が若苗さんに映えてる。僕らに足りなかったものは可視化されない輝きかもしれない。

「ところで、」教授が発した。

「夏にね。愛知の東のほうに、小さな集落の、お祭りがあるんだ。」

若苗さんが聞く。

「集落?愛知県にまだ集落ってあるんですか?」

「それがね、まぁ、有名じゃないけれど、密やかに暮らしているんだ。そこに神社があって、外部者は入っちゃいけないんだけど。僕だからって、許してくれた。」

「なんか怪しいっすねぇ。部落的な。飲み会があるなら興味はありますけど。お前、いくか?」

「行きます。」僕が答えた。

「私も行きます。今までサボってたし…。」

「じゃあ、4人で連絡しておくね。」教授は満面の笑みで言った。僕はその時、興味はあったけど不安もあった。今考えるとどうして行くと即決したのかわからない。もしかしたら、その時にはもう決まっていたことなのかもしれない。


 その日が来るまで、僕は授業と研究室とバイトで日々を送った。夏が近づいて、若苗さんとも少しはより仲良くなれた気がする。少なくとも研究室では対等になれた。虫の死骸や、急に増えたカラス、朝にはもう忘れている暗い夢とか、そういうものが確かにあったけれど、意識の表面を触っただけで通り過ぎていった。


 その日は暑く、こんな言い方はおかしいのだけど、夏らしい夏だった。名古屋市からその集落はまで教授の車で2時間ちょっとかかった。山が近くて、空が青くて、公共交通機関がバスしかなくて。僕の地元みたいだった。

「暑いねぇ」

教授はいかにも暑そうで、太った腹でポロシャツがはち切れそうだった。若苗はワイシャツに黒のジーンズ。それにピアス。新緑を反射して眩い。北部先輩はタンクトップと短パンで、筋肉が誇張されている。何かあったらこの人を頼ろうと決めた。

「まだ16時か。祭りは深夜の2時だから。あと11時間もあるなぁ。君たち、遊んでおいで、よ。でも、18時には、宿に集合して、ね。」

「いいんですか!」

僕たちは教授に少しお金をもらって、少しの間遊びに出かけた。駄菓子屋でアイスを買って、ベンチで食べた。集落の子供もいて賑やかである。

少し山に入ると渓流があった。水流はとても冷えていて、一瞬足を捉えるように感じた。三人とも水遊びは童心に帰ったようで無邪気に笑った。

「なぁ、南教授ってたまに不気味に感じねぇ?」

北部先輩が川で冷やしたビールを飲む。いつまにか持ってきたみたいだ。

「えぇ、どうして?私、あんなおっとりした人知らないですよ。」

「言っちゃ悪いけどさ、喋り方もそうだし。大体週の6日はどこにいるんだよ。授業も少ねぇじゃねぇか。」

「確かに。週の6日、教授は何をしていると思いますか?」

僕が北部先輩に聞いた。

「人、食ってたりして」

静けさが襲った。その一瞬、不思議な空気が周囲に満ちた。

「そんなことあるわけないやん!」

若苗がケラケラと笑って、元の空気に戻った。若苗のピアスが緑に光る。

あんな優しい熊みたいな、のんびりした人が?僕らは18時に宿に戻って、祭りに備えて眠った。


 起きたのは1時だった。教授はもう支度をしていた。つぶらな目が爛々としていて、祭りに興奮しているのがわかる。

「早く!君たち、いよいよ秘祭が見られる。ここの地域は死生観が濃くてね、面白いものが観れるかもしれない」

口調がいつもより早く、捲し立てるようだった。


眠い目を擦りながら神社へ向かう。電灯がなく、鳥居も境内も漆黒である。

不意に松明に火がつく。参内に50人、いや、もっとか、集落の人々の頭が見える。座って頭を下げているのだ。何かに会釈をするように。僕たちもそれに混じって座る。

後に神官がやってきて、次々に人々に液体を渡した。お神酒である。それが通常の量ではない。200mlくらいある。大人も子供も飲んでいく。

僕の番だ。僕は酒が飲めないのだ。腐ったような、酸っぱい唾液のようなツンとした匂いが鼻につく。本当に酒か?腐っているのか。しかし、僕は一気に飲んでしまった。気持ちが悪い。喉をどろりとした液体が通った。

御神体が運ばれてきた。鏡だ。火をきらりと照らす。

それぞれが御神体に映されていく。まるで正体を見破るかのように。

周囲の様子がおかしいことに気づく。

酒が効いてきた。

笑っているような、泣いているような声が聞こえてくる。

それは小さな声だった。しかし声が大きくなる。

3時をすぎた。丑満時だ。人々が笑っている。ゆらゆらと立ち始める。楽しい。

祭りの本番だ。炎も燃え盛る。ゴウゴウゴウゴウ。熱気がめぐる。熱は僕そのものだ。暑い。熱い。酩酊している?フラフラする。

陽気に皆が踊る。どこからか太鼓と笛の音が聞こえる。いつもの僕ではない。ゴウゴウゴウゴウ。叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。

ぐるぐると色が回る。手をあげる。炎と星が煌めく。揺れる。

その中心に鏡がある。鏡は光を撒き散らす。人々を照らす。写す。鏡の中の人の輪郭が崩れる。異形の者もいる。ゴウゴウゴウゴウ。何だ。つのか。しっぽか。般若か。魚か狐か天狗か。もうどうでも良い。ゴウゴウゴウゴウ。

北部は。げえげえと吐いている。若苗がそれをさする。教授は。静かにこれらを観ている。泣いている?僕の名を呼ぶ。僕は。

大学も。ゴウゴウゴウゴウ。バイトも。人間も。もうどれも、どうでも良い。ゴウゴウゴウゴウ。あぁ、あの女の人は、ヒトを外れたから話せたのだ。猫の死骸。黒髪。動物の死と命。神と魔。ゴウゴウゴウゴウ。煌めいている。


今年は僕が選ばれたのだ。


その時

混沌の中心に、光を見た。それは僕を見ている。そこだけ静かで、酔いが覚める。

懐かしさと穏やかさがある。

僕は動けない。それは僕を見つめる。美しかった。



 次に目が覚めた時、白い天井が見えた。腕に点滴がつながれている。病院だ。隣に教授がいて、泣いていた。

「すまない。本当に。君たちをこんな目にしてしまって」

大きな体を丸めて、さめざめと泣いていた。僕は急性アルコール中毒で搬送されたらしい。いつから酔いが回っていたんだろう。

教授は回復が早く、北部先輩は吐いてアルコールを抜いたそうだ。若苗だけは飲まなかったらしい。なぜか若苗だけ冷静に行動していた。

みんな無事でよかった。

後日教授から話を聞いた。彼は若い頃にある祭りで酩酊状態になり、それを再び研究対象として待ち望んでいたのだ。

今は祭りに参加したことを後悔している。僕たちのことを死ぬほど心配してくれたらしい。

喋り方は、生まれつきの吃音の影響だそうだ。

今ではまた四人で研究室で過ごしている。優しい教授はより優しくなった。


あれから数ヶ月。秋になってこの体験談を書いている。

僕は思い出す。あれは酩酊状態で見た幻覚だったんだろうか。田舎だから、変な薬草も入っていたのかもしれない。

皆さんはただの酔っ払いだと笑うだろうか。

しかし、いつもは見えない、いや、見ようとしないものが現れたのではないだろうか。もしかしたらこの世は、混沌が入り混じった、僕たちの理解を超えたものかもしれない。僕はそんなことを考えるようになってしまった。

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