第2章 2019令和への流れ パンデミー以前    その1 2019俯瞰

    やってしまった、海外移住!

2019-11-15 00:17:02報告


 あたしの弓の友(すみません、一言目から注釈付きです、自分のことを「あたし」という背後には、下町の粋な江戸っ子のおばあさん、という姿を彷彿と浮かべているこのあたしなのですが、実は真っ赤な嘘でして。日本列島の南の端の出身でございます)(二言目には注釈付き、ちょっとだけ説明させていただくと、若い頃ちょっとだけ武芸少女でした、その頃からの友人で)

 その弓友の長年家庭内別居、険悪な関係の夫が、よく行くのだけど、2ヶ月前にもその姉に会いに行ったのち急に「気持ち悪いほど」優しくなったというのです。

 理由などは聞かないようにして、目下状況を観察中だそうですが、変わらず優しいのだそうです。


 あたしなんぞは、どういう縁起か優しい男と暮らしたことがありません(実家の家族を除いて、つまり婚家ではという意味ですが)。


 とりあえず時間の関係で、時空をひとっ飛び、平成30年西暦2018年のこと。

 70年という年月のもろもろの芥がどっと押し寄せてきて、迷いと決断のはざまに立たされたあたしと夫のJBがありました(正確には、彼に迷いはなくあたしにのみでしたが)。


 JBは30年来の心不全持ち、両脚は象のように晴れ上がり紫色、唇にもチアノーゼ。まさに絶えず窒息寸前のように見えながらしかし、どこか生かされているのでした。


 あたしの高齢の母親がその前年亡くなり、息子たちは自立して、あたしは日本に用無しとなっていました。

 JB曰く:30年我慢して住んでいたが地震と台風と火山があるから日本は嫌だ。療養費がかさみすぎる。あたしおもへらく:本心は故国ドイツで死にたいということのはず。


 でもあたし迷う:

ここを終の住処と思って暮らしてきたのに、全てを整理して親戚友人皆無のドイツへ30年ぶりに帰って暮らす? 実際問題として無理でしょ、まず住まいはどうする。

 まず一度渡独して探すとしても、このJBの体で、このJBを連れて行ける? 

あてが見つかったとして、引越し準備は誰がするの! あたし一人に決まっている。全ての関節が老化し、不整脈の薬を服用中の73歳のあたしに。


 ところでその前に、彼の嫌味な性格にもううんざりしていたあたしには、そもそもこの先我慢できるかが問題だったのです。現にその時点で夫婦仲は最悪、あたしが彼という異邦人を養っているという状態(経済的にという意味ではなく)で、それに対し一言の有難うがあるどころか、高飛車な物言いばかりされて苦悩は限界に達していました。


 でも、ドイツで暮らした方があたしには楽になる点がありました。少なくともそう期待したのです。これまでと違い、JBが自分の手続きなどをするだろう、すべてについて、だって自分の故国なのだから。

 2つ目には、あたしはドイツがやや好きでした、特に朝食のスタイルとか住まいとか。3つ目にはJBが亡くなった時にはドイツで処理する方が手っ取り早い。


 しかしまた堂々巡りして、そもそもJBとさらに不定期間一緒に暮らすことが望ましくありませんでした。彼といたら全くの引きこもり夫婦なのです。どこで暮らしても彼は邪魔でした。自分が今更何をしたいかもわからないのですが。


 ある時ついに勘忍袋の、、という状態になり、あたしは本気で決意しました。離婚です。勇気を振り絞って彼に宣言してへこたれませんでした。


 しかし、一夜過ぎ目覚めた時、思いがけないことが起こりました。あたしは恐怖と不安に打ちのめされていました。別れることそのものが理由ではなく、その結果が!!


 何も自分ではできなくなっている彼と今離婚すれば、それは彼を殺すのと同じだ、という確信に襲われたその恐怖でした。罪の意識と誰かが表現したかも。殺人への恐怖。

 決してそうしてはならない、それだけはしたらダメだ、それがあたしの突然の決意でした。決断でした。余りに強い恐怖感からの強い決断だったので、それ以後は微塵も迷いませんでした。


 でその後早速、あたしは策を模索しました。別れないままでこの状況を耐えやすくする、あたしが少し上座に座れるような方法を。


 そしてその具体的な解決法をJBに申しわたしました、あたしはこれから妻ではなく介護人である。あたしの身分は実際はただの介護人、家政婦である、と。


 そして実際その立場で、これから渡独の準備をして渡独して、環境を整え、また帰国して引っ越ししてのち再渡独、移住、という企画を了承しました(というより自ら立案企画実行したのです)。

 最後は故国で、とはあたしのせめてもの思いやりでした、敢えて言えば。



 まあ、思いやりと言っても裏側には利己的な面もあったわけですが、もう一つ付け加えればあたしの終活活動の一環でもありました。ぐちゃぐちゃと絡まった理由です。70年も生きていると本当にゴミ芥のようなものが溜まっていてこんがらかっているものです。


 決断の別の重要な要素なのですが、これはなかなか吐露しにくい事柄です。

 終活といえば流行りの概念、わかりやすいのでこれに乗ってしまうことにしましょう。長い一筋の川の流れです。淡々と辿ってみます。

 岩にぶつかり淵をさまよい、絶えずうねり泡立ち、

 引き込まれそうな渦から渦へ。。。


       ********


35歳まで順当に思い通りの生活と2人の自慢の息子あり。

JBに出会いふと目が眩んだ途端足をすくわれ、親権なしで離婚と再婚。


これまた自慢の息子誕生。難産体質で、昔なら出産ごとに命を失っていたでしょう。

たちまちに馬脚をあらわしたJBのDVに耐えながら、父親譲りの宗教心を支えに許し続けること20年間のとき、

最悪の事態、長男の自死に見舞われ暗黒の日々となります。

その数年前からJB罹患。


70歳となり、母親を介護しながら父親に母の処遇を託されたように感じ始め、「嘘でも明るい死後」を探究する人に変身します。


謎解きの糸がスルスルと解けるように逢うべき人が登場し、読むべき本が眼前にあり、導かれて、聖霊の世界が開かれていきました。

母は比較的穏やかに父の元に旅立ち、あたしにはその後いつも母と共にある確信がありました。


こうして今思えば、早世の長男は見えない世界への道先案内人でありましたが、それのみならず、逝ったその日はあたしの父の生日であったのです。これを重視、時を超越した、同じ霊的使命を持つ二人であるはずだとみなし始めた時、ここが神慮の存在を信仰する契機となりました。

自ずと、次は夫JBを母のように立派に旅立たせることが自分の使命となったわけです。


このような複合的な理由から、海外移住の決断は揺るがぬものとなり、誰もが信じられないというような強さと運の良さであたしは2018年4月から12月までを乗り切って、初志を貫徹し、JBをドイツ式治療の流れにのせることができました。


      ********


 しかし、そこまでこぎつけた後、まさにここでJBの一層の醜さが現れました。


 治療を受けサイボーグ化したのに結局は苦しさの進行が止まらない上に、腰痛というさらなる苦痛を得たJBはすべての責任があたしにあると思うようになり、これまで聞いたこともないほど口汚く罵るのでした。

 これには、あたしも傷つきました。本当の憎悪をJBに感じるようになりました。


 環境は整って揃ってきたのに、JBだけがあたしの人生のトゲとしてあたしを苦しめる、その構造がドイツで確定してきました。


 どうする?! 土壇場です、二進も三進も行かない蟻地獄でした。



 ふと(言葉通り知らぬ間にあたえられたかのように)、この自分の感情、あるいは自分のこんな見方をどう処理するか、が問題だと分かったのです。つまり、世間との接触ゼロのJBは世の人々には無いも同然の存在で、あたしの目にのみこの姿として存在しているのです。

 あたしがこのようにJBを認識しているのです、この感覚器官とこの神経組織が。


 ここまでが、あたしの決断の結果です、平成最後の頃までの。

 もちろん、上記のような絶望状態に放っておかれるようなことはありません、我々の関係において(あたしと神との培ってきた友情関係において)。


 アカシアの白い花房が香り、ナイチンゲールが夜もさえずるこの神韻馥郁たる樹々の、緑の光線に包まれて、老婆の無心の念仏が続けばいいのですが!


      *********


まだ足らず 悔改むもどこまでもボス最強となりゆくゲーム

天国の中に唯一トゲトゲし 喚(よ)ばはる声に負けてはならぬ

彼以外愛に満ちたる浄土なり どうしましょうね魂に訊く


笹舟を落とす水面に無数の輪 生れては止まず海までつづく

憶ひ出せぬ丸やか黄(きい)のあの果実 十三夜月見れば食べたし

リラの節みどり日々濃し日々日長 夕べ待つなる夜うぐひすや


三十年平らかならず 意味なしと思へど耐えて残余にぞ賭く

花終えて青葉の隧道仰ぐこの輝かしきかも生物なる事

樹のごとくわが立ちをれば頭上にて黒歌鳥の姿と声冴ゆ

********




     頭がまとまらない、、、

2019-11-17 00:52:59報告


 頭がまとまらない、という言い方はどこかおかしい、とは思うのですが確かにそんな感じなのでお許しいただくことにして、さっさと次に行くことにいたします。

 少なくともわかっていることは何かというと、


 漏れ聞くところによると日本画を描く時、まず薄い色でざっと塗ってから、次第に色味を上塗りして順次、光が物質に反射する結果を模倣して紙に定着させるとか、ですが、それを今思い出したのですが、それは今からあたくしが(今日はなんとなくこんな呼称になりました、自然の動きなので(?)お許しいただくことにして)書こうとしていることもそんな風に、まずは荒いタッチで大まかにスケッチ、色塗りしていき、次第にまとまって現れるようならそれを徐々に再現していく、と言うのはどうだろうと考えたからなのです。


 十分にわかりにくく書いたと思いますが、何しろ、誰にも興味のないようなことを誰も目を止めることもないような年寄りが書こうというのですからこんな自由気ままな有難いことはありません。


     *****

 現在の時は2019年令和元年11月なかば。13カ月ほど前でしたが、2018年10月、ドイツに移住敢行、ダンナのJBが入院、ペースメーカー装填が終わった年末には、うちのソプラノ歌手の大家さん母娘の年末コンサートに二人で参加するというちょっと晴々しい人並みの行動ができましたっけ。


 さあこれで、感謝したJBがひょっとして、あたくしの願いを全て聞き入れ、下にも置かぬ扱いをしてくれるかと3秒ほどつい思ってしまったのが口惜しい。何故に口惜しいかと言うその口惜しさの始まりが正月4日のこと。ダンナがぎっくり腰になってしまったのです。

 そのきっかけというのが、あたくしの意味嫌う彼の悪癖の一、潔癖症の故なので具体的なことを思い出すさえ腹立たしいのでここでは省かせていただきます。


 息苦しさと腰痛に絶えず直面する朝夕が4カ月、とうとう令和になってしまいました。

 その間の彼の態度は、簡単に整形外科にでも行けるような制度でも環境でもなく、自動車はない、知人の助けはなし、思い切りがあるでもなく、絶望にふさわしいものでした。そのゆえのJBの悪口雑言には、最初感心してしまいました、こんなにもたくさんの罵る言葉や言い回しがドイツ語にあるものだと。


 しかしそれらは、あまりに単純に理由なくあたくしを誹謗、中傷、蔑視するかなり尋常ではない激しさと憎悪に満ちていました。初めて自分が傷つくのを感じました。その後起こったことを思うと今では、この時の自分の絶望が尾を引いていたのかもしれないとわかります。


 しかし、とりあえずはなんとここから脱することができたのです、あたくしが。それは近くのナーエ川にかかるブール橋に佇んでいた時、誰かの高笑いが響いた瞬間です。

 おっさんがガハハハと、まるでトトロの口からでも出てくるような胴間声の高笑いです、人間とは思えないほどの声量で川面を移動していきます。

 そうです、人間ではない、あれは笑いカワセミだ。NHKの唱歌で流行ったことのある「笑いカワセミに聞かれるなよ、ワハハワハハと笑うだろ」みたいな歌詞が突然湧いてきました。どんな鳥かも知らないが、そんな鳥がいて今鳴いてくれた、笑い飛ばしてくれた、とあたくしには思えたのです。そう思うことが大事でした。


 春から夏にかけて笑いカワセミ観察に夢中になって時間を過ごしました。ちなみに日本の動物園いくつかにも飼われていて、知る人ぞ知る珍しい可愛さのカワセミの仲間だそうです。


*********


あらうことかワラヒカハセミそこに居る 双眼鏡ごし亡母にも告げて

天空に笑翡翠従はせ ゆらゆらとわが世界い行かん

脳裏より出づる呪文のごときもの わが魂(たま)揺する理と愛を記す

春光のどつと来たりて青き花 紫の花われを見つむる


      *********


 古い言い回しですが、ドンマイドンマイ、とばかり「困ったちゃん」の「いじめ」を受け流そうと、そんなものに引っかかってはならじ、とばかり今年5月、令和の御代ともなると、まずは末の息子、続いて友人二人の訪問に焦点を当てつつ、日常の買い物や通院その他の社会的通信関係?を整えていく日々の間に、あたくしの自室が2階に完成しました。

 引っ越しの時の段ボールを積み重ねた方丈記並みの簡易ハウスですが。ベッドはなんと空気ベッド、空気の上に寝るのです、仙人のようじゃありませんか!!  

 いい寝心地です、しかもJBは階段を上がれないので下の部屋、さあこれで何の邪魔もないのですから、次第に安定剤も服用しなくなり、今や自称本職となったかの「神の定義の追求」をしながら、自分の健康にも気を使えるかと思い始めた頃。



 なんの因果か、宇宙の思惑などわかるはずもない人間には想定外の出来事が、出会いが準備されておりました。この数年、何者かと語るようになってから驚きの連続、その波に乗ってきたのみのただ今の現在です。(風雲急を告げてきたので、あたくしなどと言うまどろこしい呼称を改めます)

 顔見知りに過ぎなかった近所のドーラ女史が何故かあたしに近づいてきた時(バス停留所で)、あたしにもある直感が働いて笑顔を返しました。お互いに話し相手として不足ない、と感じたわけです。6歳年下で、小太り色白のひとり暮らし。彼女の方から来し方を物語ってくれたところでは、まさに事実は小説より奇なりそのもの、いずれ日本語でひとくさり小説化することになるでありましょう。


 そして自分の実体験と保健関係の仕事の知識から、たちまちJBの本質を見抜き、あたしがその影響で逃げるに逃げられず、もがいているのを察知したのでした。

 要するに、この手の男は実は弱虫で、相手のエネルギーを吸って自分の小さな世界を守るのが生きる目的であり、そのための手段が妻への道徳的DVである、依存してしがみついてくるのを1日も早く切り離して逃げるのよ! そうでなければもうあなたが滅びてしまうから!  

 もう遅いのかもね、逃げるのが怖いのでしょ、だから理屈をつけて彼の言いなりで不自由の極み、世話を焼くのをやめられないのよ、その信仰研究なども言い訳に過ぎないのじゃないかしら? 彼女と短時間話している間にも絶えず電話をかけてくるJBを憎々しげに暴いてみせるドーラなのでした。


 それは共依存ともコペンハーゲン症候群とも言うらしいのでした。そのせいでつまりはあたしは精神分裂症みたく、別れたいのか別れたくないのか、その両方に引き裂かれていたのです。しかも片笑みを浮かべながらドーラが言うには、彼の言いなりになって世話を焼くほど彼は深みに落ち壊れていく、あなたのせいよ、あなたが切らなくては。


 これに気付いてから、徐々に話し合いを進めたり入院したりと言う夏を経て、9月には怒鳴り合いを経てJBが「もういい、うんざりだ別れよう」と言うまでになり、10月にはそれでも徐々に、階下と階上の別居生活に慣れてき、流石のJBもあたしのきっぱりとした口調とあたしへの憤怒のために(これについては多々述べるべきことがありますが)、依存的な態度を減らして行きました。


 ここまでは遅々とはしているものの予想した以上の良さそうな成り行きではありました。


      *******


 数日前、11月17日夜のこと、2年後とはいえ滞在ビザ更新の件を抱えているあたしは、ネットでドイツのその手の法律を検索していました、ググっていたのです。読んでみても手に余るので、この時ばかりはと検索ページをコピペして彼のメッセージに送信してみましたが、何と見た目とまるで違うアドレスか何かがずらりと並んでいる! そこで追加して「最初の3行のみをコピー検索して」と書きました。


 彼もパソコンで何かしているので嫌がるだろうとは思ったのですが、案の定、面倒なので適当にクリックしたようです。

 すると、現れたサイトはクエッションマークの文字のみでできていたのす。

 Googleに戻ってもそこがクエッションマークの羅列です、試しにウイキペディアを呼び出しても同じでした。ほとんどが使い物になりませんでした。二人とも、どちらも青くなったり赤くなったりして息もつけません。


 これは大変なことになった、とんでもない事態を引き起こした、もちろんJBは怒り心頭で罵り回るのですが、あたしはぐうの音も出ず言い返すことができません。

 そして不意に、謝罪の言葉を発する準備が心の中でできていました。


 これまで40年近い結婚生活で彼に謝罪したことはありませんでした。あたしの言動は適度なものであるか、せいぜい彼のネガティブ悲観的怨嗟的権力的言動の影響で歪んでしまったことはありますが、根本的にあたしの罪では全くないと感じて恬澹としていることができました。


 そのあたしが今、妙にスラスラと素直に謝罪の言葉を並べることができました。非常に重要な言葉遣いであり態度でありました。JBもやがて鎮まりました、次の手段を考え始めました。


 翌朝、目覚めてからしばらくいつものように考えるでもなく、問題を提示し直し、隠り身と(この古い言葉はかみと言う言葉の由来であるそうです)共に考えてもらっていると、強い考えが浮かび上がってきました。


「これまでの考えの根本は自分は何も悪いことはしていない、全ての苦悩と言動の全ては彼の変な性格の影響でありそれが原因である、と言うものだったが、本当のところ、実は自分が彼の人生を狂わせ、苦しめ、今の姿にしてしまったのだ、おそらく人格の変形も含め」


 確信でした。こんなにもすっくりと浮かび上がってくると言うことは、徒や疎かに考えてはならないとわかりました。途端に、どうしたことでしょう、あたしの心が軽くなりました。彼に罪がないなら、じゃあ、彼は尊敬すべき敬愛に値する人間なのだ、と嬉しくなりました。

 彼を尊敬し大切な価値あるものと思えることが嬉しかったのです。


 振り返ってみれば、数年前「あなたに罪はありません」と声を聞いてから始まったあたしの真理探究であったのです。今度は逆ですか、またもや心軽く嬉しいとは???


 あたしよ、大丈夫か!!!???

 あたしは一人で笑いました、この嬉しい心はなんとしたことだろう????

 階下から「ごはんもらえる?」と声がするとあたしは優しく「いいわよ」と返事する。心が優しいのがわかる、それが嬉しい。

 あたし、バカじゃなかろうか、おかしすぎる、愛とか和解とか同居とかそんな現実のテーマとは関係ない、なんなのだこれは????


 幸いにも今日は精神科医との予約がありました。待ち構えていたあたしが、強く目を光らせながら受付に行くと、

「あら、取り消されてますよ、ありませんねえ」!!


    ********


霜月の陽だまり草の花咲けど あはれとぞ見ゆその勘違ひ

絶ゆるなく為事にまみれ 解決を図らんとせどミスばかりなる

合点せり 「我に罪あり」嬉しさは敬愛すべき夫となるゆゑ

声降りて「罪なき我」とわかりたるあの時と今 いずれが狂気

われ決す わが罪ゆゑに別るるを夫決すらむ「妻は破壊者」

年下の夫の夢わが 踏みにじり苦しめたると素直に詫びむ

*******




     あとは煮るなり焼くなりお好きに

2019-12-01 02:09:48報告

 

霜月尽

 今日という日があと7分という時になって、書く練習でもしようという気になり、このPCを開けたところで、一体何を書きたいのかな、と自分に問うた。うん、そうだ、タクシー関連だ。


 今日のタクシーの運ちゃんが、年齢不詳の細身小型の男性、頭がツルツルに剃り上げてあるのは年齢の目安にはならない。若くても額が広くなってくるといっそ全部を剃り落としてしまうのが流行っているから。そう言えば江戸時代の武士は何を思って、元服するや額を剃り上げたのであろうか。 

(岩山と川と森に包まれたこの保養地は、街から車で15分ほどかかるのでタクシーを自宅に呼ぶとなかなか来ない。流しのタクシーはなく、一元管轄されている「タクシーセンター」に電話する。そこには声の違いからすると二人くらいしか交換手がいないように思われる。タクシーはお揃いの色でひと目でわかる。困るのは時に、運転手が動くのも大儀そうな超体重だったり、脚が痛そうにしていたりすることだ。年寄りや細々とした女性運転手であっても内心「あらまあ」と困って、車椅子をトランクに入れてもらうのに気兼ねして手伝おうとしてしまう74歳のあたしなのである)

 

 で、彼は、もう数回我々を乗せていると言って、住所をスラスラと暗唱した。旦那のJBと珍しく買い物をした出先から帰宅しようとしてタクシーを呼んだのである。彼のその声音となんらかの間隔の置き方が、あるアメリカの有名な俳優を思い出させる、前回もそう思ったと思い出して自分でもおかしい、聞いている英語の歌がどこかカントリー。


 いきなり尋ねてきた、日本語の「おねだり作戦」ってどんな意味ですか?どうしてそんな言葉を知ってるのかというと、歌の歌詞だという。


「舐めたらいかんぜよ」は? は?

「煮るなり焼くなり好きにしろ」は? !!


 この一年で日本の歌の世界が変わったらしいわね


 いえ、この歌はもう五年くらい前ですよ、三人の女性で。そのギタリストが最近死んだとか、スマホの自撮り中に事故になったとか。


 (ふ〜ん、ヤフーの記事のタイトルにそんなこと書いてあったような)


 家に着くと、チップを2ユーロ前後あげる、面倒だが。

 タクシーの重いドアを渾身の力で自分で開け、鍵束を引きずり出して最初の鍵を最初の鍵穴に突っ込む。廊下を通り、さらに二つのドアを開閉し、階段を下って自宅のドアにたどり着く間にも、あんな世間を斜めに眺めたような台詞を、とおかしい。



******

 2週間ほど前、いきなり自分が罪人だと感じ、同時に相対的に価値が上がってしまったJBを、ああこれで尊敬できると喜んだこと(すべてあたしの心のうちの出来事、しかし本人もあたしの心の変化は感じているらしい)、セラピストの40代女性のドクターは、こんなあたしっておかしくないですか?とあたしが尋ねたのに対し、いいんじゃないですか〜 気持ちが軽くなるのなら、と簡単に答えた。


 精神科医って頼りになるのかな、とその反応に少し不信感を抱いたことがあったよなー、この秋の始まる頃、JBの神経が急に高揚して、食べ物は天にも登るほど美味に感じ、テレビを見ればすべてに世界の真実が告げられるのを感じ、あたしにそれらを語ってやまず、眠らなくなった時、この多幸感というか全能感について、彼らに訴え尋ねた時、一人が「肝臓の病状でそんなことがありうる」と言った他は、特に言うべきことが無さそうな顔をしていたのだ。(この経緯についてはまだ詳しい報告書書いていない!)


 (現在の流れに戻って) 一応、そうか、と受け取ったあと、人を敬愛できることの嬉しさを感じる日々が続いたのだが、勿論そのうちにまた馬脚も現れるし、日々の問題も生じるわけで少し擦れてきた時、また啓示を受け取った。


 この2年間、いわゆる「塞翁が馬」あるいは「幸不幸はあざなえる縄の如し」そのものの、プラスとマイナスの出来事の波に翻弄されてきて、マイナスの波に溺れないようにとプラスの予想外のプレゼントあることを感謝しながら過ごしてきたのだが、マイナスの波の由来については見当もつかないので考えていなかった。

 そこへ、目覚めたばかりのぼんやりした頭に「業・ごう」という概念が生じた。生きていくことは何かを押し除けて潰して利用していくことであるわけだしねー。スパとパズルがはまった。


 翌日には矢継ぎ早に、もう一つのあたしの疑問に回答が与えられた。息子にさえ嫌われている父親(この事件もまだ触れていなかった!)、ペシミストで非難と誹謗ばかり、つまり自分の偉さを常に確認するタイプの人間とあたしのようなお人好しタイプの間に生まれた理性的平和的心の広い息子、このことをどう意味づけるかの答え、とんでもない答えを教えられたのだ、意識にふっと浮かんだ。


 つまり、ペシミストの遺伝子の一系統が途絶えたということである。お人好しの遺伝子が生き残ったのだ。びっくり仰天。息子に伝えたら喜ぶかも。そうでもないかなー、ちょっと論理に無理があるから、笑われるかも、でもあたしのこと嗤いながらも嬉しいかも。


 そうこうするうちに、何でもないことだが、

 フライパンのガラスの蓋、そのつまみを固定しているネジが次第に緩んで外れた。部品の一つに小さなプラスチックの黄土色のつなぎ?もあったのを、これは無くしそうだから注意しようと、意識的に調理台に置いた。


 翌朝、それが見当たらない。紙屑に紛れて捨てたのであればもう処置なしに近い。


 午後に、何か踏んだので見ると信じられないことにそれがあった。


 有難い、と思ってまた調理台に注意深く戻した。しばらく後にはまた自然に消えた。目を皿のようにして、まるでサーチライトを照らすように舐め回すように見るがない。そしたら、多分(おかしなことにもう忘れていて詳しくは思い出せない)また床に転がっていた。


 もう一つ面白いことを思いつかせてもらったが、今朝はあまりの眠さに起きてメモするのを怠ったために永遠に失ってしまった。残念、こんなことはいくつかある。


 そして今日のマイナスの波の締めくくりに、またコンロの火を消し忘れて鍋を焦がし、美味しいスープを台無しにした、これは単に老化の結果であるのだろうが。


 そこで、

「あたしも努力しますし、あとは煮るなり焼くなり好きにしてください」というのがこうして、いつもの神との対話の結句となった。う〜む、努力と言っても自分の意識の動きや働きを当てにしていいのかしらん。


           ********


日々メモる秤の数字 世に溢れやまざるコピー用紙のうらに 

紙のなくスマホの「メモ」に口述す 変換エラーあれど失くさぬ

歌心想ふいとまも無き淵に二十日を経たり メモも残さず





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