第5話 幕間1


 朱音が受付から去った後、リサは周囲の目を気にしながら、長めに息を吐く。

 本人の前ではおくびにも出さなかった彼女だが、その実、緊張からだろうか。どっと押し寄せてきた疲労感と、重怠い肩に自然と手が伸びた。


(なんだ、思ったよりもいい子じゃない)


 とはいえ、その緊張を強いられたのも途中までで、その後は随分と和やかな時間だったと言える。


 節々にちらつく粗野な振舞いを抜きにすれば、風間朱音はリサにとっては中々に好感がもてる人物であった。手続きの終了後、朱音が素直に感謝を口にした事も、最悪を想定していた心象を覆すには十分な理由だ。

 リサのファミリーネームで家格を判断し、傲慢な態度でもって接してくる者は少なからずだがいる。それと比べてしまえば、朱音など扱いやすい部類の人間であるのだろう。


 あ、となにかを思い出したように、ひょこひょこと受付へと戻ってきた彼女が。「お茶、美味しかったです。お菓子も」と告げた時など、リサはお茶の一、二杯を振舞うくらいやぶさかではない心境になっていた。あくまでも、気持ちの上でとつくのだが。

 朱音といえば、口に出してスッキリしたのか、リサの返事も待たず再び来た道を返っていく。


 その後ろ姿を見送りながら、彼女は先日にあったとある出来事を思い出していた。



 リサの本職は、飛空艇の受付嬢ではない。シルフィードの運航日を除けば、アスガルドで事務員をしており、そちらの方が主な仕事である。物資の輸送には、専用の飛空艇が別に存在しているため。シルフィードは基本、行事ごと以外はアスガルドの本島で停泊している事が殆どだからだ。停泊中は来客用のリゾートホテルとして使われており、結構な人気だとか。

 入学式を二週間後、始業式をその翌日に控えた今、普段よりも忙しない日々を送っていた。教員や事務員らの仕事量は膨れ上がる一方で、予期せぬトラブルに仕事が増えた事もあり、満足に休憩も取れない日が続いている。


 その最中、リサは意外な人物からの呼び出しを受け、普段はあまり使われる事のない第三資料室へと足を運んだ。


(何故、第三資料室なのかしら)


 この時、既にリサは漠然とした不安を覚えていた。職員室から離れている第三資料室の区画は、他に出入りのある部屋もないため閑散としている。会議室や応接室の空きがある中、指定されたその場所は話し合いにはそぐわない気がした。

 ともすれば、やや含みをもたせた密会という文字にはうってつけの場所である。


 リサは控えめに、三回ほど扉をノックした。次いで、扉の向こうから「どうぞ」と声が返ってくる。

 彼女の表情は自然と硬くなり、触れた取っ手に力を込めながら、扉を押しひろげた。


 第一、第二と比べると、保管している物が相当に古いものばかりなせいか。室内は少しカビ臭く、古書の匂いが立ち込めていた。

 音もなく舞い上がった埃がちらちらと光を反射する中で、古紙の匂いに包まれた女が一人だけ佇んでいる。


「失礼します。お待たせして申し訳ありません」


 室内に滑り込む様に入室したリサは、開口一番そういって頭を下げた。予定よりも早めに訪れた彼女に、何ら非はなかったが。先方はリサよりも、色んな意味で立場が上である。


「お疲れ様です。忙しい時期と知りながら、お呼びだてしてすみません」


 そんな事で目くじらを立てる程、その女性が狭量ではないことは知っている。けれど、抑揚のない口調で、労わりの言葉を投げかけられ、密かに安堵したのはリサの緊張をよく表していた。

 いえ、そんな、と謙遜する様子のリサを前に、女はスクエア型の細いフレーム眼鏡をくいっと押し上げた。涼し気な目元が、より知的な印象をより深める一方で、凍てつくアイスブルーの瞳は彼女の気強そうな一面を克明に表しているようにも映る。


「リサ=ウィルソン。貴女に頼みたい仕事があります」


 軽い世間話から、などという考えはリサの甘えでしかないのだろう。早々に、女は本題を口にした。


 アピス=グラモロー、学院長の秘書を務める彼女は職員の中でも際立って優秀な人物であり。同時に無駄を嫌う女としても有名だ。


「今年の編入組ですが、珍しく倭国出身の者が数名いるのは知っていますか?」


 アピスの問いに、リサは頷く。


「その内の一人、風間朱音が学院に着く間のサポート役を貴女にお願いしたいのです」


 しかし、続けられた言葉にたいし、彼女は素直に返事を返すことが出来なかった。

 もともと気だての良いリサは、頼まれた仕事を断ると言う事は滅多にない。貴族という出自でありながら、傲慢さとはほとほと無縁な性格と、仕事を選り好みしないその姿勢は、アピスら他の教職員らの目にも留まっていた。


 その彼女が窮する様子に、アピスの視線は険しくなる。

 思わず震えあがりそうになるリサは、それを寸前の所で堪えた。しかし、その肩は小刻みに揺れているようにも見え、一回り程彼女の気配が小さくなった気さえする。


「まさか貴女も、ノーフェイスの噂を信じているのですか?」


 リサは相変わらず黙り込んではいたが、アピスの目には肯定として処理されたらしく、困ったように溜息をついた。

 しかし、リサから見ればほとほと呆れたような素振りに思えてしまい、余計に肩身が狭い。


 ノーフェイス。複数の身分、名前、顔を持つと言われる魔術師。

 宮廷の陰の支配者だとか、王家直属の非公式部隊の長であるとか、眉唾物の古い噂話の一つだ。


 ノーフェイスに会ったとする者達の証言は、全てにおいて一貫性がなくバラバラで。戯言と切って捨てる者いれば、やはり実在したのだと騒ぎ立てる者もいた。


 不透明な事柄のほうが、より信憑性が宿る噂は、アピスにとっては許容しがたいものだ。しかし、そういう類のものこそ、風に運ばれるが如く、瞬く間に広がり定着するのだから質が悪い。


「あんなものはただの噂です。そもそも、アスガルドは、国から認められた学院式魔導機関。魔術師一人が介入して動かせるものではありませんよ」


 アピスの言葉に、リサは慌てて首を縦に振った。思いの外強い語調に呑まれてというのもあるが、アピスの正論にリサは不思議と安心感を覚える。


「今回の件に関しては、確かに多くの方が疑問と不満を抱ており。問題視されている合格者が、アスガルドの歴史を鑑みても異例である事は私も認めています。ノーフェイスが関わっているなどという話も、おそらくはその不満を消化しようと無理にこじつけたものだと思われます」


 彼女は事実を都合よく捻じ曲げる事はせず。けれども、アピスの中の正当性が全く揺らいでいない事はリサにも伝わった。

 しかし、アピスが言うように、リサが知る範囲でも、その件に関し難色を示す者の方が殆どである。


 が、リサはそれと真っ向から対峙した声をつい最近聞いたばかりだった。


「望まぬ声ばかりではないようですよ」


 と、言いながらも、随分とオブラートに包んだものだと、リサはどこか辟易とした面持ちをする。

 その事で、実は職員室が惨事になりかけたなどと、口が裂けても言えるわけがない。相手がアピスならば尚更だ。


 彼女が返事を濁らせたのも、ノーフェイスの噂よりも、この一件が根強く残っていたせいもあった。


 リサの脳裏に、あの時の光景が蘇る。


 彼女が気を配る程度に、再三言わせて貰えば、特に学院関係者は今の時期多忙をきわめる。


 仕事に追われる状況の中、職員達の顔には当然疲労の相が浮かび。差はあれども、皆が皆ピリピリと気が立っていた。そんな中、白兵技能教官であるボルトス=ドナートの浮足立った様子は特別目立っていたと言える。

 元より陽気な所はあったが、酒でも飲んだような高揚から鼻歌まで歌い始める始末だ。始めは、そんなボルトスに対し、周囲も苛立ちや疑念の目を向けていたものだが。とうとう、業務よりもそんな彼に関心をひかれた教師の一人が理由を問えば、彼は意気揚々、声高々にこう答えた。


「いやぁ、今年の編入生にな、中々骨のあるやつがいるんだよ!」


 本人としては抑えたつもりだろうが、その表情は期待に膨らんでいる。

 その台詞が聞こえたのだろう、数人は動きを止め、彼の方に視線を送る。リサも、その続きに感心を持ったうちの一人だった。これがボルトスでなければ、苦言の一つや二つ飛び出していたかもしれない。


「そんなに凄い子なのか?」


 そう再度突かれれば、ボルトスの中の自制心は呆気なく弾け飛んだ。


「俺の見立てでは、同年代の中でも頭一つ分は抜けているなッ。あの膂力とスタミナは、下地をしっかり踏み固めてこなきゃ作り出せねえし。剣術や身のこなしは、粗削りな所はあるが、それでも油断出来ないレベルだ。ついつい、最後の方は教師の立場も忘れて少し本気で打ち込んじまったよ」


 その言葉に、途中まで軽い気持ちで聞いていた教師の顔がさぁっと白んでいく。気のせいではなく、ボルトスを中心にして波のようにどよめきが広がった。


『あのボルトス=ドナートが、少しとはいえ本気で打ち込んだ』、という事実に驚きを禁じ得ない。


 ボルトスは同じ教師たちからの信頼も厚く、頼りがいのある性分から一目置かれている。また、その実力から積み重ねた功績は数知れず、教師をする前は騎士団所属の実力者として名を馳せており。一時は王国の騎士団長候補だったという噂まであった。


「本気でって、大丈夫だったのかそれ」


 いくら有望視されているとはいえ、十代半ばの少女が、そんな男の一撃を受けて無事でいられるのだろうか。過ぎた事とは分かっていても、聞かされた教師は泡を食ったように言う。


「なに、怪我はしてねえよ。剣は折れたがな」


 青い顔の同僚をよそに、ボルトスはさもなんて事のないように笑った。

 その様子を見れば、大した怪我は負っていないのだろうと。周囲が安堵の息を漏らしたのも束の間、室内に怒号が響き渡った。


「ボルトス=ドナートォオオ!! 何を考えてるんだこの筋肉ダルマがぁあああ!!」


 扉を殴りつけるように押し開いて現れた男を、周囲は唖然と見つめる。

 落ち込んでみえる眼窩と、こけて浮き出た頬にはやつれを塗りつぶす狂相を感じさせ。肩口で切り揃えられた髪を振り乱し、金縁のモノクル越しにボルトスを睨む目は鋭く三角に尖っていた。


「誰が筋肉ダルマだって、若禿のフィリコ=モンタネールさんよぉ!!」


 すかさず怒鳴り返したボルトス。騒々しさという面では両者共、勝るとも劣らないのではないか。

 皮肉にも、男二人に挟まれる形となったリサは、オロオロと視線を左右に彷徨わせた。


「はっ禿ではない! 戯言を言うなッ」

「いいや、間違いなく去年と比べて一センチは後退してるな」


 ボルトスが言う程、フィリコと呼ばれた彼の頭が寒々しい訳ではなかった。むしろ、指通りの良さそうな髪質を異性の同僚らが羨ましがる時だってある。

 少し広めに見える額を揶揄しているのだろう。褒められた事ではないが、フィリコも似たような事を言っているのだからお互い様といえる。


 アスガルド女学院、魔術師教官であるフィリコと。白兵技能教官であるボルトスは、謂わば犬猿の仲だ。顔を付き合わせる度、今の様に言い争いを繰り返している為、学院内でも周知の事実である。

 しかも、その因縁は今に始まったものではなく、二人が学生時代まで遡るというのだから、相当に根深い。

 

「そんな事よりも、これはどういうことだ説明しろ」


 フィリコは握りしめていた紙を、ボルトスの鼻先へと突きつけるように広げて見せる。

 皺の寄った紙を覗き込んだボルトスは、じっとその内容を目で追う。そうして、ゆっくりと顔をあげた彼は鼻を鳴らし。


「どういう事って、合格者名簿だろ。見て分かんねえのか」


 見たままの事を口にした。

 すると、フィリコの両の目が更につり上がり、その顔はたちまち赤く染まっていく。


「はぐらかすな、何故彼女の名前がここに上がってるんだッ」


 追い立てるように、フィリコは指で問題の箇所を何度も叩いた。皺だらけの紙は、その調子に合わせてカサカサと揺れる。


「そんなもん、合格したからに決まってんだろ」


 途端、ボルトスはニヤニヤと笑う。それは抑えようにも抑えきれないといった様子だった。


「ふざけるな、僕はこんな事認めない。僕だけじゃない、他にも反対意見が出ていた筈だろう」

「はぁ? お前らの私情なんぞ知らねーよ。大体、お前よく結果が全てって言うじゃねえか。結果が出たんだから大人しく受け入れろよ」


 反対に、フィリコの額には青筋が浮かび。あり得ないと言わんばかりの表情で、ブルブルと腕を震わせた。

 首を縮めて、尚もへらへらと笑っているボルトスを前に、彼の頭は細糸がブチブチと切れたような不穏な音を発した。


「こんな事認められるかッ、魔術試験がE判定で合格などあり得ない!!!」 


 ヒステリックに叫ぶフィリコを中心に、波の様なさざめきが広がった。

 彼の剣幕に押されて、というだけではなく。フィリコの発言、主には最後の台詞に問題があった。


 五段階評価の試験で、E判定とは最底辺を意味する。

 例えば他の教科であったなら、入試を受けた先がアスガルド女学院でなければ、ここまで大事にならなかっただろう。


 魔術国家であるレスティアが、運営に携わっているのは、アスガルド女学院を含めて四校存在し。

 そのうちの一つは、提携している冒険者ギルドが主体となっており、こちらは傭兵などギルドの向上を視野に入れた人材育成を掲げている。


 その為、国家が直営しているのは実質三つなのだが。アスガルド女学院は、その中でも特異な存在であった。

 生徒の半数以上が、平民ではなく貴族の令嬢が占めており。比率が他校と逆転しているのも特徴の一つだ。


 また、魔術科や騎士科といった分野を明確にしておらず。魔術生と剣待生といった括りはあれど、特殊科目以外の授業内容は基本的に同じでクラス編成も混合だ。

 魔術生も白兵を習い、剣待生も魔術を学ぶ。互いの長所を取り込もうとする姿勢は素晴らしいが、その結果が良いものばかりだった訳ではない。


 アスガルド女学院は、戦後創立された為、最も伝統深い王都のレイヴンナールアカデミーと比べて歴史が浅い。

 その事から、必然的にレイヴンナールをモデル校とした風潮が自然的に根付いた。魔術国家の王都となれば、魔術師の都と言っても過言ではなく。数多の魔術が生み出された土地は、彼らの血肉で出来ている。その古き歴史の重みは、脈々と今も受け継がれていた。


 アスガルド女学院に在籍する、生徒達の出身はその国の者が多くを占める。いくら平等を掲げ、表面上を上手く繕っても、根付いた固定観念は中々覆らないものだ。


 そして、魔術師を目指す年頃の少女達にとって、とある英雄詩に憧れる者は少なくない。

 戦争を終結に導いた英雄は確かに実在し、その内の一人に女性がいる。名を『リセリア=ワルキュレイゼ』といった。


 後に、彼女の名にちなんだ精鋭部隊が作られたのだから、その功績が非常に大きなものだった事は想像に容易い。


 かの有名な、『ヴァルキリー隊』。


 淑女だけで構成されたその部隊は、多事に渡って仕事をこなしており。権力者との密接なつながり故か、隊としても強い権威を保持している。

 王族を守るその姿と言えば、茨の剣ともてはやされ。式典となれば、華美な甲冑に身を包む彼女らは注目の的だ。


 幼い頃の憧れが現実味を帯びて、より強固となった生徒達の殆どが、その部隊に入る事を目指している。アスガルド女学院からヴァルキリー隊への輩出率が、レイヴンナールを凌いでいる事も、彼らの気合の入りようを表していた。


 話を戻すと、レイヴンナールを基盤にしたアスガルドは、やや魔術師を贔屓する校風にはあったものの、当初は今ほど深刻ではなかった。しかし、ヴァルキリー隊なる部隊が発足後、その意識は急激に傾いた。

 部隊のきっかけになった英雄が、史実上最も優れた魔術師と謳われるようになったからだ。


 近年、その傾向は更に増してきており。今では、レイヴンナールよりも、差別化が進んでいるという見方さえある。

 この事から、魔術師の適正が低い者が、よりにもよってアスガルドに入学を希望するなどあり得ないという話に繋がってくる。



「試験の総合値が合格ラインを超えたんだから合格だっつうの。当たり前の事言わすんじゃねぇよ!」


 勿論、そんな事実に不満を持っている者だっているわけで。

 それを口外している者の筆頭が、いま割れ鐘のような声で怒鳴ったボルトスである。


「総合値の問題じゃない。魔術師の適正がない者を、この学院に入れて何になる」

「適正がないんじゃなくて低いだけだろーが。学がないなら学べばいいだけだろーがよ! その為に学院があって俺らが居るんじゃねえのか!?」

「人には向き不向きというものがあるんだ。努力だけではどうしようもない事も。ここは彼女の才能を活かせる場所ではない。お前がしている事は、彼女の才能の芽を摘む行為だッ!!」


 フィリコはクシャクシャの紙を、投げ打つようにその場へと放り。明らかに、自分よりも体格の大きなボルトスへと掴みかかった。

 矢のように飛んできた彼を、ボルトスは逆に胸倉を掴む様にして持ち上げる。


 腕を振るうボルトスに、フィリコの脳みそがガクガクと揺れた。フィリコも負けじと足を使って、ボコボコと手当たり次第に蹴りつけるが、全く効いている様子はなかった。


「いやぁあああ、やめてください!! ここで暴れないでえ!!」


 乱闘というより、暴れ牛のようなボルトスが、フィリコを振り回しているようにしか見えない。

 リサは逃げる事も出来ずに、その間で叫び声をあげる。次の瞬間、守る様に抱えていた書類の束が、二人の勢いに呑まれるようにして散らばった。


 ひらひらと宙を舞う紙を、リサは呆然と見つめる事しか出来ない。何時間もかけてまとめ上げた物が、今やリサの眼下で冷たい床の上に敷物の用に重なっている。


「……」


 しばらくして、心労で青白い顔をしていたリサが、ふらりと立ち上がった。その手には、いつの間に杖が握りしめられている。

 先端に緑の宝石がついた、シンプルでありがなら細かい意匠が施されたその杖は、彼女のお気に入りだ。


「いい加減にしなさぁい!!」


 リサは鬱憤を言葉と魔力にのせる。それに応えるように、緑の石は淡く発光した。

 優しい緑光は、彼女の怒りとそぐわず、そのアンバランスさが余計な迫力を生み出している。


 普段は大人しい彼女の怒号に、流石の二人もぎょっと動きを止めた。

 しかし、時すでに遅し。ボルトスとフィリコの身体には、杖の光とよく似たものがひも状に巻き付き締め上げており。


 その高い拘束力は、ボルトスの筋肉さえ抑えつけて。光の縄に自由を奪われた二人は、そのまま反対に位置する壁へと強制的に磔にされたのであった。



「リサ=ウィルソン? どうかしましたか」

「い、いえ、なんでもありませんッ」


 一連の騒動を思い出し、少し疲れた顔をするリサに、アピスは訝しむように問いかけた。

 慌てて首を振るものの、緩まないアピスの視線にリサの頭は自然と下がる。


「……あの、一つお聞きしたいことがあるのですが」

「私に答えられる事ならば」


 おずおずと切り出したリサに、アピスは明瞭な声を返す。


「どうして私なんでしょうか?」


 アピスの采配にケチをつける気など毛頭なく、それは純粋な疑問だった。事務員がリサ一人という訳でもなく、他に候補者がいないというのは考えられない。


「アルテリーズ大陸の中でも、倭国は少々特異な文化を持つ国です。不慣れな王国のスタイルに、強いストレスを感じる事は想像に容易い。しかし、同じ生徒同士での配慮はあまり期待出来るものではありません。その事は、アスガルドの卒業生である貴女もよく分かっている筈です」


 貴族の割合が多いと言う事は、そこに階級制度が持ち込まれるのは防ぎようがない。校則として禁止されていても、生徒達の中では既に染みついた習慣の一つだ。

 貴族位の低い者はまず傍観の姿勢を崩さず、貴族位の高い者の出方を窺うのが常である。階級の高い者に目を付けられるか、上手く取り入るかで学院での生活の良し悪しが決定するのだ。


 些かきつくなった顔つきのアピスをみると、彼女の潔癖さの表れのように思える。リサもまた学生時代を彩る記憶を思い起こせば、日常の端端にあったあの息苦しさも浮上してきた。


「だからこそ、貴族の出自であるものの、それによる差別意識を持たず。穏やかな気質で協調性もある貴女なら、きっと彼女とも打ち解けられると判断しました」

「えっと、アピス様が思う程、私は出来た人間ではありませんからッ」


 不意に、アピスの纏う空気が緩む。はっきりとしているが、少しばかり角が取れたような穏やかさのある声に、リサは驚き慌ただしく首を横に振る。

 とはいえ、その内には単純な照れもあったのか、リサの頬は心なしか赤くなっていた。


「でも、そんな風に思って貰えるのは、純粋に嬉しく思います。私で良ければ、その役目お受けいた……」


 アピスの見立て通り、真っ直ぐな善良さでもってそれに応えようとするリサだが。


「何よりボルトス教官とフィリコ教官を抑え込んだ速く的確な拘束術。これ以上の適材はいないと確信しました」

「え?」


 続くアピスの台詞に、リサからは間の抜けた声がでる。

 何故ここで拘束術の云々かんぬんが出てくるのか、という疑問に次いで。ぞわぞわと、背から頭に這い上がってくる不快感。嫌な予感がヒシヒシとその身に伝わって来る。


「リサ=ウィルソン、感謝します。難儀な役目と知りつつも受けるその寛大さ、私も見習わねばなりませんね」


 強引に押し通された気がしないでもない。しかし、滅多な事では、表情を崩さないアピスの笑みに、リサが押し黙る事しか出来なかったのは言うまでもない。



(心配して損しちゃったなぁ)


 すっかりと、気の抜けた様子のリサはそんな事を思う。何はともあれ、アピスお墨付きの拘束術を披露する場面はこなそうだと、彼女は一安心だ。

 しかし、物事がそう上手く転んでばかりいる保証はどこにもなく。彼女の望まぬ形で、風間朱音の新たな一面を発掘するのはその少し後の事だった。

 

 鼻歌まじりに、残った仕事に手をつけ始める今のリサには知る由もない事だが。

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