第75577話。海底に沈んだドラマチックな胡瓜を狙う礼儀正しい狡猾な河童は至上の幸せを理解することになる。

 戻った。

 しかしそこはすでに教室では無い。いや教室ではあるのだが、教室ではないのだ。

 魚の目レンズで俯瞰するような狂気性。常にアップで描かれる映画のような気味悪さ。凶悪な字面だけを並べた小説のように、狂っていた。

 僕だけが席についているが、周りは野原。端が見えない原っぱに、いつもの教室のドアだけが地面に突き刺さっている。青空にさそり座とオリオン座が光り、太陽の代わりに豆電球が浮いている。僕だけがちゃんとした机とイスを持っていることに、周りのクラスメイトは何も突っ込まない。そもそもそのクラスメイトも、もういろいろ崩壊していた。全裸の者もいれば甲冑に入っている者、宇宙服を着ている者がいると思えばビキニではしゃいでいる女子もいる。

 誰も、突っ込まない。

 誰も、突っ込まない。

 僕の席に置かれた、鉛筆なのか何なのかわからない長い銀色の棒と、そしてアルミのテスト用紙。

 用紙というか、紙ではないのだが。ほかに言い方も思いつかない。板で良いのか。

 途方に暮れていると、音も立てずに急に現れた半端じゃないデカさのオレンジ色の円盤が、草原に生えていた雑草を風圧で根こそぎ引っこ抜いた。引っこ抜かれた雑草は蒸発するように緑色の気泡になって弾け、地面からはまた雑草が凄まじい速度で生えてくる。

 円盤からは千円札を急所に張り付けただけの、ほとんど裸の担任が、降りてきた。

 そして何食わぬ顔で、テストを始めた。

 僕以外の生徒のテスト用紙は皮用紙で、羽ペンの先を手首に突き刺して書き込んでいる。赤い字の方程式。

 その中で僕だけが銀色の棒で、アルミの板を削る。答えは知っていた。満点も取れる。もう知るか。満点取ってしまえ。

 もう何がなんだかわからない。

 何が起きているのかもわからない。

 いつものように体育の時間が来るとみんなは全裸になる。逆立ちでサッカーを始める男子。ゴールは小さなものが二十二個。ボールは一個。全員キーパーのポジションから動かないため、ボールはコートの真ん中で止まっている。校庭(もちろん原っぱなのだが)を小さなシャベルでほじくり返す女子。どういうルールなのかは知らないが、みんながよだれを垂れ流して死にもの狂いで動いているところを見ると、競争しているのだろう。たまに審判がイエローカードを取る。

 口を開けて周りを見ているうちに、学校が終わった。

 そしていつものように、幼なじみが来る。上は制服で、下は……下はテンガロンハットだ……。巨大なテンガロンハットをスカートのように履いている。

 この広い草原を二人で帰るのだが、正直、方角すらわからない。

 どこ行ってるの、校門はこっちだよ。そう言って幼なじみが指すのは地平線。

 校門はあっちなのか、と答えると、もう通ったじゃない! と返してきた。もう通ったのか。

 瞬きしない勢いでぎょろぎょろと辺りを観察してしまう。辺りと言っても、本当に何も無いのだが。

 しかし歩いていると、ぽつぽつと――本当にぽつぽつと、アバンギャルドな建物があったり、『何か』がいたりする。

 いったい何がどうなってるんだ。

「折れ曲がって朽ち果てた鉄格子を引きちぎり哲学的思考に穴を空ける痴呆患者は至上の幸せを穏やかな心で受け入れた」

 幼なじみが、急にそんなことを言った。

「意味わかる?」

「なんだ、それ?」

「私にはわかるの」

「え」

「壊れたときに完成する言葉」

「なにそれ」

「世界、壊れちゃったね」

 何言ってるんだ。そう言おうとした瞬間。ぶろろろろ、と聞こえてきた。軽トラだ。

「あのね。折れ曲がって朽ち果てた鉄格子っていうのは、秩序のことで」

「おい、」

「哲学的思考っていうのは、一般的な常識のこと」

「お前、」

「痴呆患者っていうのは……」

「お前まさか!」

 いやそんなことより!

 軽トラだ!

 また轢きに来た! まだ轢きに来た!

 しかも軽トラの動きじゃない。四本脚で走る肉食獣のように、カットが敏捷だ。

 だめだ、よけきれない。こんなに広いのに。周りに障害物なんて、無いのに。

 また……また、幼なじみが、轢かれ……

「て、たまる、かああああああああああぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁ!」

 寸前で。

 衝突の寸前で。

 僕は、幼なじみを。

 突き飛ばす。

 そして。

 僕が、轢かれた。

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