5-13

 王都に向かう列車の中、コマ送りに流れていく車窓にぼんやりと目を遣りながら、ずっとバルドイのことを考えていた。

 あの後すぐにバルドイの家に行ったが、彼は帰っていなかった。留守を預かっていたフィルによれば、僕たちのところへ来たきり一度も戻っておらず、どこへ行ったかもわからないとのことだった。

 結局彼とは会えぬまま、こうして列車に乗って王都にいるロワールの元へ向かっていた。

「まずは自分のことを片付けるのが先じゃない? それに、もしかしたらあいつのところで何かわかることがあるかもしれないよ。君が感じた彼の孤独の源はあの『箱庭』にあったんだろう?」

 こんな状態では行けないとも考えたけれど、セレンの言葉に押し切られる形で街を出た。探したところでバルドイは見つかりそうになかったし、もし会ったところでおそらく今度も上手くはいかない。

 曲がりなりにも云壜屋の仕事を何年間もやってきて、あんな風に心の中が深すぎて核の部分まで辿り着くことができなかったのは初めてだった。相手が僕のことを拒んでいるならともかく、彼はむしろ救いを求める声を上げているようですらあった。

 きっと彼はその心を誰にも見つからないよう願っていて、同時に誰かに見つけて欲しいと願っていた。その期待を込めて必死に伸ばした手を、僕は掴み返すことができなかったのだ。

 しかしいつまでも悔いていては仕方がない。まずはスタートラインに立たなくてはいけない。自分を救えない人間に他人を救うことなんてできやしないから。

「ユリー、怖い顔してるよ」

「えっ?」

 セレンに言われて自分の表情筋がひどく強張っていることに気付く。

「そうやって何でもすぐに考え込むのが君の悪い癖さ。為せば成る、なるようになる、そのくらいの気持ちだっていいんじゃない? やっとここまできたんだから」

「そうかもしれない……。ううん、そうだね」

 いつの間にか列車はサンタ・ルベリアナ駅に到着していた。僕たちは頭上の棚に置いてあった荷物を持ってホームに降りる。

 人で溢れかえる都会の音に少しだけ耳を澄ませる。不揃いな雑踏の音が幾重にも重なり、頭に浮かぶ余計な思考を塗りつぶしてくれるような心地よさがあった。この音の数だけ人がいて、心があって、想いがある。そんなことを思うとこの世界がとても温かいもののように感じられた。

 そして僕もこの中に確かに存在している。そんな当たり前のことを、今初めて感じることができた気がした。

 僕はこの大きなうねりの中のほんの一部でしかなくて、右へ行こうが左へ行こうが、それはきっと世界にとっては何と言うことはない。だからたまにはこの人ごみに流されていくのもいいのかもしれない。

「笑ったら笑ったで気味が悪いな」

「そんな、ひどいや」

 二人で他愛ないやり取りを交わしながら、ロワールの元へ歩いていく。そこは中心からは少し外れたところにあり、何の変哲もない住宅地のうちの一軒だった。

「思ったよりずいぶん普通のところだね」

 もっとすごい豪邸を想像していたから、正直言って拍子抜けだった。決して大きいとは言えないし、外から見ただけでもかなり年季が入っている。もちろんここが本邸ではないのだろうけれど、それにしても彼の地位や財力からすると分不相応に思えた。

「お待ちしておりました」

 まだ入ろうともしないうちに、勝手に扉が開く。中にはタキシードを着た老父が待ち構えており、頭を下げて僕らを迎え入れてくれた。

「お邪魔します……」

 僕はその異様な雰囲気に気圧されながら、恐る恐る家の中に足を踏み入れる。老父は何も言わないまま僕らを誘導するように先を歩いていく。

 階段を上がり、二階に上がってすぐの部屋の前で立ち止まる。どうやらここにロワールがいるらしい。老父はてのひらでそっと扉を指して一礼すると、役目を終えたように音もなく去っていった。

 僕は肩にかけていた鞄の紐をぎゅっと握り締め、古びてくすんだドアノブに手をかける。

「ノックくらいするのが当然だと思うがね」

 入った瞬間に聞こえてきた声に、思わず全身が跳ね上がるような感覚を覚える。少しだけ息を吸って、顔を上げてその声の主を探した。

「まあいい。わざわざこんなところまでご足労いただいたわけだからね。歓迎しようじゃないか」

 そう言いながら彼は奥の深い椅子に腰かけたままにっこりと笑った。精巧に作り込まれた綺麗な笑顔。久々に目の当たりにしたその不気味さに身震いを抑え切れなかった。

「意外だったよ。こんなところに住んでるなんて」

 何とか襲い来る不安や恐怖に対抗しようと、こちらから話を投げかけてみる。上擦りそうになったのを必死に堪えようとしたからか、素っ頓狂な声になってしまった気がする。

「――ここは……そう。遠い昔に住んでいただけのことさ……」

 彼はわずかに躊躇いを見せたあと、吐き捨てるようにそう漏らした。よく見ると、部屋の中には使い古された家具や明らかに彼のものではないような動物の置物などが置いてある。それでいて生活感が感じられず、端々に違和感のある印象を受ける。まるである瞬間から時が止まっているような雰囲気だった。

 きっとここは彼にとって思い出を閉じ込めてある場所なのだ。この上なく幸せで、だからこそ何よりもつらい記憶。それを捨てることもできず、全部ここにしまい込んで、心を軽くしているのだろう。

 あんなにも理解できず恐ろしい存在だったはずなのに、その得体の知れなさが薄れた今はこうして彼と向き合えている。僕も人間であると同時に、当然彼だって同じ人間なのだ。そのことに初めて気付くことができた。握り締めていた拳もいつの間にか少し緩んでいる。

「話をしに来たんだ」

 僕は彼の目を見る。

「……そうだろうね」

 彼はわずかに目を逸らした。

「悪いがボクは忙しい身でね。できれば手短に頼むよ」

 今日の彼は言葉にキレや覇気がなかった。今までのように身体が固まるほどの威圧感を感じない。もしかするとそれは単に僕が変わったからかもしれない。だとしたら、ここまで来た甲斐があったように思う。

「ずっと考えていたんだ」

 一歩ずつ彼に近づいていく。

「人間擬き。僕には心なんてなくて、空っぽで、人間のふりをしているだけ。そう言われてから、実際自分はそうなんじゃないか、きっとそうなんだろうってずっと考えてた」

「……その通りだろう。キミたちは親に捨てられ、行き場を失い、死にかけていたところを拾われた。それ故に生に執着するだけで、何も受け取らず、何も与えない。ただ動いているだけの無機物のような存在だった」

 彼の言葉は皮膚を細かく突き刺し、小さな傷がひりひりとした熱を帯びていた。しかし以前のように心の奥底まで深々と貫く力強さはない。微かに呼吸がしづらくなるのを冷静に感じ取れる自分がいて、意識的に呼吸の間隔を広く取る。

「最初に『箱庭』に辿り着いた頃は、確かにみんな人間擬きだったかもしれない。でもあの場所で僕たちは少しずつ人間になれたんだ」

「馬鹿馬鹿しい。あそこがどんな場所だったかはキミたちが一番よく知っているだろう。そもそも人間擬きを作ることが目的だったわけだからね。まさしくキミたちのような。そういう意味では、ああいう最期を迎えたのは皮肉にもこれ以上ない成功だったと言える」

 心臓が鼓動を打つように彼の指が机を叩く。顔には優しげな笑みを浮かべたままだが、明らかに苛立ちと嫌悪が顕わになっていた。

「確かにあそこはひどいところだったのかもしれない。でも本当に僕たちを商品としか見ていなかったら、もっと別のやり方があったはずだった。あなたはどこかで僕たちを救おうとしてくれていたんでしょう? あの場所はあなたなりの憎悪と愛情が入り混じったあべこべな空間だった」

 僕の言葉を聞き終え、彼の顔から唐突に笑顔が消えた。感情を消し去った冷たい表情に変わっている。同時に部屋の空気が一変し、まるで高音を出し終えたピアノ線のような鋭さを持つ張り詰めた雰囲気に満たされる。

「……なるほど。おおかたマリナ辺りからボクの昔話を聞いたといったところか。それでわかった気になるなど全く高慢なものだね」

 そっと背を向けて立ち上がると、彼は息を吐くように小さく笑った。

「キミは大切な者を失ったことはあるかね?」

 突然投げかけられた質問に対して咄嗟に答えることができなかった。自分を捨てた両親や、あの日にいなくなったクリスたち、それ以外に経験したたくさんの別れを想像し、しかしどれも彼が差す『大切な者を失う』ということとはどこか違うような気がしてしまう。

 実際マリナから聞いた彼の過去を自分のことに当てはめて想像することは難しかったし、理解しようというのはそれこそ彼の言うように高慢だろう。だから僕は彼の問いに対してただ沈黙を返すことしかできなかった。

「そう。キミは知らないのだよ。何を聞き、何をわかったつもりか知らないが、人間擬きのキミはそれを想像することすら叶わない。一つだけ方法があるとすれば、自分がそれを目の当たりにすることくらいだろう」

 そう言って彼は机の引き出しに手をかける。中から出てきたのは、黒く光る一丁の拳銃だった。

「つまりはこういうことだ」

 銃口を向け、突き刺すような目で僕を見た。撃つはずがない。そう思っても、恐怖で無意識に全身が強張る。気を抜いた瞬間、目の前に突き付けられた暗い穴に吸い込まれてしまいそうだった。

 そんな状態で何時間にも思える長い緊張が続いたが、ふっと銃口が僕の前から消えたことでようやくそこから解放された。金縛りが解けたように一気に全身が脱力し、遅れを取り戻そうと心臓が激しく脈動する。

 しかし安堵する間もなく、再び身体が硬直する。下ろされたように見えた銃口は、わずかにずれて違う方向に向けられていた。

「なっ……!」

 僕が気付くのとほとんど同時に、乾いた破裂音が響いた。一瞬、その場にあったすべてのものが動きを止め、唯一銃口から立ち上る煙だけが揺らめいている。

 耳に残っていた銃声が機械的な耳鳴りに変化したところで、僕は我を取り戻したように周囲の状況を確かめる。弾丸が飛ばされたセレンの方を見ると、足元に小さな穴がぽつりと開いていて、彼はそれを茫然とした顔で見つめていた。

「またキミは自分の生に思考を奪われ、すぐ隣にいた相棒を気にかけることをしなかった。あのときと同じさ。そうして失ったあとになって、悲しみで押し潰されたような顔をする。それが人間擬きだと言っているのさ。そんなキミに何かを語られるほど落ちぶれてはいない」

 彼の言葉に対し、あの日助けを呼ぶ声を聞いて動けなかった自分を思い出す。恐怖が全身を駆け巡り、指先まで硬直する感覚。それは紛れもなく、生存本能に侵食されたものだった。

 僕はずっとそれが間違ったことなのだと思っていた。彼の言うように、自分は自己中心的な人間で、他人のことを気にかけるふりをしているだけの打算的な人間なのだと。

 けれど今ならはっきりとわかる。僕がセレンやアリサ、バルドイ、ロベルト、他のたくさんの友人たちを大切に想う気持ちに何ら嘘偽りはない。彼らが困っていたら真っ先に助けたいと思うし、命をかけてでも力になりたい。

「あなたの言う通り、僕たちは人間擬きなのかもしれない」

 僕は震える拳を握り直し、一歩前に踏み出す。

「でも、きっとそれは僕たちだけじゃない。誰だってそうなんだ。誰だって未完成で、不完全で、自分のことで精一杯で……。大切な人を守りたい、力になりたいって思っているのに、それができないこともある。怖くて、震える足が前に出ないときもある」

 もしかしたら間違っているのかもしれない。それでも僕は今感じていることをありのまま彼にぶつける。

「どっちも本当なんだ。誰かを大切に想うのも、自分を大切に想うのも。だから時には大切な誰かよりも自分を優先してしまうことだってあるかもしれない。それがあのときの僕みたいに取り返しのつかない結果になることも」

 燃え盛る炎の奥に見えたクリスたちの影がフラッシュバックする。あるはずのない熱を感じたせいか、じんと目頭が熱くなる。今にも溢れ出しそうな涙を必死で堪えながら、代わりに言葉を吐き出していく。

「そうやって間違えて、後悔して、苦しんで、何度も繰り返しながら生きていく。少しずつ正解を探しながら生きていくんだ」

 徐々に力が入り、自分が声を荒げていることに気付く。しかし興奮を抑えることができない。これはロワールに向けているようでいて、ほとんど自分に向けられた言葉だった。自分の中で辿り着いた答えを確信に変える確認作業に近い。だからこそ感情のままに溢れ出る言葉をあえて止めることはできない。

 これこそ自分本位な言葉であって、彼の元に届いているかはわからなかったけれど、少なくとも僕の話を遮るようなことはしなかった。だからきっと彼にもこの想いが伝わることを信じて続ける。

「どんなに間違えたって、僕たちは生きていかなくちゃいけない。取り返しのつかないことが起きたって、生きている限りは生きなくちゃいけないんだよ。そしてそのために必要なのは、間違えないように、苦しまないように逃げることじゃない。間違えても、苦しくても、正解を探し続けることなんだ」

 ここでようやく言葉が途切れ、酸欠状態になりかけていたところに深く息を吸い込んだ。ロワールは未だ何も言わず、こちらを向くこともしない。俯き加減の横顔からは表情を読み取ることができなかった。

 肩にかけていた鞄をから、云壜の入った箱を机の上に置いた。蓋を開くと、中にはみんなから集めた云壜が色とりどりの炎を灯している。

「あなたはどうしてそんなにも僕たちを拒むんですか」

 僕は彼に問いかける。しばらく待っても、彼は何も答えない。

「きっとまだ怖いんでしょう? また失うんじゃないか、また裏切られるんじゃないか。そう考えてしまうから、僕たちと近づきすぎないようにしていた。逃げて、誤魔化し続けていたんだ」

「……そうだ」

 長らく沈黙を保っていた彼が口を開いた。

「キミの言う通りだよ。ボクはもう大切な人間を失うのも、大切な人間に裏切られるのも嫌だった。だから誰かを大切に想うことを辞めたのさ。人は一人だって生きていける。大切な人間なんていたところで不利益しか生じない。合理的な判断だよ」

 淡々と、まるであらかじめ用意していたかのような口調で語る。彼自身、ずっと考え続けていたのだろう。僕がさっき言ったようなことだって、とっくの昔に通り過ぎたところかもしれない。

「じゃあなんで孤児院を続けていたのさ。わざわざ僕たちみたいな子どもを拾って育てたりなんかしていたのさ。僕たちを見捨てる機会なんかいくらでもあったはずなのに、それをしなかった。その証拠に、こうしてみんな今もちゃんと生きているんだ。もちろんこれはそれぞれが生きた結果だけど、少なからずあなたのおかげでもある」

 彼はわずかに机の上の云壜たちに視線を向けた。

「人間擬きと言って、心のない人間に育てようとしていたのも、僕たちが自分と同じような想いをしないようにって考えていたんじゃない?」

「……キミはあまりにボクを買い被りすぎているよ。キミたちを育てていたのは、まあ腹いせみたいなものさ。たいした意味なんてない。キミたちを救おうなんて気持ちは一切なかった」

 明らかに嘘だとわかったけれど、それ以上は野暮だと思い、何も言わなかった。彼は僕なんかよりもずっと自分のことをわかっているはずだ。

「これ、みんなから集めてきたんだ。『箱庭』や『あの日』のこと、そしてあなたに対して、色んな想いを抱えている。悩みながら、考えながら、それでも必死に生きているんだ。そのことを知ってほしい」

 僕は並んだ十八個のうち、一番最後に詰められた自分の云壜を取り出す。彼は何の抵抗もなく、無言でそれを受け取った。そうやって言葉を交わすこともないまま、黙々と、しかし噛み締めるようにして、みんなからの想いを彼に伝えていく。

 表情こそ変わらないものの、彼の心は大きく揺らいでいるのが感じられた。喜びや悲しみ、後悔、懺悔。流れていく僕たちの想いと同様に、彼の心にも様々な感情が浮かんでは消えていく。

 時間をかけてすべての云壜が炎を消したあとも、彼は何も言わなかった。しかし僕たちは直接心に触れ合い、すでに言葉を超えたものを感じ取ることができていて、あえて言葉にする必要もなかった。

「キミに一つだけ、頼み事をしてもいいかね?」

 余韻に浸るような長い時間が続いたあと、唐突に彼がそんなことを口にした。

「頼み事……?」

「ああ。おそらくこれはボクが行くよりも、キミに頼む方がいいと思ってね」

「まあ僕にできることならいいけど……?」

 まさか彼からそんなことを言われるとは思わず、呆気に取られてしまう。

「今だからこそ、知りたいのさ」

「……知りたい? 何を?」

「『あの日』、彼はどうして火をつけてすべてを壊そうとしたのか、さ」

「いや、でもそれは……」

 あまりに突飛なことを言うので、僕は何となくうろたえてしまう。彼はさも簡単なことのように言うけれど、そもそも犯人が誰かは未だわからないままだ。今回みんなの心の中を覗いたことで、僕たちの潔白はほぼ証明されたと言っていいわけで、となると全く知らない人間の可能性だって大いにある。

「何を言ってるんだ。君たちが潔白を証明したことで、逆に犯人がわかっただろう?」

「えっ……?」

「もう気付いているはずだ」

 彼の言葉がぐっと重くのしかかる。そう。どこかでわかっていた。犯人が彼しかいないだろうということが。

「キミにとってはつらいことだろうが、頼むよ」

 泣き笑いのような優しい笑顔がひどく苦しくて、心臓を紐で縛り上げられるような閉塞感に息が上手くできなかった。

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