5-12
スポンジを敷いた旅行鞄にみんなから受け取った云壜を詰めて、出かける準備は整った。ロワールは王都にいるらしく、すでに今日の午後に会う約束を取り付けてあった。
「よう。出かけるのか?」
そろそろ出発しようと荷物をまとめて立ち上がったところで、バルドイが僕の部屋にやってきた。
「マリナからあの人のことは聞いたんだろ?」
「うん。正直言って、それでもロワールのことは好きになれないけど、少しだけ見え方は変わったよ」
「お前たちからしてみたら憎い存在だろうけどな、たぶんあの人が一番の被害者でもあるんだ。だからできることなら、長い呪縛からあの人を解放してやって欲しい。俺たちにはできなかったことが、お前にならできるんじゃないかと思ってる」
彼は遠い目で外の景色を見つめている。言い知れぬその表情には、長い間心に溜め込んでいたものが滲み出ているようだった。
自分を救ってくれた存在が苦しんでいるのを隣で見てきたのだから、彼もまた同じように苦しんでいたことだろう。そんな負の連鎖が僕たちを蝕み続けてきた。そしてそれをようやく断ち切るときがきた。
「……俺の分も持っていってくれるか?」
「え?」
「師匠からの最初で最後の依頼だよ」
そう言って彼は覇気のない笑顔を浮かべた。気が付かなかっただけで、彼はずっと無理をし続けていたのかもしれない。この疲労を帯びた顔は、きっと過去の呪縛から一歩抜け出すことができた証拠なのだと思った。
「もう今となってはバルドイよりちゃんと仕事できるからね。驚くと思うよ」
「ほう。そりゃ楽しみだ」
寝室で本を読んでいたセレンを呼び、石と壜を見繕う。バルドイとの日々を思い返しながら、かなり迷った末に、僕は机の奥底にしまってあった木箱を取り出した。彼の想いを預かるならこれしかない。
「またずいぶんと年季もんを持ってきたな……」
これは僕が云壜屋になったときに、お祝いとしてバルドイからもらったものだった。中には宵闇のように真っ黒く光るごつごつとした歪な石と真四角に切り出されたような角張った壜が入っている。あれからお守りのように大切に持っていたけれど、まさかこうして使うことになるとは思っていなかった。
「自分が渡したもんが戻ってくるとはな。全く皮肉だよ」
彼は自嘲混じりに語る。
「あの頃のお前はこの石に似てると思ったんだ。荒削りで、傷だらけで、すべてを諦め、干渉しない真っ黒な雰囲気を纏ってた。そういう自分にいつか気付くように、これをお前に渡したんだ」
そんな意図があったなんて、初めて聞くことだった。確かに、当時の僕はこの石にどこか親しみを覚えていたように思う。今改めて見ると、彼の言うことは理解できる。
「でも今は俺の方にぴったりだな」
今日の彼は異様なまでに自虐的で、終始塞ぎがちなまま、一度も僕と目を合わせようとしない。いつもはあんなにも横柄で適当な人間なのに、まるで怯えた子どものように縮こまっている。別人に入れ替わっているのではないかと疑ってしまうくらいに不自然だった。それなのにどこか清々しさのようなものも感じられて、余計によくわからなくなる。
しかし考えたところで仕方ない。云壜屋の僕にできるのは、彼の心を直接拾い上げることだけだった。きっとそうすれば、自ずとこの違和感の正体もわかるはずだ。
「確かにこの石はあのときの僕と似ているし、今のバルドイにぴったりだと思う」
僕は木箱から静かに石と壜を取り出す。
「でもバルドイの言うようには思わない。確かにこの石は不格好かもしれないけど、芯の部分には真っ直ぐな強い意志みたいなものが通ってるんだ。僕はそれに何度も励まされたような気がする」
セレンが準備を終え、仄かに発光するその石を前に、僕はゆっくりと呼吸を整える。深い黒色の奥にある風景を見据えた。
そこは小さな孤児院のようだった。僕たちが育った『箱庭』に似ていたが、比べるとずいぶんこじんまりとしている。赤茶色の煉瓦でできた建物の前には公園のような広場があり、子どもたちが無邪気な声を交わしながらはしゃぎ回っている。しかし彼らの顔は輪郭を失って歪んでいて、俯瞰してみるとこの場所全体が蜃気楼のように頼りなく揺らいでいた。
そんな中で、庭の端に一本の木が生えているのを見つける。まるで大きく茂る葉が陽の光をすべて吸収してしまっているように、その根元だけが暗い陰に覆われていた。
「やあ」
その陰に寄り掛かる少年に声をかける。僕とは反対側にある壁の外を向いているから顔はよく見えなかったけれど、彼が誰なのかはすぐにわかった。
「君はあっちでみんなと遊ばないの?」
彼はこちらの質問に何も答えない。虚ろな雰囲気を纏っていて、一度触れてしまえばそのまま闇に溶けてしまいそうなほど弱々しい。それは何かを恐れているようでもあり、何かを拒んでいるようでもあった。
自ら時間を止めてしまったような彼に向かいながら、僕はじっと彼のことを考えた。子どもたちの甲高い声や駆け回る足音が水中にいるようにぼやけ、視界は少しずつ暗く狭まっていく。そうやって彼が木の陰から眺める遠くの風景を探そうとしていた。
思えば彼はいつもこんな風に寂しそうな顔でどこか遠くを見つめていた。彼自身が悟られまいとしていたから僕らも気付かないふりをしていただけで、この姿にはどことなく既視感があった。まるで世界にたった一人取り残されたような諦観に満ちた目。
「もしかして君は、ずっとこうして誰かがやってくるのを待っていたのか」
僕らはずっと彼の優しさ、彼の強さに甘えていたのかもしれない。手を伸ばして声を上げるまで、僕は彼が救いを求めていることに気付きもしなかった。
冷たい雪像に触れるようにそっと彼の頬に手を添える。その瞬間、大きな黒い影が波のように覆いかぶさってきて、たちまち僕の身体を呑み込んだ。
激しいうねりの中で何とか自分を保ちながら、肌を撫でる影の冷たさを噛み締める。彼はずっとこんなにも苦しい孤独を押し殺していた。
「どうして……。僕たちは君の孤独を少しだって埋めることができなかったってことなの?」
影に埋もれて見えなくなってしまった彼に向かって必死に呼びかける。
「あのとき君が手を差し伸べてくれたように、僕だって君が求めればいつだって肩を貸したさ! そりゃ、あまりに頼りなかったかもしれないけど、それでもこんなに孤独に押し潰されることはなかっただろう?」
張り裂けそうな喉とは裏腹に、自分の声がどんどん遠くなっていくのを感じた。僕はそれに抗うように言葉を絞り出す。
「なんでこっちへ来るのを怖がっているのさ! 僕たちが倒れたらいつだって助けてくれたのに、いつもその影の中に戻っていくのは……」
ついに全身を呑み込まれ、僕は悪夢から目覚めたように勢いよく起き上がった。
「おはよう。大丈夫かい?」
セレンが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。どうやら僕はしばらくの間意識を失っていたらしい。身体中がびっしょり汗まみれで、強張るような寒気が皮膚の内側を逆撫でしている。
「……バルドイは?」
部屋を見回しても、彼の姿がない。
「君が倒れたあと、何だか疲れた様子で帰っていったよ。『もう俺は大丈夫だから』って伝えてくれって」
ちょうど目を伏せた先に、床に転がった云壜が見えた。中には黒い炎が燃えていたけれど、こんなものは彼が抱えている想いのほんの一欠片に過ぎない。結局彼の心には指先一本が触れたくらいで、本当の心を知ることはできなかった。
「ごめん……」
自分の力不足を悔やむように、僕は何度もそう呟いた。
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