5-9

 次の日。僕たちは再びあの小高い丘を頂上の孤児院に向けて登っていた。

「もうダメだ。一回休憩」

 膝と腰に限界が来て、崩れ落ちるように草むらに座り込む。流石に運動不足が過ぎたのかもしれない。帰ったら毎日ランニングえもしようかと思うくらいには、体力の衰えに危機感を覚える。

「あ、もふもふさん!」

 そうやって立ち止まってしばらく休憩していると、昨日孤児院まで案内をしてくれたリンがやって来た。どうやらいつもこの丘を駆け回って遊んでいるらしい。子どもは元気だな、と思わず年寄りめいた感想が漏れる。

「きょうもチャックにあいにきたの?」

 リンはセレンを抱きしめたまま尋ねる。

「実は昨日はまだ帰ってきていなくて会えなかったんだよ。だから今日こそは会いたいなと思ってね」

「ふーん、そうなんだ。チャックはいつもどっかいっちゃって、あたしたちともあんまりあそんでくれないんだよ! こまったものね!」

 どうやらチャックは昼間のうちは買い出しや村の人の手伝いをしていて、いつも夕食の時間まで帰ってこないらしかった。当然今日もすでに出かけてしまっていて、どこにいるかはリンたちもわからないと言う。

「とにかくもう一度マリナと話をしよう」

 きちんとマリナを納得させずにチャックと会うのは何か違う気がしていた。彼女もまたあの場所に囚われたうちの一人なのだ。二人に前を向いてもらって、初めて僕がここに来た意味があったと言える。

「色々教えてくれてありがとう。またね」

「うん! ばいばい、もふもふさん!」

 僕らはリンにお礼を言って、また丘を登り始める。セレンは撫でられすぎてくしゃくしゃになったお腹の毛を怪訝な顔で必死に整えていた。おもちゃにされたせいで疲れた顔が見えていて、申し訳ないけれどちょっぴり可笑しくて笑ってしまう。

 やっとの思いで丘を登り切り、頂上の孤児院へと辿り着いた。子どもたちはリンと同じようにみんな外で遊んでいるようで、中からは物音一つ聞こえてこない。その静寂が妙に張り詰めたものに感じて、僕はぐっと身体に力が入る。

「緊張しすぎ」

 セレンに背中を突かれて、僕はハッと我に返る。額に滲んだ汗をシャツの袖で拭い、彼の方を振り返って照れ笑いを浮かべた。

「よし、行こうか」

 意を決して、僕はドアノブにそっと手を添える。建物に入ると、室内は一層静けさで満たされていた。

 陽光に照らされた廊下に浮かぶ自分の影に目を落としながら、踏みしめるように一歩ずつ、奥にあるマリナの部屋を目指す。リンに連れられて昨日も同じところを通ったはずなのに、このたった十数メートルの距離が異様に長く感じられた。

 何だかふと昔のことを思い出した。『箱庭』で暮らしていた頃、彼女が大切にしていた花瓶を駆け回っていた弾みで割ってしまったことがあった。他のみんなは大して気にせずに遊び続けていたけれど、僕は悲しそうに粉々になった花瓶と萎れた花を見つめる彼女の顔が忘れられなくて、彼女の元に直接謝りに行った。あのときもいつも使っている廊下が延々と続いているような気がして、足がすくんだのを覚えている。結局きちんと謝ったかは記憶が曖昧だった。

 昨日会った彼女もひどく悲しげな顔をしていた。最後に見せたあの笑顔を思い出す度、自分が間違っているんじゃないかと考えてしまう。それでもこうして彼女に会いに来ているのは、僕のエゴでしかない。『箱庭』を本当の意味で巣立つ前の最後のわがままだ。

「……やっぱりまた来たのね」

 部屋に入ると、彼女は溜め息混じりの疲れた声で僕たちを出迎えた。当然ながら歓迎されていないだろうことはすぐに雰囲気で察する。

「どうしても、もう一度話がしたくて」

「昨日言ったことがすべてよ。私たちのことは放っておいて。言えることはそれだけ」

 案の定、彼女は分厚い防壁を立てるような物言いで僕たちを突き返そうとする。それは今まで聞いたことがない冷ややかな声色だった。

 しばらく沈黙が続いても、彼女は頑なにこちらを向こうとしない。奥のブラインドの隙間から差し込む光が影を作るせいで、その横顔からは表情を読み取ることはできなかった。

 無機質で冷たいコンクリートの壁が彼女の心を覆っている。これ以上近づかせないという強い意志が感じられた。最初の言葉通り何も言わず、僕らが諦めて帰るのをただじっと待っている。

 しかしそれらすべてがどこか芝居がかっている。敢えてそんな態度を取ることで自分の心を縛り付けているように思えた。心を囲う壁は僕たちを拒むと同時に、きっと自分自身からも守っているのだ。彼女自身も揺らいでいる。何となくそう感じた。

 それでも彼女の心に手を届かせるには、その固い壁を打ち破る必要がある。けれどそのための言葉が上手く出てこなかった。

「マリナはさ、どうして今もこうして孤児院を続けているの?」

 考えた末に出た言葉は、深い意味のない純粋な疑問だった。

「こんな風に子どもたちと過ごしていたら、それこそ『箱庭』のことを思い出しちゃうんじゃない?」

 彼女は何も答えなかった。僕は構わず話を続ける。

「他のみんなもそうだったんだ。僕やロベルトは結局こうして云壜屋の仕事をやっている。バルドイはあそこが無くなったあとも、僕たちを云壜屋として育ててくれた。クリスはルイに教わったことを活かして仕事をしていると言っていたし、ワジとリリアは過去を乗り越えようと必死に今の自分と向き合っている。フェンネは今も『箱庭』の花壇と同じ花を大事に育てていて、ロワールのことまで心配して思い遣っていた。みんな前に進んでいると同時に、あの頃のことを忘れられないでいるし、どこかあの頃の思い出が大切だって気付いている」

 この言葉が届いているのかはわからない。それでも僕は今思っていることを口にするしかなかった。

「当たり前なんだ。だって僕たちはあの場所で育って、あの場所で過ごした日々は紛れもなく本物なんだから。つらいことも悲しいこともたくさんあったけど、それでもあの場所をなかったことにしてしまったら、自分自身を否定することになってしまう。それにそんなことをしたって、過去は無くなったりしないんだ」

 少しずつ、僕は彼女の方へ近づいていく。表情はわからなくとも、真っ直ぐ彼女の顔を見つめる。

「その深い傷も、自分の一部なんだ。だから傷を隠すんじゃなく、痛みも含めて愛してあげなくちゃ、結局苦しいままなんだよ」

 目の前まで辿り着いて、ようやく彼女はこちらに向き直った。赤く腫れあがった目を擦りながら、僕の方に力強い視線を向ける。

「わかってる。そんなことわかってるの。でもどうしても怖くてたまらない。きちんと向き合って乗り越えられる自信がない。ルイ、ジェームス、ペータ、カイン。今でもたまにあの日いなくなってしまったみんなの声が聞こえる気がするの。熱いよ、助けて、って。あの子たちのことを考えると、ちょっとした幸せもいけないことに思えてくる。あの子たちを差し置いて、私だけこんな幸せでいいはずがない。だからって、それがつらくて忘れようとしている自分が一番嫌。こんなにも苦しいなら、いっそあのときに私も死んでしまいたかった」

 彼女は髪をかき乱しながら、頭を押さえて蹲る。きっと彼女はこうして誰よりも一人で悩み続けていたのだ。でもそれを表に出すことをせずに、チャックのために取り繕って過ごしていた。

 僕は再び言葉を見失う。どんな言葉も彼女の心にはすでに一度浮かんだもので、救い上げるに足るものではないのではないかと思う。それほどまでに彼女は『あの日』のことを考え続けていた。

「……もういいんだよ」

 立ち尽くす僕の後ろから、突然太く優しげな声が聞こえてきた。驚いて振り返ると、そこには当時のまま背丈だけが大きくなったようなチャックの姿があった。

「チャック、どうして……?」

 思わぬ形で再会する形になって、僕は昔と変わらぬ彼の顔をボーっと見つめることしかできなかった。

「実は二人から手紙が来ていることも、この村に来ていることも知ってたんだ。手紙はゴミの中に捨てられているのを偶然見つけて、二人がいるのは昨日リンから聞いてた。でも正直少し会うのが怖くて、マリナに任せて逃げちゃってたんだ。そうしたらさっきリンに会って、『友達を待たせちゃダメでしょ』って怒られてね。その通りだと思って急いで帰ってきた」

 子どもの無邪気な言葉というのは、ひどく残酷で、時に核心をついたものだということか。リンは何の気なしに言ったことかもしれないけれど、チャックにとっては色んな意味を含んだ言葉に聞こえたのだろう。

「……ごめん。僕がいるせいで、ずっとマリナにはつらい思いをさせていたんだね。心のどこかでは気付いていたはずなのに、優しさに甘えて気付かないふりをしてた」

 チャックは今にも泣き出しそうなくしゃくしゃの笑顔で、ゆっくりとマリナの横に歩み寄る。そして大きな身体を折り曲げると、俯くマリナの顔を覗き込むようにして語りかける。

「大丈夫、とは言えないかもしれないけど、僕だって少しは大人になった。こうして泣いているマリナを慰めることくらいはできるようになったんだよ。だからつらいときはちゃんとつらいって言って欲しい。代わりに僕がつらいときは助けてもらうから。そうやって少しずつ過去と向き合っていこう」

 彼はそっと手をマリナの頭の上に添えて、不器用に唇の端を吊り上げて笑顔を作る。

「かっこつけちゃって、チャックらしくないわ」

「だから僕も子どもじゃないんだってば。ちょっとくらいかっこつけさせてよ」

 ようやく顔を上げたマリナは彼と同じように無理に作った笑顔を浮かべていた。ひどく不格好なはずなのに、沈み始めた夕陽に照らされる二人の笑顔はとても綺麗に見えた。

「先に行ったあいつらが嫉妬するくらい幸せに生きよう。それでいつかまた会ったときに、思い切り自慢話をしてやるんだ。呆れて怒る気もなくなるくらいにさ」

 彼もきっとマリナと同じくらい悩み続けていたはずなのに、こんな風に笑顔を見せられるなんて、本当に強くて優しい人だと思った。ジェームスたちもこの心優しい彼を決して恨んだりしないだろう。

「そんなわけで、僕たちは『あの日』のことにやっとこれから向き合っていくところだけど、それでも協力できるかな?」

「もちろん。これから一緒に向き合うために、僕たちはここに来たんだから」

 僕は空の壜を二つ取り出しながら、彼らに合う石の色を考えていた。

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