5-7

「……よし。これであと一人だ」

 秋の香りに色めいた葉もすっかり落ち切って、木々が閑散とした寒空に晒される頃になって、ようやく僕らは箱庭出身者たち全員から云壜を集め終えようとしていた。

「残りは、チャックだけか」

「そうだね。ただ、彼は……」

 チャックが最後の一人として残ったのは、相応の事情があった。彼はあの火事で命を落としたジェームス、ペータ、カインの三人と一緒にいて、唯一奇跡的に生還した。誰よりもあの日のことを悔いているのは明白で、だから僕らは彼に会うのを躊躇い続けていたのだった。

「僕が行くよ。いや、僕に行かせて欲しい」

 重苦しい空気が流れる中、意を決して言った。

 やっぱり彼に会わなければ、僕たちは本当の意味で過去と向き合ったことにはならない。あの箱庭に繋がれた鎖を断ち切れないままだ。

 そうして決心を固めた僕は、セレンとともにチャックが待つとある田舎の村へやってきた。ロベルトとバルドイもついてきてくれようとしたけれど、あまり大人数で行ってはよくないだろうということで、僕たち二人だけで向かうことになった。

 ここは近くに大きな街もなく、外界と接さずにほとんど独立して成り立っているような村だった。決して裕福ではないけれど、住人たちはみな心に豊かさを備えた温かい顔をしていた。

 どうやら旅人が珍しいようで、すれ違う人たちは不思議そうな目でこちらを見る。時折、笑顔で声をかけてくれる人もいて、その人たちに話を聞くことでチャックの居場所を知ることができた。

「あの子なら、あっちの孤児院で働いてるよ」

 事前に聞いていた通り、彼はこの村の孤児院にいるようだった。

 彼が負った心の傷はあまりに深く、当時はほとんど抜け殻のような状態になってしまっていたらしい。それをマリナが気にかけて、療養も兼ねて遠く離れたこの村にやってきた。

 元々はマリナが始めた孤児院で、今は快復した彼も手伝っているのだろう。どうやら今はここで元気にやっているみたいで少し安心した。

「あたしたちみたいな年寄りにも優しいし、子どもたちからは好かれとるし、ほんとええ人だ」

「こないだは買い物帰りに荷物を持ってくれてね」

「若ぇのにしっかりしてる。見上げたもんだよ」

 村の人たちの声を聞いていると好意的な声ばかりで、この村にもすっかり馴染んでいるようだった。

 僕は通りすがりのおばあさんに教えてもらった道を進み、彼のいる孤児院を目指す。

 事前に手紙で訪問とその経緯を伝えているのだけれど、返事は来ていないので彼がどんな風に思っているのかはわからなかった。しかし、歓迎されないのは確かだろう。彼はきっと自分なりに過去との折り合いをつけて今を生きている。それを今更掘り返されたって、いい気持ちなわけがない。

 悶々と重たい気分を抱えたまま小高い丘を登り切ると、まるで上半分を切り取られたみたいに平たい建物が見えてきた。こうして離れたところから見ると、丘の上に博士帽子が乗せられているようだ。

 徐々に近づくにつれ、子どもたちがはしゃぎ回る楽しげな声が聞こえてきた。ちょうど外で遊んでいる子たちがいて、僕の存在に気付いた何人かは訝しげにこちらを見つめている。

 だいぶ息を切らしながら、やっとの思いで丘の頂上まで辿り着いた。

「そんなハアハア言ってみっともない。普段怠けてばかりだからそうなるのさ」

「下から見たときは大したことないと思ったんだけど、実際に登ってみたらこんなにきづいなんてね……。むしろセレンはどうして平気なのか不思議だよ」

 一旦呼吸を整えようと、チャックを訪ねる前に少しその場で足を止める。すると、先ほどまで遠目に僕を見ていた子どもたちのうちの一人が、小さな拳をぎゅっと握りながら恐る恐るこちらに近づいてきた。

「おじさん、だれ?」

 その女の子は僕たちから三メートルほど距離を取った位置で立ち止まり、あえて目を見ないようにしてそう尋ねてきた。

「おじさん、かあ……」

 僕はついにそう呼ばれてしまったことに若干傷ついた。確かに僕はこの子の三倍くらい生きているわけだし、もう十分おじさんに見えるのだろう。しかし、こうして面と向かって言われると、流石に心にくるものがある。

「僕たちはチャックに会いに来たんだ。もしかして、君も彼のこと知ってる?」

 落ち込む僕を押しのけ、セレンが少女の方へ歩み寄る。初めて目にするであろう不思議な生き物を目の前にして好奇心をそそられたのか、彼女の瞳に輝きが現れていた。

「もふもふ……」

 彼女は手をうずうずさせながら、目を大きく見開いてセレンのお腹を見つめていた。そんな無垢で可愛らしい姿にほっこりさせられて、触っても大丈夫だよ、とつい勝手なことを言ってしまった。

「ほんと!?」

 あんまり彼女が嬉しそうな顔をするものだから、セレンも断ることはできなかったようで、何も言わず少しだけお腹を突き出してみせた。

 様子を窺うように何度か指先でつついたあと、広げた掌をお腹の毛にそっと沈める。そこで一気に枷が外れたのか、ぱっと眩しい笑顔を見せると、勢いよく抱きついて頬をこすりつける。セレンは驚きと緊張で身体を強張らせながら固まっていて、傍から見えているとその姿がおかしかった。

「わたし、リンっていうの。もふもふさんたちのおなまえは?」

 彼女はセレンのお腹を堪能したことですっかり気をよくしたようで、警戒心を解いて自分から自己紹介をしてくれた。

「僕がユリルで、こっちのもふもふはセレンだよ。とても遠いところから、友達に会いにきたんだ」

 そうしてようやく打ち解けることができて、僕は改めてチャックに会いたいということを伝える。やはり彼女は孤児院で暮らす子どもの一人だったようで、彼のことはよく知っているみたいだった。彼の元まで案内してくれるよう頼むと、任せて、と得意げな顔で快諾してくれた。

「こっちだよ。ついてきて!」

 意気揚々と歩く彼女の後を追って、彼女たちが暮らす孤児院の中に入っていく。

 建物はかなり年季が入っていて、あちこちに補修された痕があった。しかし掃除や手入れはしっかりと行き届いているおかげで、小汚い感じは全くない。むしろ建物の古さが味のある温かみを醸し出していて、何となく安心できる場所だった。

 リンの話だと、ここに大体三十人ほどの子どもたちが暮らしているらしい。この村で出た孤児だけでなく、旅先で見つけた子や、逆に旅人が置いていった子も受け入れていて、年齢や出自はバラバラだと言う。村の援助を受けているとはいえ、ここをたった二人で切り盛りしているのだから、それは生半可なことではない。

 板張りの廊下を真っ直ぐ進んでいくと、リンは一番奥の部屋の前で立ち止まった。おそらくここが彼の部屋なのだろう。

 心を決めてきたつもりだったけれど、こうして彼の存在が目前まで迫ると、様々な不安が頭の中を駆け巡って心臓の鼓動が早まるのを感じる。何とか心を落ち着けようと深く息を吸って、大丈夫だと自分に言い聞かせる。

「おともだちがきたよ!」

 リンがドアをノックしながら呼びかける。しかししばらく続けても一向に中からの返答はなく、出てくる気配もなかった。痺れを切らした彼女はドアノブに手をかけ、そのまま躊躇なく扉を開けた。

 突然すぎて心の準備ができていなかった僕は、思わず目を伏せてしまう。どんな顔をすればいいのかわからなくなって、無理矢理笑顔を作ろうと顔を引きつらせながら、やっとの思いで顔を上げると、部屋の中には誰もおらず、がらんとした空間が広がっていた。

「なーんだ。チャックいないみたい」

 情けないと思いつつも、彼がいなかったことに少し安堵している自分がいた。身体の力が抜けて、ふらふらと倒れそうになる。

「仕方ないね。ありがとう、リン。今日のところは出直すとするよ」

 そう言って踵を返して帰ろうとしたその時、ちょうど隣の部屋の扉が開いた。

「どうかしたの? 何だか騒がしかったけれど……」

 ドアから顔が覗くよりも先に声が聞こえる。その声は忘れるはずもない。

「マリナ……」

「え、まさか、ユリルとセレンなの……?」

 思わぬ形での再会となってしまい、彼女は一瞬ひどく困惑した顔をして、僕らを交互に見遣る。しかし、すぐに状況を察したのか、表情を切り替えて柔らかい笑みで僕たちを迎えてくれた。

「……久しぶりね。会えて嬉しいわ。まさか本当にこんなところまで来るなんて思ってなかったから、少し驚いたけれど」

 彼女とはバルドイが連絡を取っていて、事情は一通り知っているはずだが、どうやら僕たちのことをあまり気にはしていなかったらしい。まあこれだけ大きな施設を管理しているわけだから、日々のことで頭がいっぱいなのかもしれない。

 当時は腰ほどまで伸ばしていた綺麗なブロンドの髪を今は短く切り揃えていて、記憶にある彼女の姿とは若干印象が違った。どこか疲れているように見えるのは、きっと彼女が歳を取ったからだろう。それだけ長い時間が経ってしまったのだということを感じた。

「ごめんなさい。チャックはちょうど買い物に出てしまっているの。わざわざ来てもらって申し訳ないけど、まだしばらくは戻らないと思うわ」

「そうですか……。一応数日はこの村にいる予定なので、また出直そうと思います」

 結果的にこうして中に入ってマリナと話しているけれど、元々今日は様子見程度で済ませるつもりだった。今日はひとまず宿を探して、明日改めてチャックに会いにくればいい。

「待って。せっかくこうして会えたんだから、よければお茶でも飲んでゆっくりしていったらどう? 案外待っていれば、あの子も予定より早く帰ってくるかもしれないしね。きっと積もる話もあるでしょう。私も、あなたたちと話をしたかったの」

 そう言ってマリナに引き留められて、僕らは厚意に甘えて少しだけ居座らせてもらうことにした。彼女はこの後夕食の準備があると言うので、それまでの間だけだ。

「本当に久しぶりね。すっかり大人になっていたからびっくりしたわ」

「あれからずいぶん経ちましたからね。さっきはリンにおじさんって言われて結構ショックでした」

「うそ、そんな失礼なことを言ったの? 全く。あの子は変に素直というか、遠慮のないところがあるのよね。ユリルがおじさんだったら、私なんておばあちゃんじゃない」

 みんなの母親的存在だったマリナはやはり今も健在で、他愛もない話をしているだけでも不思議と心が落ち着く気がした。

 しかし一旦会話が途切れたところで、彼女は唐突に笑顔を消して、わずかに顔を伏せたまま暗い表情に変わった。そしてまるで喉の奥が塞がってしまったように苦しそうに顔を歪め、何かを言いかけて言葉を飲み込む。

 そんな風に彼女が黙り込んでしまうので、僕は何を話せばいいのかわからなくなって、時間が止まったような沈黙が生まれる。

 無理をして歓迎するふりをしていたけれど、どうやら彼女の様子から察するに、やはり僕たちは歓迎されているとは言い難いようだった。二人はもうとっくにあの過去と決別していて、僕がやろうとしていることは押しつけがましい身勝手な行動なのかもしれない。

 それでも僕がここへ来たのは、過去から目を逸らしてなかったことにするのではなくて、あの場所から地続きの今を生きるためだ。だってあの場所があったから今があって、どんなに忘れたい記憶も僕たちを形成する要素の一つであることに変わりはないのだから。

 僕は意を決して、本題の部分に踏み込むことにした。

「僕たちがここへ来たのは、あの日に決着をつけるため、そうして僕たちが前を向いて歩くため、チャックに協力して欲しいと思ったからです」

 慎重に言葉を選びながら、はっきりとした意志を込めて言う。

「ええ、あなたたちの想いはよく知っているわ。その上で、私はあなたたちに謝らなくちゃいけないことがあるの」

 ところが、彼女は僕が語るのを軽く遮って妙なことを言った。言葉の意図が読み取れずに首を傾げていると、依然として顔を伏せたまま話を続ける。

「この間、チャックに手紙を送ったでしょう? バルドイから連絡があったとは言っても、実際にあなたから手紙が来てとても驚いた。それで、ついチャックに渡す前に私が開けてしまったの」

 机の下で指を組み、ゆっくりと語られる彼女の言葉は、懺悔するような重苦しい雰囲気を纏っていた。

「手紙を読むまで、あの頃のことは頭の片隅にさえ残っていなかった。今を生きることに精一杯だったと言えば聞こえはいいけれど、きっとあの頃のことを忘れるために、必死に生きているふりをしていたんだと思う。そういうことに気付かされたわ」

 彼女もまた、僕たちと同じようにあの場所に囚われた一人だった。あの頃はただの子どもだったから気付かなかったけれど、彼女も色んな葛藤の中であの場所にいたのだろう。それが今になってようやくわかった。

「そうしてあなたからの手紙を読んで、あの頃のことを思い出して、どうしても私は彼に話をすることができなかった。もちろんこれは私の勝手なエゴかもしれないけれど、彼につらい過去を思い出して欲しくなかったの」

 その声には彼女が如何に考え抜いてその答えを出したのかが表れていた。

「でもそのつらい過去だって、なかったことにはできない。ずっと僕たちの心をじわじわと蝕み続ける。だからもう一度だけ、勇気を振り絞って向き合おうと決めたんです」

 彼女の気持ちは痛いほどわかる。僕だって彼に苦しんで欲しいわけじゃない。むしろ、もうこれ以上苦しんで欲しくないからこそ、ここへやってきた。

「……確かに私たちは過去から目を逸らして、逃げ続けているのだと思う。でもそれは悪いことなの? 私たちはこの村で今とても幸せに暮らしている。それでいいじゃない。心に傷があるのなら、それを癒す幸せで満たせばいい。今更向き合って、一体何になるって言うの」

 興奮混じりに語気を荒げながら語る彼女は、縋るような目で僕たちを見た。今も葛藤の中をもがいていて、視界を照らす光のように明快な答えを求めている。しかし僕はそんな彼女に対して、ただ黙ることしかできなかった。

 彼女は失意のこもった深い溜め息を吐き、肩を落として項垂れるように床を見つめる。

「きっとあの子の心にある傷は、私たちには想像もつかないほど深いものだわ。目の前で仲間を失って、誰も助けられず自分だけ助かったことをずっと攻め続けている。でもそれを何とか上手く隠して、長い時間をかけてようやく笑えるようになったの。だからどうか彼のことはそっとしておいてあげてくれないかしら……」

 そして静かに顔を上げて、痛ましいほど綺麗な笑顔を僕に向ける。

「あの子には、幸せに生きて欲しいから……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る