5-6

 小さな庭に丁寧に並べられた花壇の列。彩り豊かな草花が等間隔に植えられ、隅々まで手入れの行き届いた様子からは管理者の花への思いやりが窺える。

 もう秋も深まってきたというのに、閑散とした寂しげな空気にも負けず力強い色を放つ。風になびくそれらを眺めていると、どことなくノスタルジックな気分に包まれた。『箱庭』の中にあった花壇にも、いつもこうして色とりどりの花が並べられていた。

「どう? 気に入った花は見つかった?」

 あまりこうしてまじまじと花を見ることがないから、つい夢中になってしまっていた。フェンネが口元に手を当てておかしそうに笑っている。

「花と言えば春のイメージがどうしても強いけれど、秋の花も素敵なものが多いの。特に私はじんわりと身体を温めてくれるようなこの独特な香りがたまらなく好き」

 そう言って彼女は手近にあった花をそっと持ち上げて顔を近づける。僕も真似をして匂いを嗅いでみると、癖のある甘い香りが鼻孔いっぱいに広がった。

「この花はね、私が初めて自分で育てた花なの。花壇の一角を借りて、種から育てた。芽が出て、毎日少しずつ成長していって。何か月もかけてようやく花が咲いたときは、本当に嬉しかったのを覚えてるわ」

 花を優しく見つめて懐かしげに語る彼女はとても楽しそうだった。

「仕事でも家でもこうして花に囲まれて暮らしてるなんて、本当に花が大好きなんだね」

 奥の方で花を軽く小突いたりして遊んでいたセレンが感心したように言う。確かに、昼間は花屋で働いて、帰ってきたら庭の手入れをしているわけだから、相当好きじゃなければやっていられない。それを苦に思うどころか、楽しみながらやっているのはとてもすごいことだ。

「そうかしら。私はただ好きなだけ。好きなものに囲まれて、好きなように生きているだけだわ」

 彼女はきちんと『箱庭』を巣立って、新しい道を着実に進んでいる。内気で臆病だった少女の姿はもうない。大人になった彼女は一人で立って前を向いて生きる強さを持っていた。

「これもロワールさんのおかげね」

「……えっ?」

 フラットな声色で自然に発せられた彼の名前に、僕は拍子抜けしたように思わず声が漏れた。当の彼女はそんな僕を見て不思議そうに首を傾げている。

 今まで会った旧友たちはみな、彼に名前を出すときには必ずやや間を置いた。それは彼に対して何らかの並々ならぬ想いを抱えていたからだ。しかし彼女はまるでクラスメイトの話をするような自然さで、彼の名を口にした。

「私が今働かせてもらってるお店を斡旋してくれたのが彼だったの。花が好きなことなんて言ったことがなかったはずなのに、彼は花屋になれと言って私を送り出した。夢を追いなさい、ってね」

「まさか。あの意地の悪い男がそんなことを言うなんて……」

 セレンが驚きの声を上げながら相槌を打つ。僕もおよそ信じられなくて、丸く見開いた目を彼女に向けた。そんな僕らの反応を軽くいなすように、彼女は静かに俯いて首を振った。

「確かに、私も彼のことが恐ろしかった。彼の言葉はいつも私たちが触れて欲しくないような心の柔らかい部分に突き立てられていたし、彼と話していると何だか自分自身と相対しているような気分になって気味が悪かったわ。でも彼がああいう風にしか私たちに向き合えなかったのは、もしかすると彼の孤独が原因だったんじゃないかって思うの」

「孤独?」

 そういえば、前にクリスもそんなことを言っていたのを思い出す。

「きっと彼は私たちと同じように、いや、私たち以上に孤独だったんだと思う。それも自ら孤独を選んでわざと自分を傷つけているようだったわ。だから私たちは彼を恐れ、疎い、憎むのではなくて、こちらから歩み寄って救いの手を差し伸べることができていたら、もっと全く違う関係性が生まれていたかもしれない」

 彼女はそう言って、少しだけ遠くの空を見つめる。秋らしい鈍色の空模様が彼女の瞳に移り込む。

 もしも彼女の言うことが真実だとするなら、あの不均等で非対称的な振る舞いは孤独に歪んだ彼の心の表れだったのだろうか。そう考えて見ると、得体が知れなかった彼の存在がわずかに理解できたように感じた。

「だからユリルたちの話を聞いたとき、これは彼を孤独から救い出せるまたとない機会なんじゃないかと思った。そうであって欲しいと思ったの。もしかしたらそんなことを望んでいないかもしれないけれど、もしもあの『箱庭』に閉ざされてしまった人を解放しようと言うのなら、あの人も一緒に連れ出してあげて」

 僕は頷くこともできず、曖昧な返事をするばかりだった。彼も被害者だとしたら、一体僕たちが心に打ち込まれた鎖で繋がれている先には何があると言うのか。

「フェンネは優しすぎるよ。悪いけど、僕はあいつをそんな風には思えない」

 若干の躊躇いを混ぜつつも、セレンははっきりとロワールを否定する言葉を吐いた。彼は幼い頃、ロワールの手で母から引き剥がされた。おそらくそのことを今も忘れられずにいるから、こうして強い憎しみを顕わにするのだろう。

 じゃあ、僕はロワールにどんな感情を抱いているんだ?

 確かに僕の心には恐怖や怒りが今も渦巻いている。けれど、それは果たして本当に彼に向けるべきものなのだろうか。みんなの心を見ているうちに、いつの間にかそんな疑問が湧き上がっていた。

 彼の言葉はいつもある意味で正しかった。だからこそ、僕たちは怒り、悲しみ、悩み、苦しめられていた。

 彼は僕たちを映す鏡のようなものなのかもしれない。だとしたら、きっと彼への感情はそのまま自分自身へのそれと同一である。

 ともかくあの箱庭から解き放たれるためには、彼が何者であるかを見極める必要がある。少なくとも僕の心には陽炎のようにぼんやりと浮かぶ彼が居座っている。

「人は、必ずしも一面的じゃないんだと思う」

 まるで僕の思考に呼応するように、フェンネは言う。その声はまるで朗読劇を語るように落ち着きのある透き通った音色だった。

「花と同じだわ。鮮やかな表情を見せる花弁にも表と裏があって、当然それ以外に葉や茎もある。普段は見えないところには根が生えているし、姿を隠すようにひっそりと実がなっていることもある。一面だけを見てわかった気になるのは簡単だけど、それじゃその花の本当の美しさはわからない。多面的に、あらゆる角度から見なくちゃいけない」

 彼女の言うことは確かに僕も実感していることだった。『箱庭』出身者たちに会って、僕は箱庭というあの場所と、ロワールという人を、彼らの目を通して知ることができた。そこには必ず僕にはない視点が含まれていて、見えていない部分が見えた。

 それでもまだ僕の心に浮かぶ彼は輪郭を持たずぼやけたままだった。僕たちは彼の根を見つけられずにいるのだろう。彼女はその部分にこそ、彼の孤独があるのだと考えているようだった。

「二人ともまた来てね。季節が変わったら、全く違う景色を見せられるから」

 別れる間際、そう言って彼女は僕とセレンにそれぞれ花を包んで渡した。

 あまり花のことを知らないから、何の花かはさっぱりだったけれど、淡く儚げな色彩を放つそれらは、彼女が遠い記憶に馳せた希望を表しているように感じた。

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