5-5

「ありがとう。確かにこの云壜は預かるよ」

 僕はワジから真っ赤な炎の灯った云壜を受け取る。ここまでに僕が会ったのは彼でちょうど十人目だ。バルドイが回ってくれている人も合わせると、やっと半分くらい。先はまだ長いけれど、今のところ順調ではあった。

 みんなの協力もあり、すでに居場所については全員把握できている。しかし遠くに行ってしまった人もいて、いざ実際に足を運ぶとなるとなかなか骨が折れそうだった。

 まだ門前払いを受けるようなことはなかったけれど、僕が訪ねていくとあまりいい顔をしない人も少なくはなかった。それは僕個人に対する感情ではなくて、『箱庭』というあの場所、あるいはロワールにトラウマめいたものを感じていることが理由みたいだった。

 その気持ちが云壜に直接的に表れている人もいて、まさに今目の前にいるワジがその一人だった。

「正直俺はあの場所が嫌いだし、今でもあいつのことは絶対に許せない」

 云壜の中に吐き出してもなお、煮えたぎるようにふつふつと湧き上がるネガティブな感情が現れていた。血走るように充血した目と短く切り揃えられた髪を逆立てんばかりの迫力に、その感情の強さが見て取れる。

 だた、彼がそう言うのも無理のないことだった。僕は彼の隣で人形のように座る少女に目を遣る。虚ろな目ときつく結ばれた唇。肌は色素を失って、ハレーションを起こしたように白く光っている。

 少女はリリアと言って、ワジの実の妹だった。幼い頃両親に捨てられ、以来ずっと二人で助け合いながら生きてきた。施設にいた頃は、そんな風に信用し合う二人を見てよく羨ましく思っていた。

 不器用で愛想のない兄とは対照的に、周囲を明るくする無垢な笑顔と博愛にも似た純白の優しさを兼ね備えた子だった。春の野を彩る花のようでもあり、今目の前にいる凍り付いた少女と同一人物とはとても思えない。

 ある事件がきっかけで、彼女は地面に落ちた花瓶が砕け散るように、心を粉々に壊されてしまった。

 詳しいことは誰にもわからない。最初にワジが彼女を見つけたときには、あられもない姿で床に倒れ込み意識を失っていた。そしてその日に教育係の一人だった男が失踪したことで、皮肉にも何が起こったかを想像することは容易かった。

「もちろん犯人の野郎は顔を見たらすぐさまぶち殺してやりたいくらい憎いさ。でもそれと同じくらい、あいつのことが許せない。あいつはあのとき、俺たちに向かってなんて言ったと思う?」

 彼は筋が浮き出るほど固く拳を握る。

「『そうやって今感じている理不尽な世界こそ、君たちが生きることを定められたどうしようもない現実だ』と。あいつはそう言って蔑むように笑ったのさ」

 そのことがあってから彼女は心を閉ざしたように言葉を発さなくなり、こちらの呼びかけにもほとんど反応しない。無理矢理に食べ物を口に押し込んでやらなければそのまま死んでしまいそうな状態で、医師の手でもどうすることもできず、いつか彼女が自分の意志で目を覚ますのを待つしかないと言われていた。

 ロワールはそんなリリアを『箱庭』から追い出そうとして、それに対してワジは強く抵抗した。危うく二人は間を引き裂かれて別々のところへ出されそうになったが、バルドイやルイたちの説得もあって、何とかその後も一緒に暮らすことができたのだった。

 それからはずっとワジはそんな妹を付きっ切りで世話し、それは今でも変わらず続いている。

「あの日からリリは現実を拒むようになって、こんな人形みたいになっちまった」

 自嘲するような投げやりな言葉を吐いて、彼は急に脱力して肩を落とす。きっと彼は今の彼女に責任を感じているのだ。彼は『箱庭』やロワールへの怒りを語ったけれど、何よりも自分のことが許せないのだろう。

「君はあれからずっと苦しみ続けてきたんだね……」

 その苦しみを想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。彼もまたあの場所に囚われ続けている。

 少しだけ全身に力を込めて、改めてリリアの方に向き直る。

「彼女とも話をしていいかな」

 僕は上擦った声を何とか堪えて言った。

彼女もあの二十一人の中の一人で、だから想いを受け取らなくちゃいけない。元々そのつもりではあったけれど、彼を見て何とか彼女の心に手を届かせたいと思った。

 壊れてしまった心の中で、わずかに残った想いの断片を見つけることができれば、もしかすると彼の苦しみを少しでも和らげられるかもしれない。もちろん上手くいく確証はない。それでもやってみる価値はあるはずだ。

 用意していた濃いアメシスト色の小壜は、こうして彼女の前に置くと妙に蠱惑的で、背筋に指先を這わせるような悪寒が走った。中に閉じ込められた想い石はまるで今の彼女そのものを表しているように見える。

 しんとした中に空気の流れる微かな音だけが聞こえる。自分と世界とが薄く透明な膜によって隔てられ、すべてを他人事に感じる。そして境界が曖昧になり、ついには自分というものさえもわからなくなってしまいそうだった。

 これが彼女の見る景色。すべてを拒絶した末に辿り着いた場所。

 声を出そうと口を開くけれど、そこは水の中みたいに音が響くことなく消えていく。だから何度も彼女を呼び続けた。そして必死に訴える。

 ――この世界はあまりに理不尽に思えるかもしれない。でも違うんだ。その理不尽と同じくらい、優しさや喜びに満ちている。どんなに苦しくたって、それを見つけることができれば僕たちは生きられる。君はそれを知っているはずだ。

 ワジの心に垣間見た、深い愛を思い出す。

 ――絶望の闇に呑まれて、大切なものを失わないで欲しい。きっとそれが何よりも悲しいことだから……。

 言葉を出し尽くしたところで、僕は弾き出されるように意識を取り戻した。リリアは相変わらず焦点の定まらない目で宙空を見つめている。

 虚ろげな鈍い輝きを放つ紫の壜は炎を灯さないままで、この世界は先ほどまでと何一つ変わっていなかった。

「……ごめん」

 情けない声を漏らすと、祈るように目を瞑っていたワジは黙って首を振った。

「いや、いいんだ。お前は悪くない。悪いのは全部俺だ」

 彼は自暴自棄でニヒルな笑みを浮かべる。

「リリがこうやってこの世界に絶望して、生きることを諦めちまったのは、きっと俺のせいなんだ。必死にリリと向き合おうとするお前の目を見てさ、俺はすごく恥ずかしくなったよ」

「そんな、君だってずっと彼女の隣で一緒に向き合おうとしていたじゃないか」

「違うんだ。俺はずっと逃げていたんだよ」

 目を伏せ、顔を背けて、彼は絞り出すように言葉を吐き出す。

「つらいのはこいつだったはずなのに、俺はまるで自分がこの世界で一番不幸みたいな気持ちになってた。それでつい、『俺たちは生まれてこなかった方がよかったのかもしれない』なんて口走っちまった」

「それは仕方ないよ。人はいつでも強くあれるわけじゃない。リリアが傷ついていたのと同じくらい、君も傷ついていたんだろう」

 自分で自分を傷つけようとしているみたいに震える彼に、僕ができるのは空虚な言葉を投げかけることだけだった。当然そんな言葉が彼に届くわけもない。

「違う。ダメなんだよ。それでも俺は強くなくちゃいけなかった。こいつが倒れないように、ちゃんと支えてやらなくちゃいけなかった。なのに、それなのに俺は、信じてくれていたリリの気持ちを裏切っちまったんだ」

 その言葉はあまりに重く、呪いのように彼の心を縛る。しかし僕にはそれを解くことはできなかった。今の彼には僕の声など全く届かない。それほどに自分を追い詰めていた。

 喉に何かがつっかえたみたいに上手く言葉が出てこなかった。あんなにも燃え盛っていた彼の心を映した云壜の炎は、いつの間にか今にも消え入りそうなほど弱々しいものに変わっていた。静まり返った室内には湾曲する耳鳴りの音だけが響き渡り、僕の脳を締め付ける。

「…………っ」

 永遠に続くように思えた冷たい沈黙を破ったのは、ほとんどうめき声に近い小さな息の音だった。突然発せられたその音に驚いて顔を上げると、顔色一つ変えることのなかったリリアがわずかに口を開いて必死に何かを訴えようとしていた。何度も何度もその声にならない音を繰り返していくうち、呼気に少しずつ振動が加わっていく。

「……たし、は。……だから…………」

 僕とワジは息を呑むように彼女の声が出来上がるのを待った。特にワジは溢れかえった感情に心をかき乱され、神に縋るような顔で彼女を見つめている。

「わたし、は、だい……じょぶ。……だから。おにい……ちゃん、は、せめない……。じぶんを……せめないで…………」

 絞り出すように掠れた声で彼女は言う。そして落ち窪んだ瞳に色が差し、それが小さな雫となってこぼれた。同時に、押し黙ったように置き去られていた云壜が微かな白い光を灯す。

「リリ……?」

 しかし彼女は再び口を閉ざし、心を閉ざしてしまった。まるで今の一瞬が白昼夢であったかのように、色彩を欠いた空虚な瞳に戻っている。

「きっとまだ彼女は戦っているんだ。絶望に屈しないため、生きるために」

 僕は今にも消えそうな炎を絶やさないように、そっとワジに云壜を渡した。

「俺は、本当にダメな兄貴だ」

 一方で、彼の想いがこもった炎は、再び煌々と赤く燃え盛っていた。しかし最初に見たときと違って、そこに怒りや憎しみ以外の感情が表出していたのは、彼が過去から逃げるのをやめた証明だった。

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