5-3

「それで、頼み事っていうのは何なんだ?」

 ロベルトは甘い香りが立ち上る紅茶を僕の前に差し出す。純白で底の浅いカップの中に、秋を彩る落ち葉のような鮮やかに揺れる赤色が満ちている。そこにぼんやりと映った自分の顔と向き合いながら、息を吸うようにそっとその紅茶に口をつけた。

 僕はロベルトの家にやってきていた。一人で住まうのにはちょうどいい広さのワンルーム。場所は都会の喧騒が囁きほどに聞こえる裏路地の一角で、ここにいると切り出された別世界に迷い込んでしまったような奇妙な感覚に陥る。

 意外にも部屋の中は質素で、必要最低限の調度品が置いてあるだけの物寂しい空間だった。派手好きな彼のことだからもっと豪華絢爛な部屋を想像していたので、まるで牢獄のような味気無さに拍子抜けしてしまう。

 物が少ないこともあってか、部屋は隅々まで掃除が行き届いていて、比較的古い建物ながらもかなり清潔感のある印象を受ける。しかし彼がちまちま部屋の掃除をしているところを想像すると、思わず笑いがこぼれた。

「そう。今日は頼みがあってきたんだ」

 もう一度紅茶で口を湿らせたあと、僕はゆっくりと話を始めた。

 僕が語ったのは、他愛もない雑談であり、思い出話であり、懺悔であり、独白であった。この間ロワールに会ったことから始まって、『箱庭』で過ごした日々のこと、云壜屋として経験してきたこと、忘れようとしていた『あの日』のこと、そしてアリサがくれた想いのこと。

 床に散らばったパズルのピースを一つずつ拾っていくような雑然とした話だったけれど、ロベルトは黙って僕の話を聞いてくれた。すべてを聞き終えたあとも、彼は多くを語らなかった。そうか、と深い溜め息のような言葉を漏らしただけで、だから彼が何を思っていたのかはわからない。

「僕たちはあの日からずっと『箱庭』に囚われたままなんだと思う。忘れようとしたって、忘れられるはずがなかった。だから今度こそ、僕は向き合うことに決めた。これは僕たちが本当の意味で自分の人生を生きていく上で、きっと必要なことだ」

「だからって、今更どうする気だ」

「あの日のことは僕たちがやったんじゃないって、ロワールに伝えるんだ。そして今もそれぞれが必死に生きているってことも。僕たちは人間擬きなんかじゃない、れっきとした一人の人間だってことをあの人に認めてもらいたい」

 もしかしたら、そんなのは意味がないことなのかもしれない。でも僕の心にかかっている靄を取り払うには、まずあの場所と、そして彼と向き合わなくちゃいけないと思った。

「僕一人じゃ意味がない。あの場所で過ごしたみんなの力が必要なんだ。だから君にも手伝って欲しい」

 彼は呆れたように首を振った。

「全くずいぶん自分勝手な奴だな。自己満足のために、みんなを巻き込もうっていうのか」

「ごめん。でも……」

「まあ友人の少ない君だ。僕がいなければ、きっとそこで立ち往生してしまうだろう。それはあまりに可哀想だから、心優しい僕が手を貸してあげようじゃないか」

 いつもと変わらぬ彼の不敵な笑みに、僕は安堵を覚える。こんなにも彼を頼もしく思ったことはなかった。

「それで、具体的に僕は何をしたらいい? わざわざここまで来るくらいだから、もう考えはあるんだろう?」

 わざと煽るような口ぶりで言う彼に対し、僕は待ってましたというように身を乗り出して彼を見つめる。

「僕たちは云壜屋だ。だったら、できることは一つしかない」

 徐々に高揚感が溢れてきて、悪巧みをする子どものような気分になる。僕は彼とにやついた顔を見合わせたまま、これからやろうとしていることを語る。

「僕たちの手で『箱庭』に暮らしていたみんなの『想い』を集めようと思うんだ」

 前のめりになっていた身体を一度引っ込めて、お互いに落ち着いた体勢に戻る。彼はまだ僕の言っていることの意図を完全には掴めていないようだった。

「それがどんな想いかはわからないけれど、みんなあの場所に何かしらの想いを抱えたまま生きている。だからそれを僕たちが拾い集めて、ロワールの元へ届けるんだ。そうすれば僕たちがちゃんと心を持って生きていること、紛れもなく人間であることを伝えられる。何より、あのときに憑りつかれた大きな影から抜け出すことができるはずなんだ」

 彼は静かに目を瞑り、空を仰ぐように首をもたげる。今まで頭の隅に追いやっていたものに改めて目を向けているのだろう。彼はあの日の影を振り払い、新しい一歩を踏み出す最初の一人になろうとしていた。

 僕は鞄に入れてあった空の云壜を取り出し、そっと机の上に置いた。壜の中では先の尖った三角錐の想い石が淡い青色に輝いている。

 お互いの手がその壜の上に重なり、僕は鼓動の音を感じながら、彼の想いを探して心の中に深く潜っていく。

 強い光が現れるとともに、パッと視界が開けて見えたのは、雄大な青のパノラマだった。見渡す限りの空色。爽やかな風が通り抜ける草原に寝転んで、贅沢なキャンバスの上を飛び回る鳥たちを眺めている。

 ふと遠くの方から子どもたちがはしゃぐ楽しげな声が聞こえてきて、草原の先に視線を移す。そこでは懐かしい顔ぶれの仲間たちが飛んだり跳ねたりを繰り返して、弾けるような笑顔を振り撒いていた。

 そこには僕も、ロベルトも、バルドイも、しっかり者だったクリスやちょっと嫌みっぽいけど本当は優しいベン、花が大好きで庭に綺麗な花壇を作っていたフェンネ、運動が得意でいつもそこらを駆け回っていたタケル、僕たちに母親みたいな温もりをくれたマリナもいて、あのお調子者の四人組と、最後の最後まで誰よりも僕たちを想い、守ってくれたルイの姿もあった。

 そして最後に僕を驚かせたのは、草原を駆け回る僕たちを笑顔で見守るロワールがいることだった。彼が僕たちに向けていたのは、愛と優しさに満ち溢れた嘘偽りのない本当の笑顔だった。そんな彼を見た僕は急に胸の辺りが熱くなってきて、自然と涙がこぼれ落ちる。

「どうしてだろうな。僕はよくこんな夢を見るんだよ」

 必死に涙を拭っていると、いつの間にか隣にロベルトが座っていた。彼は温かい眼差しで遠くの自分を見つめている。

「いつかこんな日が来るんじゃないか、来たらいいと思ったのかもしれない。今でもここに来てしまうのは、きっと僕もあの場所に囚われ続けているからなんだろうな」

 寂しげに顔を伏せ、彼は小さく溜め息を吐く。

「僕たちはどこで間違えてしまったんだろう」

 それは奇しくも僕も同じように幾度となく問うてきたことだった。でも今ならその答えがわかる。

「大事なのはどこで間違えたかじゃない。どこで間違いに気付けるかなんだ。僕たちはこれからもう一度やり直していけばいい」

 それが僕の見つけた答えだった。過去に囚われてきた僕たちが前に進むための答え。

「……そうか、そうだな」

 目を開けると、ロベルトは憑き物が落ちたようにすっきりとした顔をしていた。柔らかい表情を浮かべる彼の瞳には、壜の中に揺れる炎の鮮やかな空色が映り込んでいる。

「これはずいぶん長い道のりになりそうだ」

「もしかしてビビってる?」

「まさか。僕と君の二人でできないことはないさ」

 そんなことを言い合いながら、僕たちはしばらく云壜の炎を見つめながら、彼の心の中で見たあの美しい情景を思い浮かべていた。

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