5-2

「ちょっと聞いてるの?」

 アリサに強く肩を揺さぶられて、まるで話を聞いていなかったことに気付く。

「ああ、ごめんごめん」

「最近いつもそうやってボーっとしてるでしょ。仕事にも支障が出てるって、セレンも心配してたわよ」

 確かにここのところ彼女の言うように、ふとすると意識が目の前の景色から外れて茫然としてしまうことが多い。空虚な白昼夢に吸い込まれていく感覚で、何を考えるでもなく、ただ意識がふらふらと宙を彷徨っているのだ。

 そのせいかわからないが、云壜屋としての仕事が上手くいかなくて困っていた。この数日で何人かお客さんが来てくれたが、全部失敗してこちらから依頼を断る形になってしまった。今までは一度もこんなことはなかったのに、突然云壜が作れなくなってしまったのだ。

 いつも通り相手の心の中に入っていくところまでは問題なくできる。しかしその想いに触れようとすると、途端に伸ばした手からあの黒い炎が上がって拒絶されてしまうのだった。そしていつも決まってあの声が聞こえる。

 ――結局キミたちは心を持たない人間擬きでしかないのさ。

 むしろ今までが間違っていたのかもしれない。僕が人の想いに触れるなんて、ロワールが言うように無粋な皮肉でしかなかった。心を求めて必死に人間になろうとしていたけれど、それこそが心を持たない人形である証だった。

「様子がおかしくなったのは、バルドイに会いに出かけてからよね? でもあの人に聞いても何も教えてくれないし……。ねえ、一体何があったの?」

 ひどく心配してくれているようで、アリサは話を聞こうと手を差し伸べてくれる。いつも僕は彼女に助けられてばかりだ。

 僕は迷った末、彼女の優しさに甘えることにした。ロワールに会ったことや、彼がどんな人物であるかを簡単に話した。そして彼に会ったことで、忘れようとしていた記憶が蘇って、それによって苦しんでいることまで吐露する。

「でもいつかは向き合わなくちゃいけないことだった。それはわかってた。だからこそ、彼の言葉がずっと耳に残ったまま、頭から離れないんだ」

 ぼんやりと重くなった頭を押さえる。今も耳元で彼の声が聞こえる気がした。

「そんなに自分を責めなくたっていいじゃない。あなたが何をしたって言うのよ」

「何を……? いや、何もしていない。僕はいつだって何もしていない。ただ呆けた顔で口を開いて、乞食のように誰かが助けてくれるのを待つだけ。そして一度救い上げてもらったあとは、そのことも忘れて我が物顔で生きていく。僕はそういうずるい人間なんだ」

「もしもあなたがそんな人間だとしたら、今そうやって苦しんでいるのはどうして? それはあなたがきちんと自分の過去に向き合おうとしているからじゃないの?」

 そう言ってアリサは自虐する僕を優しく諭す。

「ねえ、よかったら昔のことを話してくれない? ユリルがどんな風に苦しんでいるのかをもっと教えて欲しい。そうすれば、私も少しは役に立てるかもしれないから」

 僕はそんな彼女の言葉が自分でも驚くほど嬉しかった。柔らかい毛布に包まれたような安心感を覚える。もしかしたら、僕はずっと誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。

「少し長くなるかもしれないけど」

 そう前置きをして、僕はゆっくりと昔語りを始める。

「前にも少し話したけど、元々僕は両親に捨てられて、孤児として家もないまま何とか生きながらえているような状況だった。そんな死にかけていたところをバルドイに拾ってもらって、彼の紹介である施設に入ることになった」

 それから僕はあの場所で過ごした日々のことをできるだけ詳細に話した。セレンと初めて会った日のことや、あそこにはロベルトやその他たくさんの友達がいたこと。そのみんなで助け合いながら過ごしていたこと。商品として育て上げられる生活と、それに抗うように人間らしく生きようとした僕たちのこと。

 話せばきりがなかったから、印象深い出来事だけを話したけれど、それでもずいぶんと長くなってしまった。そんなまとまりのない話を、アリサはただ黙って聞いてくれた。そうしてようやく長い前振りが終わり、ようやく僕は話の本題に入る。

「彼と初めて会ったのは、ちょうど僕が十歳になった頃だった」

 そのときまではロワールという名前を聞くばかりで、実際に会ったことは一度もなかった。だから施設の最高責任者だと言われても実感が湧かず、およそ自分たちとは関わりのない人のように思っていた。

 彼はその日長い出張から帰ってきて、久しぶりに僕たちの元を訪れた。終始にこやかに僕たちと接し、雑談混じりに僕たちに様々な質問をした。その優しげな笑みはまるで本当の父親のように思えて、何だかとても嬉しくなったのを覚えている。

 しかしそこにいたうちの年長者たちだけは、彼から距離を取ったまま決して近づこうとしなかった。ロワールの方から話しかけられてもぽつりと一言返す程度で、ずっと目を逸らして黙り込んでいる。心なしか怯えているようにも見えた。

 全員と一通り話を終えると、彼はもう帰らなくてはと言って立ち上がった、小さい子どもたちが別れを惜しむように、駄々をこねながら彼にじゃれつく。それを軽くいなしながら、ふっと顔を上げてゆっくり僕らを見回した。

 ――キミたちは少し勘違いをしている。

 その顔には微笑みを携えたままだったけれど、声からは鋭い刃を喉元に突き付けてくるような冷たさを感じた。わいわいと賑わっていた空間が瞬時に凍りつき、張り詰めた静寂に包まれる。それだけの力がその言葉に込められていた。

 ――キミたちは決して幸せになんかなれない。忘れてしまったのかい? キミたちは世界から見捨てられ、絶望に沈み、孤独だけに愛された。生まれたときから幸福を奪われてしまっているんだ。ボクが拾ってあげたから生きることが辛うじて許されただけの、出来損ないの人間擬きさ。

 すべて言い終えて踵を返す瞬間、ほんの少しだけ彼の顔から笑みが消えた。そしてそこには憎しみと嫌悪を含んだおぞましい影が差していた。

 それから彼は度々僕たちの元を訪れるようになった。大抵は優しい顔で僕たちを見守りながら、時折近況なんかを尋ねてきた。

 あのときの恐怖が消えない僕たちは、後ろで蠢く影に怯えながら彼と接した。その影は何の前触れもなく僕たちの目の前に現れる。彼は突然豹変したように、あの冷たい声で僕たちのトラウマを鷲掴みにした。それは僕たちにとってはとても耐えがたいことで、実際彼の言葉によって心を病んで消えていった仲間が何人もいた。

「僕には彼がよくわからなかった。ただ僕たちを憎み、厭うているのなら、彼はもっと理不尽な王になることだってできたはずなんだ。それに彼が向ける笑顔は紛れもない本物だった。だからそのアンバランスさがひどく不気味で、余計に恐ろしく感じていた」

「二重人格のようなこと?」

「そうかもしれない。でもそんなに境界がはっきりしているわけでもなくて、どちらかというと、もやもやと感情がせめぎ合っているような感じだったんじゃないかと思う。ともかく僕は彼の真意がどうであるのかを知ることができなかった」

 僕たちが彼に感じていたのは、恐怖よりもむしろ困惑だった。彼が敵なのか味方なのかを推し量ることができなかった。あるいは、上手くすれば彼と仲良くできる未来もあったのかもしれない。もしもあの日さえ来なければ……。

「彼だけでなく、あの場所にいた誰もが絶妙なバランスで自分の心を保っていた。色んな想いを抱えながら、吹けば飛ぶような頼りない足場に何とか縋りついているような状態だったんだ。そしてそれはあの日を境にバラバラに砕けてしまった」

 あの日は何の変哲もない一日だった。いつものように一日中勉強詰めで疲れていたけれど、夕食が好物のクリームシチューだったから、何となくいい気分で布団を敷いて寝る支度を進めていた。

「おい、大変だ」

 すると、突然バルドイが慌てた様子でドアを押し開けて部屋に飛び込んできた。ずいぶん急いでやってきたのが肩で息をしているのを見てわかる。興奮のせいか、仄かに瞳が充血していた。

「そんなに慌ててどうしたのさ?」

「いいからすぐに荷物をまとめるんだ。ほら、セレンも起きろ。もたついている時間はないぞ!」

「だから一体なんだって……」

 とりあえず彼に言われるがまま、セレンを起こそうと後ろを振り返る。そしてそのときちょうど目に入った窓の外の景色に違和感を覚え、思わず言葉が途切れた。静かな冬の夜だというのに、外は眩い光に照らされていて、怒号にも似た声が飛び交っている。加えて遠くから聞こえるサイレンの音を聞いて、僕はようやく状況を理解することができた。

「火事だ。屋敷の奥の調理場の辺りが燃えてる」

 窓から身を乗り出して外を見ると、建物を丸呑みするような火の手が少しずつこちらに向かってきていた。玄関の辺りには一足先に逃げ出した何人かが茫然とした様子で燃え盛る炎を見つめている。塀の向こうは野次馬らしき人だかりができていたが、どうやら消防隊はまだ到着していないようだった。

「さあ、急げ! そろそろここも危ないかもしれない」

 僕とセレンは最低限の荷物だけ持って、バルドイの後に続いた。もう他のみんなも事態に気付いているようで、廊下は人で溢れていた。

「落ち着いて! 大丈夫だから、前の人を押さないようにゆっくり進んで」

 世話係のマリナが動揺する子どもたちを必死に誘導してくれていた。僕たちもそれに従って進む。

「このまま外に出れば大丈夫なはずだ。俺は念のため向こうの方を見てくる」

 バルドイは踵を返し、逃げ遅れた人を探して屋敷の逆側へ向かっていった。そんな彼を横目に、流れに沿って出口を目指す。

 何とか正面の玄関まで辿り着いて、建物の外に出ることができた。煙に覆われた息苦しさから解放され、大きく息を吸う。ここまで来ればもう安心だ。門を出たところに逃げ出したみんなが続々と集まっていた。

 僕もみんなのところに駆け寄ろうとして足を踏み出す。するとそのとき、ふっとどこからか微かに聞き覚えのある声が聞こえた気がした。

「……けて。…………助けて……」

 じっと耳を澄まして声の正体を探る。どうやらその声は火の発生源である調理場の辺りから聞こえていた。まだ誰かが逃げ遅れて残っているようだ。目を凝らして声の聞こえた方を確認すると、立ち上る炎の隙間にぼんやりといくつかの人影が見える。

 ――助けなければ。咄嗟にそう思った。しかしいざ身体を向けると、まるで沼に嵌ったみたいに足が重くて上手く動かない。無理に力を入れようとしても、全身が小刻みに震えながらそれを拒む。

 そんなことをしている間にも、火はどんどんと大きくなっていく。先ほどまでは隙間からわずかに覗いていた窓も、今はすっかり炎に覆われて見えなくなって、助けを呼ぶ声ももう聞こえない。一刻を争う状況だというのに、どうしても僕の身体は言うことを聞いてくれなかった。

 僕は恐怖していた。睨みつけるような炎に萎縮し、大切な仲間を助けに行くことができなかった。

震える身体を抑えながら、炎に背を向けてその場から逃げ出す。心の中を後悔と罪悪感の混じった感情で満たし、誰かもわからない逃げ遅れた彼らに、ごめん、と何度も呟く。

 息を切らして逃げ延びた仲間たちと合流すると、ちょうど耳障りな甲高いサイレンを鳴らした消防隊がやってきた。彼らは流れるような動きですぐさま消火活動を始める。

「奥にまだ逃げ遅れた人がいるんです。助けてあげてください……」

そのうちの一人を捕まえて、僕は縋りつくように言った。彼は悲しげな目で僕を見たあと、静かに頷いて炎の中へ飛び込んでいった。そんな彼の大きな後ろ姿を見つめて、僕はただ祈ることしかできない。

 何時間も必死に消火活動が続けられたが、僕たちを襲った炎は燃やすべきものを全て燃やし尽くしてようやく沈黙した。目の前に残ったのは黒焦げになった瓦礫の山と、妙に開けた虚しい風景だけだった。

 施設で暮らしていた二十一名のうち、逃げ遅れて取り残されたのは四人だった。僕より年下のちょっぴりお調子者だった仲良し四人組、ジェームス、ペータ、カイン、チャック。そのうちチャック以外の三人が動かない無惨な姿で戻ってきた。

 また、バルドイとマリナとともに僕たちの世話をしてくれていたルイも、瓦礫の下から無機物として発見された。見つかった位置からして、彼はおそらく取り残された四人を助けようとしていたのだろうということだった。

 そうして最終的に四人の仲間とみんなの家を失う形となった。仲間内でひっそりと葬儀が行われ、まるで最初から存在しなかったみたいに、彼らはすぐにこの世界から忘れられていった。

 炎が消え、彼らがいなくなっても、未だ僕の耳にはずっと彼らの助けを請う声が残っていた。あのとき僕が足を踏み出してさえいれば、彼らは今もここで一緒に笑っていたんじゃないかと思うと、胸が苦しくて上手く息が吸えなくなる。

 僕たちは一時的にロワールが近くに持っていた別荘に移り、訳が分からぬまま今までと変わらない生活を再開する。ただ呆然と悲しみに押し潰されていた僕たちは、そうすることで何とか自我を保とうとしていたのだ。

 それから数日が経って、ロワールが僕たちの元を訪れた。仕事で遠くの街へ出ていた彼は、火事のことを聞きつけて慌てて戻ってきたようだった。

「あれは単なる不幸な事故ではない」

 第一声、彼はそう言った。

「警察の話によれば、あの火事は放火で間違いないそうだ。それも犯人は内部の人間」

 糾弾するようなはっきりとした声と、蔑むような怒りに満ちた目を僕たちに向ける。そして彼は淡々とあの火事についての説明を始めた。調理場の裏口横にあるゴミ捨て場が発火元であること。そこが意図的に燃やされていたこと。周囲に全く痕跡がなく、犯人は裏口から出て火をつけたと思われ、内部犯の可能性が高いこと。順を追って語ったあと、彼は最後に大きなため息を吐いた。

「これは大きな裏切りだ。親代わりとしてキミたちに生きる権利を与えたボクの厚意を、文字通り消し飛ばしてしまったわけだからね」

 口調こそ冷静で穏やかだったけれど、それがかえって内にこもった激しい怒りを感じさせた。僕たちは何も言えず身を固めたまま、真っ直ぐに彼の方を見る。

「結局キミたちは心を持たない人間擬きでしかないのさ。自分が生きることにだけ執着し、理性を失い、汚らわしさに満ちたケダモノ。その証拠にどうだ。キミたちは少しでも炎の中で誰かを助けようとしたか? 自分の命を優先した結果、四人を失うことになったんじゃないのか? 今抱えているつもりになっているその悲しみは果たして本物か? ただ思考を止めて楽になろうとしているだけじゃないのか?」

 彼はそうやって僕たちに疑問を投げかけると、足早にその場を後にした。取り残された僕たちは、彼が置いていった問いを前に、何も言葉が出てこなかった。

ずっと自分たちが感じていて、でも恐ろしくて認めたくなかったこと。それを眼前に突き付けられた。彼はきっと僕たちなんかよりも僕たちのことをよくわかっていて、一番触れられたくないところを引っ張り出したのだった。

 その後、警察による捜査が本格的に行われ、僕たちは何度も取り調べを受けた。しかし結局真相が明らかになることはなく、事件は緩やかに闇の中へと消えていった。そしてその闇は僕たちを背後から覆う影となり、心をゆっくりと蝕んだ。

 何も変わらないまま時間だけが過ぎていき、気付けば一人、また一人と仲間たちがいなくなっていった。『箱庭』は機能を停止し、子どもたちは様々な場所に売られていったのだ。しかしみんなもそれぞれが何かに耐え切れなくなっていて、あの場所に居続けるのは難しかった。だからある意味、そうやって散り散りになったことは僕たちにとって救いだったのかもしれない。

 そうしてすっかりがらんどうになった『箱庭』で、僕は最後の一人になった。目的や強い想いがあったわけではなくて、ここを出るという決断すらできずに取り残されただけだ。

「一緒に行くか?」

 そんな僕を見かねたバルドイの優しさに甘え、彼とともに街を出て、云壜屋として働くことにした。幸い、あとは試験を受けるだけで資格が取れるところまで来ていたから、しばらくはバルドイについて実務経験を積んで、いずれは独り立ちする。

 云壜屋になれば、人の心に触れることができる。そうすれば僕も自分の心というものを見つけられるかもしれない。未来のことを考えながらそんな希望を抱いたのは、たぶん受け入れがたい今の自分から目を逸らすためだった。

 荷物をまとめ、部屋を出る。すると感情のない笑顔を携え、腕を組んで壁にもたれかかったロワールが待ち構えていた。そしてちょうど顔が見えない角度で隣に立ち、囁くような声を投げかける。

「親に捨てられ、世界から拒絶され、キミは誰からも想いを受け取らずに生きてきた。だからキミの心は空っぽで、決して想いが生まれることもない。どうしたってキミは人間擬きにしかなれないのだから」

 そのとき、彼がどんな顔をしていたのかわからない。いつものように不気味な笑みを浮かべていたのか、それとも怒りや嫌悪に満ちた顔をしていたのか。僕が振り返ると、もう彼の姿はなかった。

「……彼の言う通りだったんだと思う。僕は人の心なんてまるで理解できない、偽物だった」

長い回想を終え、最後に漏れ出たのは諦観と自虐を含んだ弱々しい言葉だった。

「最近またあのときに僕が助けなかった三人の声が聞こえるんだ。けれど僕はただ耳を塞ぎ、悲しみ、苦しむふりをするだけ。実際は彼らを空に見送ったときでさえ、涙の一滴も流れなかったんだから」

 こんな独りよがりで冗長な思い出を語って、一体に何になるというのか。自分があまりに惨めで虚しくなる。

「ずいぶんつまらない話をしちゃったね。でもこれで僕が本当はどんな人間なのか、わかっただろう。だからもう構わないで……」

 俯き加減で伏せていた顔を持ち上げると、真っ直ぐこちらを見つめるアリサの大きな瞳が目に入ってきた。その目には大粒の雫が溢れていて、頬骨の辺りを真っ赤にしながら嗚咽を堪えている。

「どうして君が泣くのさ……」

「だって、あなたがこれまでどれだけ苦しんでいたかを想像したら、あんまり可哀想だったから……。ずっと、そうやって自分を責め続けてたのね……」

 彼女はそっと僕の頬に手を添える。そしてこぼれ落ちそうな涙を優しく拭った。いつの間にか自分が泣いていることに気付くと、彼女の手の温かさを感じるとともに、一気に涙が溢れてきた。

「自分ではわからないかもしれないけれど、あなたはちゃんとたくさんの想いを受け取ってきたし、あなた自身もたくさんの人に想いを伝えてきたはずだわ。決してあなたは心のない人間擬きなんかじゃない。誰よりも心優しい普通の少年よ」

 穏やかな陽光に似た言葉によって、全身をそっと抱きしめられるような気分だった。この光に包まれながら生きることができたら、それはどんなにいいだろうと思う。それなのに、僕はまだその優しさを素直に受け取ることができなかった。

「そんなこと……」

「わかるの。誰よりも私があなたから想いを受け取って、想いを伝えようとした一人だから」

 そう言って突然彼女は僕の前に何かを差し出した。

「本当はもっと違うときに渡せたらよかったんだけどね」

 それは以前僕が彼女に頼まれて作った云壜だった。中に光っているのは、朝焼けのように明るく白んだ温かみのある炎。目の前に置かれたその壜にそっと触れると、その光に包まれていき、胎児が母の腹に感じるような優しい安心感に満たされる。

「受け取って。これは私からあなたへの想い」

 僕は目を瞑り、胸の中にその白い炎を思い浮かべる。云壜に込められた彼女の想いが溶けて染み渡り、風に吹かれたさざ波のように僕の心を満たしていくのがわかった。

 瞳の裏に出来上がった真っ黒いスクリーンには、想いの乗った情景が次々映し出される。僕とアリサ、そして僕たちが出会った人々とのワンシーン。そう。これは僕たちの記憶だ。

 そこには楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、つらいことも、すべてが映し出されていた。しかし暗い記憶も不思議と苦しくなかったのは、彼女の想いが僕の心に寄り添っていたからだった。

 役目を終えた壜が弾ける瞬間、込められた想いの最後の一欠片が薄暗かった僕の心をぽっと照らす。絡まった糸を解けていく感じがして、心がくすぐったかった。この想いは今まで感じたことがないものだったけれど、何故だかとても嬉しくて、同時に少し恥ずかしい。

「ね? 私の想いはちゃんとあなたの心に届いたでしょ?」

 彼女は泣き笑いのような顔を僕に向ける。その姿はあまりに綺麗で、窓から差し込む光が額縁となって、まるで一枚の絵画に思えた。僕は顕わになった心の輪郭をなぞりながら、夢見心地で彼女を見つめる。

「あなたにもちゃんと誰かを想う心がある。だからそんなに自分を責めなくていいの」

 生まれてからずっと歩き続けてきた途方もないトンネルを、そのときようやく抜け出ることができた。目に映るこの世界が色鮮やかで眩しい。心地良い静けさに埋もれ、湿り気を帯びた草木の香りを胸いっぱいに吸い込む。

「ありがとう」

 心の雫をそのままこぼしたようなあまりに弱々しい声だったけれど、彼女にはきちんと届いたようだった。一層顔をくしゃくしゃにして笑う彼女を見て、僕も堪え切れずに再び涙が溢れ出した。

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