第五章 想う心

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 僕たちが育ったのは、周囲を高い塀に囲まれた小さな屋敷の中だった。外界から隔離されたあの独特の閉塞感は、まるで首輪をつけられた家畜のようにひどく窮屈で苦しくはあったけれど、ある意味では安心や幸福に満ちたものでもあった。

 というのも、あそこにいたのはみな世界から拒絶され、世界に絶望した者たちだった。だからたとえあの場所が作られた偽物の世界で、実は外の世界よりも理不尽で、僕たちが感じた希望や幸福は仮初のものであったとしても、僕たちにとっては唯一無二の居場所だった。

 『箱庭』という名前で呼ばれたその施設は、一応見かけ上は孤児院という体裁を保っていた。しかし実態としては、拾ってきた孤児を都合のいい云壜屋に養成する農園のような機能を有した場所だった。

 云壜は想定された相手にしか開けることができないという特性から、人の想いを伝える使い方以外に、他者には知られたくない情報を届ける媒体として使用されることがあった。伝えたい内容を思い浮かべ、それを伝えたいと想うことで、それを云壜に収めることができるらしい。

 こうした使い方をする人たちにとっては、云壜屋は絶対に信用できる人間でなくてはならない。また通常の云壜屋にはない特別なスキルも要するため、貴族や政治家、中産階級の富裕層などは、専属の云壜屋を雇っていることが多い。

 そういう需要を満たすには、心を持たない道具としての云壜屋が一番適していた。余計な詮索をせず、ただ言われるがままに仕事を全うする。そんな都合のいい道具を作ることこそがあの場所の持つ役割だった。

 僕たちは誰もが親に捨てられ、行き場を失った末にあそこへ流れ着いた孤児だった。心を持たずに生まれ育った欠陥品は、商品を作るのに都合がよかったのだ。そしてあの閉ざされた世界で何も考えずに決められた道を進むことだけが、僕たちに残されたたった一つの生きる術だった。逆に言えば、僕たちはその道を辿っていって云壜屋になりさえすれば、それなりな暮らしが保障されていたわけで、見方によってはずいぶん恵まれていたとも言える。

 実際あそこでの暮らしはさほど悲惨なものではなかったように思う。

 自由な時間はほとんどなく、云壜屋になるための訓練に加え、ある程度の教養や礼儀作法を学ばされた。僕らを教育する大人たちは非人間的扱いを徹底し、自己を否定され、情操を排され、心を持たぬよう教育された。

 それでも三食の食事と暖かい寝床、そしてともに過ごす仲間の存在は地獄を天国に思わせるほどのものだった。また、ほんの一握りの大人が僕たちを人間として扱ってくれたことで、僕たちは自己を失わずに人間でいられたように思う。彼らがいなければ、きっと僕たちは本当にただの道具として生きることになっていた。

 その一人が世話役として僕たちと一緒に生活をしていたバルドイだった。彼がいなかったら、あらゆる意味で僕は今ここにいなかっただろう。普段は恥ずかしくてそんなこと決して言えないけれど、彼には感謝してもしきれない恩があるから、いつかはそれをきちんと返したいと思う。

「……ユリー。ねえ…………ユリーってば」

「ああ、ごめん。どうかした?」

「君こそどうしたのさ。そんなにボーっとしちゃって。今日はバルドイに呼ばれてるんだろう? そろそろ行かなくちゃいけないんじゃないの」

 セレンに言われて時計を見ると、いつの間にかずいぶんと針が進んでいた。昔の思い出に耽っていたら、時間を忘れてしまっていたようだ。

 しかしどうして唐突にこんなことを思い出したのだろうか。最近ロベルトと再会したり、ルネに来たときのことを振り返ったりしたから、それでしまっていた記憶が呼び起こされたのかもしれない。

 そういえば今日は珍しくバルドイから食事に誘われているんだった。危うく忘れてすっぽかすところだった。そんなに改まって食事に行くような間柄でもないと思うのだけれど、何やら会わせたい人がいると言っていた。仕事の依頼というわけでもなさそうだし、行ってみないことにはどんな用件か予想もつかない。

 さっと準備を済ませて、僕とセレンは待ち合わせ場所に向かった。今日は青い空が澄み渡る気持ちのいい冬晴れで、穏やかな風に乗って流れてくる冬独特の静けさにうっとりしながら街を歩いていく。

 約束の場所に着いてもまだバルドイの姿は見当たらなかったので、何とか遅刻は免れたようだった。セレンと他愛のない話をしながらバルドイを待っていると、しばらくして後ろから僕を呼ぶ声が聞こえた。

「よう、ユリル、セレン。待たせたな」

「全く遅いよ。今日は一体何の用なのさ……」

 僕はやれやれと後ろを振り向く。そしてその瞬間、彼の隣にいる男を見て、思わず言葉を失って固まってしまった。

「……ロワール、さん…………」

「やあ、久しぶりだね。元気そうで何よりだよ。聞くところによれば、今では一人前の云壜屋として立派に働いているそうじゃないか。ボクとしても実に鼻が高い」

 下品に黒光りするスーツをしっかりと着こなし、主張の強いハットと銀縁の眼鏡を左手で何度も触りながら、彼は見下ろすように僕らの前にやってくる。

 蛇が全身を這い回るような不快感に襲われて、身体の震えが止まらなかった。状況が呑み込めず、頭の中が真っ白になる。瞬きすらできず、乾いた下唇を噛み締めながら、反射的に後ずさりをするのが精一杯だった。

「この前王都へ行っただろ? そのときにこの人に会ってな。久々にお前に会いたいって言うんで、近くへ寄るついでにこの街へ来てもらったんだ」

 そんな僕の様子を見ても、バルドイは何も言わず平気な顔で話を続けた。

「大丈夫だよ。もうここはあの場所とは違う。落ち着いて深呼吸をしよう」

 セレンがなだめるように僕の背をさすってくれた。おかげで辛うじて正気を取り戻して、バルドイの後について彼が用意した店に入った。

 僕とセレンが隣り合い、正面にはロワール、その横にバルドイという並びでテーブルについた。気持ちの悪い視線が未だ舐め回すように僕を見ている。せり上がる吐き気を必死で堪えながら、ただじっと目を伏せる。

 このロワールという男は僕たちが育った『箱庭』の出資者であり、オーナーとして僕たちを管理するあの施設の第一責任者でもあった。それはつまり孤児を商品に仕立て上げて売り捌く奴隷商人だったとも言える。

 彼は施設内で僕たちに会うと、いつも笑顔を携えて優しく振舞ったが、その裏では僕たちを嫌い、蔑み、時にひどく罵った。バルドイが僕らの人間性を保っていてくれたとするなら、僕らからそれを奪おうとしていたのが彼だった。

 まさに彼はあの小さく閉ざされた世界の絶対的な統治者だった。力ない僕たちはただ彼の言葉に従って、都合のいい商品であることに徹した。もし一度見限られてしまえば、自由という名の地獄へ戻ることになるから。

 それからのことはあまり覚えていない。ロワールとバルドイが話すのを聞いてはいたけれど、内容はまるで頭に入ってこなかった。食事もろくに喉を通らず、ぼんやりとしたまま内容のない夢の中にいるようだった。

「おっといけない。今日はね、何も再会を喜びに来たわけじゃないんだ」

 ロワールは不意にそう言って、それまで全く見向きもしていなかった僕の方に目を向けた。

「キミが楽しそうに暮らしていると聞いて、居ても立ってもいられなくなったのさ。さっき遠くからキミを見かけたときは驚いたよ。何と言ったって、キミは笑っていたんだから」

 少しも動いていないはずなのに、不思議と彼の顔がぐっと近づいてきたように感じた。反射的に身を引いてしまう。

「……まさか、キミはボクへの恩を忘れ、ともに育った兄弟を忘れ、あの日の出来事を忘れたわけではあるまいな?」

 突然笑顔を消し、突き刺すような冷淡さを持って彼は言った。目の前に見えるその姿が徐々に大きくなって禍々しさを帯びたどす黒い物体に変わった。あまりの恐ろしさに目を瞑るけれど、その影はなおも僕の視界を覆っていく。

 思い出した。これは火だ。あの日、すべてを燃やし尽くして、何もない僕たちから一切を奪った。僕たちを絶望に縛り付ける、鮮烈な炎。

「おやおや。そんな風にまるで自分が被害者みたいな顔をするんじゃないよ。あれはキミたちがやったことだろう? そうして自らの手で、めでたく幸せな人生を掴んだわけだ。全く羨ましい限りだな」

 頭の中を波打つように彼の声が何度も繰り返される。それと一緒にありとあらゆる記憶が溢れかえってきて、脳がぐしゃぐしゃにかき混ぜられるようだった。

「キミたちに裏切られた僕の気持ちがわかるか? ああ、わかるわけがない。キミは心ってもの知らないのさ。キミのような心のない人間擬きが、人間のふりをして人の想いを届けているんだから、本当に皮肉なものだよ」

「もういいでしょ! それ以上ユリルを侮辱したらただじゃ済まさない」

 机を思い切り叩いて、セレンが大声を上げた。ロワールを睨みつけながら、破裂しそうな感情を抑えるように身体を震わせている。

 僕は彼のおかげで少し落ち着いて、正気を取り戻すことができた。全身から脂汗が噴き出ていて、頭がはち切れそうなほど痛い。

「キミはキミで見世物小屋から拾い上げてやった恩を忘れたのか。どいつもこいつもろくなものじゃない。……もういいさ。興が覚めたから今日のところは帰らせてもらうとするよ」

 そう言って立ち上がると、ロワールは机の上にお金を放り投げて去っていった。その姿が見えなくなって、僕は水から上がってきたみたいに大きく息を吐き出す。やけに早くなった鼓動の音が空気を揺らしているのがわかった。

「大丈夫……?」

 セレンが優しく背中をさすってくれる。しかしその手は小刻みに震えていた。

 しばらく気まずい沈黙が続き、バルドイが立ち上がったのをきっかけにようやく僕たちはその店を後にした。

 目を瞑るとまだあの黒い炎がちらつく気がして、その影を振り払うように空を見上げる。ついさっきまではあんなに晴れていたはずなのに、今はすっかり灰色の雲に覆われてしまっている。何だか嫌な空模様だ。

「悪かったな」

 ふいにバルドイが立ち止まって、僕たちに背を向けたままぽつりと言った。

「いや……」

 僕は返す言葉が見つからず、目を逸らして口ごもる。

「もう少し上手くいくと思ったんだ。時が経った今ならあるいは……。でもそんな簡単な話じゃなかった。結果としてお前にただ嫌なことを思い出させる形になっちまって、本当に悪かったと思ってる」

「バルドイのせいじゃ……」

 苦しそうに言う彼がいたたまれなくて庇うような言葉をかけてみるけれど、彼は首を振って静かにそれを否定した。

「あの人のことをあまり責めてやらないでくれ」

 むしろ彼はロワールの肩を持つようなことを言う。その言葉の真意が僕にはよくわからなかった。

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