3-6

「この後、夜は祭りでも見ていくのかい? 案内でもできたらいいんだが、生憎この歳ではなかなかね……」

 別れ際になって、モーグさんは気を遣ってそんなことを言ってくれた。代わりに街の地図やおすすめの食事処なんかを教えてくれたけれど、残念ながら僕たちは一刻も早く帰らなくてはいけない。

「いえ、私たちは今日のうちに帰らなくちゃいけなくて……」

 予定よりもだいぶ遅くなってしまい、もうすでにサリエラは怒りで角を生やして待っているかもしれない。彼女は一見温和に見えて、怒るととても怖い人なのだ。もし夕飯が覚めていたりしたら、アリサは無事では済まないだろう。

「帰るって、今からかい? しかしもう最後の列車は出ていったんじゃないか……」

「えっ!?」

 僕らは慌てて時計を確認する。時間は六時過ぎ。確か最後の列車が七時に出発するはずだから、今から行けば間に合うはずだ。

「ねえ、ユリル。もしかしてあなたの時計止まってるんじゃない……?」

「そんなわけは……」

 もう一度時計をよく見ると、やはり時間は六時過ぎ。しかしいつまで経っても秒針が動く気配がなかった。そういえばさっき確認したときも、同じくらいの時間だった気がする。時計を凝視する僕を見て、アリサは呆れたように溜め息を吐いた。

「きっと街の方は祭りだから、宿を探すのも大変だろう。よかったらうちに泊まっていきなさい」

 結局僕たちはモーグさんの言葉に甘えて、この家に泊まらせてもらうことにした。彼は夕食までご馳走してくれて、まさに至れり尽くせりだった。これがハプニングでなければどんなによかったことか。美味しいご飯を食べていても、サリエラやセレンが怒っているだろうということを考えると息が詰まる。

 何よりアリサに申し訳なかった。一応僕は彼女の保護者的な立場で来ているはずなのに、まるで役に立てていない。実にふがいない限りだ。

 食事とお風呂を済ませたあと、明日一番の列車に乗るために、今日はもう寝てしまうことにした。ところが、この家には客用の寝室が一つしかないらしく、僕とアリサは同じ部屋で寝ることになった。

 僕はどこかリビングのソファで十分だったのだけれど、アリサの方がそれを拒んだ。一人だけそんな風にされては、自分もモーグさんも気を遣ってしまうから嫌だということらしい。ベッドはちゃんと二つあるし、どうせ眠るだけなので、申し訳ないとは思いつつも隣で寝させてもらうことにした。

 電気を消してしばらく目を瞑っていたが、なかなか眠ることができなかった。隣にアリサがいるという緊張感もあったし、まだ旅の興奮も残っていて落ち着かない。何となく目を開けると、アリサもまだ起きているようだった。

「ごめん、アリサ。僕がちゃんと時間を確認してなかったばっかりに……」

 何だか彼女の顔を見ていると、申し訳なさが募る。しかし彼女はもう気にしていないようで、もういいわよ、と言って僕の言葉を遮った。

「それよりありがとう。ユリルのおかげで、おじいちゃんが残していったものをちゃんと見つけてあげることができた」

 彼女は灯篭石のはまったペンダントを見つめていた。その石は暗がりの中で月の光を吸い込み、仄かな光を放って彼女の顔をぼんやりと照らしている。青白い光に包まれた彼女はひどく大人びて見えた。

「本当に感謝してる」

「どうしたのさ。急に改まって……」

 いつもと違う雰囲気の彼女に少し困惑する。静まり返った夜の空気がむず痒くて、ついおどけたように笑ってみせるけれど、彼女は依然として真剣な眼差しで石の中に映った月を見つめていた。

 彼女がベッドから起き上がったので、僕も向かい合う形でベッドに腰かけた。わずかに開いた窓の隙間から冬の始まりを告げるような透き通った柔らかい風が流れ込んでくる。頬に感じる冷たい空気には漠然とした寂しさが含まれていた。けれど、寂しさは必ずしも悲しみではない。隣で静かに笑うアリサを見ているとそう思えた。

「おじいちゃんが死んじゃったとき、私は自分でも驚くくらい落ち込んじゃってたの。部屋にこもってふさぎ込んで、誰とも顔を合わさないでいた。もう嫌だったのよ。これから大好きな人がこうやっていなくなっていくんだってことを考えると、未来が恐ろしくて仕方なかったし、生きること自体がとても理不尽に思えた」

 そういう時期があったという話は聞いたことがあったけれど、そこまでひどい状態だったとは知らなかった。今の溌剌とした彼女からは想像もできない。明るく優しい女の子だったからこそ、かえって繊細に傷ついてしまったのかもしれない。

「そんなときだったわ。ユリル、あなたに出会ったのは」

「え、僕……?」

「うん。ユリルは出会ったときのこと覚えてる?」

 もちろんそれは鮮明に覚えていた。当時行き場を失っていた僕は、元々ルネに住んでいたバルドイの勧めであの街へやってきた。しかしその道中で盗人に荷物をごっそり奪われてしまい、ほとんど一文無しの状態で何とかルネに辿り着いた。

 街に降り立ったときにはもう腹ペコで、とりあえずバルドイのところへ行かなくてはと歩き回っているうちに、僕は力尽きて道端で倒れてしまった。それを見つけて助けてくれたのが、アリサの母であるサリエラだった。

「実はユリルが倒れてるのを一番初めに見つけたのは私だったのよ。いつもみたいに部屋の窓から街をボーっと眺めていたら、突然道の真ん中で人が倒れたからすごく驚いた。慌ててママに伝えて、うちの中に入れて寝かせてあげたの」

「そうだったんだ……。じゃあアリサは僕の命の恩人だね」

 あのとき誰も助けてくれなかったら、本当に餓死していたかもしれない。それくらい限界に近い状態だった。結果として部屋まで借りることになったわけだから、もうアリサ一家には頭が上がらない。

「全くその通りよ。あなたが来てから、私はあんまり心配で夜も眠れなかったんだから。このまま目を覚まさないんじゃないかって思ったら不安で仕方なくて、ほとんど付きっ切りで看病してたのよ」

 それもまるで知らない話だったのでびっくりしたけれど、どうやら彼女が家族に口止めをしていたらしい。過剰な心配具合だったと自認しているから恥ずかしかったそうだ。きっと衰弱した僕の姿に、おじいさんの死が重なって見えたのだろう。今でこそこんな風に冗談めかして話せるけれど、当時の彼女にとってそれはとても重大なことだった。

「あなたが目を覚ましてからもあれやこれやと世話をしてるうちに、いつの間にか沈んでた気持ちは幾分か紛れていた。少なくとも人と普通に会話できるくらいには戻っていたわ。でも今度はそんな単純な自分に嫌気が刺したりもした。私はこのままおじいちゃんのことをすっかり忘れちゃうんじゃないかって、実はそれが一番恐ろしいことなんだって気付いた」

 確かにあの頃の彼女は時折その笑顔に影が差すことがあった。胸の奥に重たいものを抱えているような苦しみが垣間見える瞬間があって、直接心を見ずとも、彼女が暗闇の中でもがいていることが見て取れた。

 そんな彼女を前にして、僕は何もできなかった。仮にも人の心に携わる仕事をしているというのに、僕にはその扱いがわからない。せめて僕にできるのは、彼女がくれる必死の笑顔に笑い返すことくらいだった。

「やっぱり覚えてないんだね。私はあのときユリルの言葉に救われたんだよ」

 彼女はすっと立ち上がると、窓際に腰かけて僕を見つめる。夜風が吹き、膨らみを持った癖毛がふんわりと宙に揺れた。その表情はどこか悪戯っぽくて、楽しげに見える。

「ユリルの仕事を知ったとき、私はわざと意地悪な質問をしたの。『人の想いなんて移ろいやすくて不確かなもので、受け取ってもすぐに忘れ去られてしまう虚しいものじゃないか。そんなものに意味はあるのか』って」

 朧気ではあったけれど、出会ってすぐの頃にそんなことを聞かれた覚えがあった。ただ自分がどう答えたのかは上手く思い出せない。しかし彼女は僕が何気なく言ったその言葉を一言一句違わず覚えていた。

 ――想いは目に見えないし、ときには本人も見失ってしまうほど不鮮明で曖昧なものだ。でもそれは想いが無意味なものだからじゃない。むしろ想いに意味を与えられるのは自分だけなんだ。自分の心の中にある本当の想いを見つけ、伝えることができれば、それは相手の心の中で永遠に燃え続ける灯りになる。もし君が誰かから受け取った想いを忘れてしまったように思っても、たぶんそれは心の奥底に大切にしまってあるだけで、必要なときに君を照らしてくれるはずだよ。

「だから君の中にある想いを信じて欲しい。あなたはそう言ったわ。信じることで、想いには意味が生まれると」

 はっきりと覚えてはいなかったけれど、それは紛れもない僕の本心だった。僕が今まで生きてきて、云壜屋として人の想いに触れてきたことで得た実感だった。もう一度彼女に同じことを聞かれたとしても、僕は同じように答えるだろう。

 彼女は胸元のペンダントに目を落とす。僕はただ静かに彼女が語る思い出に耳を傾けた。

「おじいちゃんはいなくなってしまったけど、その想いはちゃんと私の中に残っている。そして私の想いも、彼の心の中に火を灯している。私はそのことに気付くことができた。自分の心と向き合って、信じることができたおかげで、少しだけ前を向くことができたの。それはユリルの言葉があったからだわ」

「僕は何もしてないよ。アリサが自分の力で乗り越えたんだ」

「そうだとしても、そのきっかけを与えてくれたのはユリルよ。今まで上手く言えなかったけど、やっと言える。あのときは、本当にありがとう」

 深く頭を下げたあと、彼女は歯を見せて無邪気に笑った。瞳の奥には涙が滲んでいたけれど、それはたぶん悲しいものではなくて、とても優しく温かな気持ちがこぼれたものだった。

「ねえ、あれ見て」

 微かに濡れた頬を隠すように僕に背を向けた彼女が、驚いた様子で窓の外を指さした。隣に立ってその指の先を見ると、思わず僕も感嘆の声が漏れる。

「すごく綺麗……」

 僕たちの視界には、夜闇に点々と浮かぶ鮮やかな光の群れが広がっていた。あれは街中に飾られた灯篭の光だ。この場所は少し小高くなっているため、上から見下ろす形で街を一望することができた。

 輪郭のぼやけた丸い灯火が立ち並ぶ夜景は、まるで色とりどりの花が咲いているようだった。美しい夢を見ているような恍惚とした気分に浸りながら、ゆらゆらと光る街を眺める。

「私もいつかはこの世界からいなくなってしまうけど、おじいちゃんの想いを私が受け取ったように、私の心に溢れる想いもきっと誰かの心に残り続ける。そうやって想いが繋がっていくのなら、この世界も少しはいいものだって思う」

 そんなことを言えるアリサが羨しいと思った。そっと自分の胸に手を当てると、心が空っぽなせいか、氷のように張り詰めた冷たさを感じた。

 ――世界はそこまで理不尽じゃない。

 前に彼女が言った言葉を思い出す。もしそれが本当なら、いつかこの空っぽの心が満たされる日が来るのだろうか。そして僕の想いが誰かの心に明かりを灯すことができるのだろうか。そうすればずっと問い続けてきた僕という人間の存在に意味を見出すことができる。

 僕は夢みたいなことを想像しながら、隣にいる彼女を見つめる。こうして彼女の隣にいれば、何故だかそんな夢も現実にできるような気がする。

 たぶん僕の方こそ彼女に救われたのだろう。未来に期待を持つことができたのは、彼女に出会ってその温かい想いに触れたからだ。彼女に出会わなければ、今も云壜屋を続けていたかどうかさえわからない。

「あっ」

 ふと目の前に広がる街並みから、ぼうっと光が一つ消えていったのが見えた。今この瞬間に、知らない誰かの願いが一つ叶った。僕にはまるで関係ないことのはずなのに、何だか不思議と少し嬉しくなる。それはきっと空に消えたその光が、この世界の希望を象徴していたからだと思う。

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