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「残念だけど、私は見覚えがないわ。ごめんなさいね」

 リタさんは物珍しそうに壜を見たあと、そう言って首を横に振った。念のため開けられるかも試してもらったが、全く反応はなく蓋はびくともしないので、宛先も彼女ではないようだった。

「そっかあ。おばあちゃんも知らないとなると、これはおじいちゃんもかなり本気だ」

 ここに来る前にアリサの両親にも確認してダメだったから、これで当てがなくなって一気に調査範囲は広がってしまった。とにかく何か取っかかりになるものを見つけないと動きようがない。

「何か手がかりになりそうなことはありませんか? 例えばおじいさんがこういう物を送りそうな相手とか、あるいは知り合いに云壜屋がいたとか……」

「そうねえ……。あっ、そういえば、私も一度あの人から云壜をもらったことがあったわ」

 リタさんはまるで箪笥の奥にしまったアルバムを引っ張り出すみたいに、遠い記憶を語ってくれた。それはたぶん彼女自身も長い間忘れていて埃を被っていた思い出で、久々に見つけて懐かしく思ったのか、とても嬉しそうな顔をしていた。

「確かあれは二人で初めてお店を出した年だったわ。あんな人だから普段から行事や何かは大好物だったけれど、その年の私の誕生日は特に張り切っていたの。二人じゃ食べ切れないご馳走を用意して、柄にもなくワインなんかも飲んで、本当に楽しい夜だった」

 アリサの話を聞いても思ったことだけれど、おじいさんは本当に魅力的な人だったんだというのがよく伝わってきた。一度でいいから会ってみたかった。

「そのときに云壜をもらったのよ。ちょうどそれと同じくらいの壜の中に、笑ってしまうくらい派手な七色の炎が勢いよく燃えていたのを覚えているわ。『君に伝えたい想いは言葉じゃ伝えきれないから、こうして形にした』と言っていた。開けたら本当に色んな想いが心に雪崩れ込んできて、一緒に彼と過ごした思い出が早回しみたいに蘇って、あんまり目まぐるしいから酔ってしまいそうなくらいだった」

 七色の云壜なんて聞いたこともなかったから驚いた。炎の色や大きさはその人の想いそのものを表すから、よほど破天荒な人だったんだろうなと思って、つい笑ってしまった。

 僕もアリサも一瞬本来の目的を忘れてそんな風に楽しく聞いていたけれど、彼女の話は単なる思い出話ではなかった。ちゃんとおじいさんが残した謎に繋がる手がかりが含まれていたのだ。

「その云壜を届けてくれた人が古い友人なのだと言っていたの。もしかしたらこれを作ったのもその人かもしれないわ」

「本当!?」

 思った以上に有力な情報を得て、僕たちは思わず声を上げて喜んだ。まだゴールにはほど遠いけれど、着実に一歩前進したのは間違いない。この断片的な情報の現れ方も彼の思惑通りなのだろうか。だとしたら参加者を楽しませ方が絶妙な塩梅だ。

「ええ。ただ名前までは……。私はその云壜を受け取ったときに会ったきりだけれど、あの人の知り合いをあたっていけば見つかると思うわ。この辺りに住んでいる人を何人か紹介してあげる」

 そう言ってリタさんは知り合いの名前と住所をいくつか紙に書いてくれた。ここから人づてに輪を広げていってその云壜屋に辿り着くことができれば、彼の残した宝にかなり近づくことができるだろう。何だか段々とゲームっぽくなってきて僕はワクワクしていた。

そして次の日から、僕たちは云壜屋探しを開始した。まずはリタさんに教えてもらった人を訪ね、その人におじいさんとの共通の知り合いを紹介してもらうという形で、少しずつ色んな人に話を聞いていく。

 数日間そんなことを続けて、かれこれ十人以上の人に話を聞いたが、結果はあまり芳しくなかった。おじいさんとその云壜屋が若い頃からの知り合いなら共通の知人も少なからずいるはずなのに、親戚や同級生、仕事仲間、馴染みの店のオーナーなどに聞いてもみな一様に首を横に振るばかり。

「困ったわね」

 これから隣街なども含めて聞き込みを続けていく予定だったが、正直このまま続けていても見つかる気がしなかった。もはやこの道が正しいのかすらわからない。どうやらサイゾウさんはそう簡単にこの壜を開けさせるつもりはないらしい。

「ここから一旦二手に分かれるっていうのはどうかな? 僕に少し考えがあるんだ」

「それはまあいいけど、考えって?」

 唐突な僕の提案にアリサは首を傾げる。

「アリサは今のまま知り合いをあたっていってくれればいい。僕はちょっと他の方面から探してみようと思う」

 正直思いつきだし自信はなかったけれど、それなりに可能性はあると思っていた。たぶんおじいさんは想定していなかった方法だろう。

「具体的には、云壜屋のつてをあたろうかなって」

 まあつてと言っても、知り合いはバルドイくらいしかいないわけで、彼に頼ることになる。彼は僕と違って顔が広いし、怠け者に見えて意外と事情通なところもあるから、何か掴めるかもしれないという期待があった。

「なるほど、確かにバルドイさんに手伝ってもらうのはいいかもね」

 彼女はすぐに僕の考えを察したらしく、ちょっと見栄を張った言い方とした僕をすっぱり両断する。完全に僕に知り合いの同業者が彼くらいしかいないと決めつけていた。自分で言うのはいいけど、こう面と向かって言葉にされると悲しいものがある。

 ということで、僕はここで彼女と別れ、バルドイの元へ向かうことになった。彼の自宅兼事務所はルネの中心地から少し外れた裏道の先にある。

 この辺りはお世辞にも綺麗とは言えない。むせ返るような密度の濃い下水の臭いが充満していて、息を吸う度に鼻に纏わりついてくる。両側にそびえる煉瓦の壁はカラフルな落書きで埋め尽くされ、地面に落ちた食べ物の残骸をネズミが喧しく取り合っていた。

 道端に座り込む人々に目を合わせないようにしながらそこを進んでいくと、その一角に薄汚い縦長のアパートが見える。この錆びと汚れが混じった深緑の扉を抜け、階段を上がって三〇二号室が彼の住む部屋だ。

「やあ、バルドイ。僕だ、ユリルだ」

 中に向かって声をかけながら何度か戸を叩くが反応はない。ノブに手をかけると鍵は開いているようだったので、勝手に上がらせてもらうことにした。入るよ、と一応断りは入れたし、彼も怒りはしないだろう。

 玄関を抜けてすぐのところに、彼の相棒であるミヤマガラスのフィルが止まり木の上で休んでいた。僕の気配に気付いて目を開くと、特に驚く様子もなく軽く会釈をくれた。相変わらずクールだなと感心しつつ、ちょうどいいのでバルドイの居所を尋ねる。

「主人ならちょうど買い物に行った。すぐに戻ってくるだろうから、奥で待つといい」

 フィルがそう言ってくれたので、お言葉に甘えてリビングでバルドイの帰りを待つことにした。ソファーでくつろぎながら、何となく部屋を見回す。

 ここへは何度か来たことがあったが、相変わらずあの風体からは想像できないほど小綺麗でさっぱりとした部屋だ。物は少なすぎず多すぎず。調度品は落ち着いた木目調の物が多く、全体的に渋い色合いで統一されている。

 前に来たときは気付かなかったが、この部屋には仄かに独特な匂いが漂っていた。木を蒸らしたような湿気を含む柔らかい匂いだ。まるで大きな木の中で丸まって眠っているような気分になる。どこか懐かしさを覚え、胸にほんのりと温もりを感じる。

 そうだ。僕はこの匂いを嗅いだことがある。あれは昔住んでいた街で、初めてバルドイに会ったときのことだ。あのときは僕がお腹を空かして倒れていたのを彼が助けて自分の部屋まで運び、少し味の薄いスープと硬くなったパンを食べさせてくれたのだった。

 助けてもらったのにお礼さえまともに言うことができない僕を見て、彼は怒ることもせず、変な顔だなあ、と言って笑った。それから身寄りもなく生きる術も持っていなかった僕に、云壜屋としての道を提示してくれたのも彼だった。照れくさくてつい憎まれ口を叩いてしまうけれど、彼はまさに命の恩人であり、生き方を教えてくれた師でもあった。

 そんな風に感傷的に昔の思い出に浸っていると、扉が開く音が聞こえてバルドイが帰ってきた。僕を見るなり呆れ気味に溜め息を吐いたが、それ以上特に気にする様子もなく、そのままコートを脱いで僕の向かいに座る。

「人の家でずいぶんとくつろいでやがるな、ユリル。こんなとこまで何しにきたんだよ」

 どぶに浸けたモップのような清潔感のない頭と、無精髭が雑に伸びきっただらしない顔。歳は確か二十代後半だが、灰色に濁った眠たげな瞳は顔に似合わずどこか子どもっぽい無邪気さがある。

 確かに云壜屋としての大先輩であり、命の恩人ではあるけれど、いざ目の前にすると尊敬の念が消え去ってしまうから不思議だ。

 彼は見た目の通り怠惰な人間で、あまり自分から働こうとしない。腕はその辺の云壜屋では到底太刀打ちできないほどで、単純な年数以上に経験も豊富なのに、普段はそれを放って一日中寝転がっている。僕も決して勤勉ではないけれど、彼を見ていると自分の姿勢を改めようと思うくらいだ。

「フィルがすぐ帰ってくるって言うから待ってたんだ。少し聞きたいことがあって」

 前置きなしに早速本題に入り、簡単にアリサのおじいさんのことやあの云壜のことを説明する。そして彼と同じくらいの年齢で、この辺りにいる云壜屋に心当たりがないかを尋ねた。

「じいさんの云壜屋ねえ……。ああ、そういえば、二つ隣のミロッカって街に、引退した大ベテランのじいさんがいたな。名前は確か……モーグと言ったっけ。あの嬢ちゃんのじいさんと知り合いかどうかは知らねえけど、歳は似たようなもんだと思うぜ」

 期待した通り、彼はこの近辺の云壜屋界隈には詳しいようだった。他にも何人か可能性がありそうな人をピックアップして教えてくれる。

 もし云壜屋を探すというのが正しい道筋なら、その人物はこの街そう遠くないところにいるはずだ。それを考えるとこの中にいる可能性はかなり高い。

「ありがとう、助かるよ」

 とりあえず用件は済ませて十分な収穫が得られたので、休憩がてらバルドイが今さっき買ってきたカップケーキをいただくことにした。彼は若干くれるのを渋っていたけれど、たくさんあったから一つくらいと半ば無理矢理もらった。

 彼は顔に似合わず生粋の甘党で、菓子店なんかが新しくできると必ず一度は足を運ぶらしい。これも王都で話題の店がルネに支店を出したということで、わざわざ何十分も行列に並んで買ってきたものだそうだ。確かに話題になるだけあって、その味はなかなかなものだった。内側に詰まった柑橘系の酸味が香る甘酸っぱいクリームと外側のふわっとした生地の相性が絶妙だ。

「そういえば今日はセレンと一緒じゃないんだな」

 二つ目のカップケーキを頬張って口をもごもごと動かしながら、バルドイはふと違和感に気付いたようにそう呟く。確かに普段出かけるときは大抵セレンが一緒だから、こうして一人で人と会うのは珍しいことかもしれない。

「まあ今日は仕事じゃないからね。それにセレンが変なことを言うんだよ。僕はお邪魔虫だ、とか何とか……」

 結局あれは何だったのだろう。アリサには伝わっていたみたいだったけれど、あとから考えても僕には全くその言葉の意味がわからなかった。しかし何故かバルドイも何かを理解したようで、クリームがついた頬を緩めて不躾な笑みを浮かべていた。

「なるほど。お前さんの相棒も色々と大変だな。まあ一番苦労してるのは、あの嬢ちゃんだろうけどな」

 彼もそんな風によくわからないことを言って、笑い顔のままぽんと両手を僕の肩に乗せる。何を言っているのかと尋ねても全然教えてくれなくて、そのうちわかる日が来るさ、と誤魔化されるだけだった。とにかく小馬鹿にされているようで、少し腹が立つ。

「青いねえ、実に青い」

 窓から見える空を見つめて、彼はしみじみと言った。でも僕には雲が広がる薄暗い空しか見えない。雨が降る前に家に帰ろうと思い立ち、謎の感傷に浸る彼を置いて部屋を後にした。

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