2-4
一体どうして迷っていたのかわからないほど、あまりにあっけなく大樹まで戻ることができた。森を歩き回ったのが嘘のように思えて、狐につままれたような気分になる。あそこで彼女が声を聞いていなければ、下手をすると本当に二度と森から出られなかった。この森はおそらくそういう不可思議な空間なのだろう。
相変わらず悠然と佇むその巨大な木を見上げていると、気が抜けてどっと疲れが身体にのしかかるのを感じた。その重さでさっきまでのことが現実だったということを理解する。
「ここだよ」
ユナは木が見えた途端、勢いよく駆け寄っていった。
「あのね、ここでパパとママにおわかれしたの。ずっとまえのことだけど、ユナはおぼえてるんだ」
「おわかれ、ということは、君はここで……」
ここが彼女の一番古い記憶らしかった。捨てられた頃は物心もついていなかったはずだが、こういう記憶だけは忘れることができないのだろう。一瞬だけあの路地裏の景色が頭の隅にちらつく。あれよりは幾分かマシかもしれないけれど、それでもここに彼女が独りぼっちで泣いているのを想像すると胸が締め付けられる。
「神頼み的な想いがあったのかもね。ここなら信心深い人に助けてもらえる可能性も高いし。教会の隣に孤児院が建つのと同じ理屈さ」
セレンは諦観の混じった淡々とした口調で言う。
「そうだね。でもどんな理由があったのかわからないけど、そこまで自分の子どもの未来を考えることができたなら、自分の手で守ってあげて欲しかったと思うよ」
ユナには両親の愛情を信じさせるようなことを言ったのに、やはり僕の中には子を捨てる親を許せない気持ちもあった。ぶつける先のない感情だけが宙ぶらりんになって、じくじくと僕の身体を蝕む。
でも彼女は僕と違って家族がいて、きっと幸せになれる優しい子だから、こんなどうしようもない気持ちを抱えて欲しくない。そう思って愛されているのだと言ったけれど、果たしてそれがよかったのかはわからなかった。
「あ!」
ユナは何かを見つけたらしく、声を上げてどこかに向かって一直線に走っていった。その先を見ると、大樹の神を祀った祠が見える。
「何か気になるものでもあった?」
「うん! このこがさっきユナをよんだんだよ」
そう言って祠の奥を指差すので、僕は閉じられた扉の隙間から中を覗き込んでみる。しかし奥に見えるのは山型に積まれた石とそれを取り囲むように貼られたお札だけで、彼女の言う何かがいる気配はない。そもそも祠は全体で僕の膝くらいの高さしかなく、中に何かが入るようなスペースはなかった。
「いるよ。確かに何かがいる。何となく感じるんだ」
僕が反応に困って祠の前にしゃがんだまま固まっていると、後ろからセレンが語りかけるような穏やかな声色で教えてくれた。彼はその存在を感知して、畏敬の念を抱いているようだった。
おそらくいわゆる精霊に類されるような存在なのだろう。精霊とは自然によって生み出される人智を越えた力・存在の総称だ。通常は僕のような普通の人間には見えないし、聞こえないし、感じられない。しかしユナとセレンを見ていると、僕もそこにいる何かを感じ取ることができるような気がした。
「森の神様が僕らを助けてくれたのかな」
あまりそういうことを信じるタイプではないけれど、今回ばかりは神様にお礼を言っておくことにする。僕が手を合わせて目を瞑ると、ユナも恰好を真似して神様にしゃべりかけていた。上手く友達になれるといいなと思う。
もう太陽が沈み始めていて、大樹から伸びる村への道が赤く染まっていた。また迷ってしまわないように、夜がやってくる前に帰らなくてはいけない。僕たちは姿の見えない神様にお別れを告げて念願の帰路についた。
「ユナ! どこへ行ってたのよ、心配したわ……」
村に着いたあと、僕たちは念のためユナを家まで送っていくことにした。ユナの案内の元、無事家の前に辿り着くと、一人の女性が慌てた様子で飛び出してきた。そして泣きそうな顔でユナを抱きしめて、安堵の言葉を繰り返す。
「この子を連れて帰ってきてくれたんですね。ありがとうございました……」
どうやら彼女がユナの母親代わりをしているサラさんのようだ。簡単に事情を説明すると、深々と頭を下げてお礼を言われた。どちらかと言うと僕の方が助けてもらった立場だったし、お礼を言われるようなことはしていないので恐縮してしまう。
「すぐどこかへ行ってしまう子なんですが、今日は一際帰りが遅くてとても心配していたんです。掴みどころのないところがあって、いつか帰ってこない日が来るんじゃないかとずっと不安を感じていたもので……」
本当に心からユナのことを心配していたのだろう。その顔には憔悴の色が滲んでいた。
「あっ、ごめんなさい。私ったら、初対面の人にこんな話を……」
「いえ、むしろ僕みたいなふらりと村に立ち寄った旅人の方がこぼしやすい話もあるでしょう。それにユナちゃんからも、その、境遇については少し伺いましたから」
「そうですか、ユナが……」
サラさんは驚きと悲しみの混じったような微妙な表情を浮かべた。おそらくユナの中にある迷いをある程度感じ取っているのだろう。当のユナは無邪気に庭ではしゃいでいて、ずっとあの顔でいてくれたらいいと思う。でももしかすると、何も考えずただそれを望むのは大人のエゴかもしれない。
「あの、実は一つだけご相談があるんですが……」
お節介だとは思いつつも、僕は帰る前に彼女のためにしておきたいことがあった。あくまでも無関係な通りすがりの人間だし、たぶんこれは僕のエゴだ。それでもほんのわずかにでもユナの心を救うために、自分ができる最善であることは間違いなくて、だから何もしないよりは断然いい。
「彼女の両親が彼女とともに云壜を置いていったということを聞きました。それをまだ開けていないことも。もし迷惑でなければ、それを開けるお手伝いをさせていただけませんか? 僕はこれでも云壜屋を生業としているので、お力になれるんじゃないかと……」
云壜を開けるには云壜屋が必要だ。しかし聞いたところによると、この村や周辺には云壜屋がいないらしい。ユナの云壜が開けられていないままになっているのは、それが原因だったのではないかと考えたのだ。
これはユナの両親の話を聞いてからずっと考えていたことだった。彼女と一緒にいながら、色んな顔をする彼女を見て、彼女の語る言葉を聞いて、彼女の語らない想いを感じて、彼女のためにできることを考えた結果だ。
僕の提案に対し、サラさんは少し戸惑った様子だった。知らない旅人に突然こんなことを言われたのだからそれも当然だろう。こんな大事なことを知り合ったばかりで信用など全くない僕に頼むはずはないと半ば諦めていたのだが、彼女はしばらく考える素振りを見せたあと、静かにお願いしますと言って頭を下げた。
「実はずっと怖かったんです。いつまでもあの子の母親になれない自分が。だからあの云壜を開けてしまったら、それこそ二度と彼女の心がどこかへ行ってしまうんじゃないかと思って、目を逸らし続けていました」
サラさんは遠い目でユナの姿を見つめながら言う。それに気付いた彼女は訝しげな顔で首を傾げていた。サラさんが手を振ると、パッと顔を明るくして笑顔で振り返してくる。そのやり取りを見る限りでは二人は本当の家族にしか見えなくて、彼女の不安はひどく的外れなもののように思えた。
「そんな私たちの迷いが、あの子にも不安を与えてしまっていたのかもしれません。だから私たちがちゃんと向き合うために、まずは云壜に込められた両親の想いを知って欲しい。それはきっとあの子にとって必要なもののはずだから」
それはきっとたくさん悩んで、考えて、努力して、その末にようやく口にすることができた言葉だった。彼女の目には強い覚悟がこもっていて、前に進もうという意志が感じられる。
「何よりこうしてあなたと出会ったことが、きっと運命に似た何かなんだと思うんです」
彼女は少し冗談めかしたようにそう言って笑った。こんな僕を信用してくれたことが嬉しかった。
ユナに頼んで部屋から云壜を持ってきてもらい、まずは状態を確認する。壜自体は経年劣化で少しくすんでいたけれど、しっかりと封もしてあって中は問題なさそうだった。
「これね、全然開かないんだよ」
そう言いながら彼女は力を込めて壜を開けようとするが、当然蓋はびくともしない。どんなに力のある人がやっても、云壜は物理的に開けるということはできないようになっている。ハンマーで叩けば割ることはできるけれど、少しでもヒビが入るとそのまま壜は自壊して、中の想いは泡のように消えて無くなってしまう。きちんと開けて中身を取り出すためには、僕たちのような云壜屋と、受け取るべき当人が揃っていなければならない。
「それを開けるのが僕たちの仕事なんだ。さあ、壜を持ったまま目を瞑って」
子どもは素直だからだろうか、普段は相手の心へ入っていくのには多少時間がかかるものなのに、今回は目を瞑るのと同時に彼女の心の中へやってきていた。
そこは木々が鬱蒼と生い茂るあの薄暗い森の中だった。三百六十度変わらない景色に囲まれて、息が詰まりそうになる。
森中に響く静かなざわめきの中に、誰かの泣き声が聞こえた。人知れずすすり泣くその声はとても寂しげで、戸惑いに満ちたように感じられる。僕はそっと耳を傾けながら、ゆっくりと声のする方を探して森を進んでいく。
彼女がずっとこんな悲しい心に閉じこもっていたのだということに、驚きを隠せなかった。それほど彼女は両親に捨てられたことを傷として背負ってしまっている。
でもきっと今この手の中にある光が、深くて暗い森を優しく照らしてくれる。僕はそう信じて、一人で泣く彼女を探す。
もし僕の両親もこうして想いを残してくれていたら、僕は今の僕にはなっていなかったかもしれない。少しくらいは明るく笑える人間になっていて、人と関わることに積極的でいられたかもしれない。けれど、そんな自分はおかしくて笑ってしまうほど想像ができなかった。
森の奥で見つけた彼女は、木の下で隠れるように身体を丸めて蹲っていた。僕が静かに近づくと、真っ赤に腫れた目を擦って顔を上げた。
「そんなに泣かなくたって大丈夫だよ」
驚かせないようにゆっくりと優しい声をかける。彼女は身体を固くしたまま、怯えた目でこちらを見ていた。これはきっと目の前の僕に怯えているというよりも、この世界に怯えてしまっているのだろう。
「君は一人じゃない。ちゃんと想ってくれている人がいる。少しだけ上手くいかないことがあったかもしれないけれど、それだけを見て閉じこもらずに、顔を上げて今の景色を見て欲しい。僕はそれを伝えにきたんだ」
僕は彼女の顔の前で手を開き、預かった想いを渡した。それは青白くてとても明るいのに、どこか悲しみが混じった光だった。彼女は眼前で光る想いに恐る恐る手を伸ばす。
「パパ、ママ……」
その呼びかけに呼応するように、想いは一層輝きを増して視界を白く覆っていく。
彼女が受け取った想いの断片が切り貼りされたフィルムのように、僕の心にも流れ込んできた。悲しみ、苦しみ、後悔、罪悪感、そして強い自責の念と、残していった彼女への謝罪。そしてそれらすべてに共通するのは、温かな慈しみと深い愛情だった。
次第に霧散していた光が集まって人の姿へと変わっていく。そしてその靄がかった人影がユナを抱きしめるように覆った。
――私たちはあなたのパパとママにはなれなかった。それでも心の底からあなたのことは愛していることだけは信じて欲しい。いつか私たち以上にあなたを愛してくれる本当の家族に出会って、幸せに生きてくれることを心から願っているわ……。
それはともすると無責任にも思えるものだったけれど、本心から絞り出された切実な願いであることは間違いなかった。彼女の両親にどんなことがあったのかはわからないし、たとえどんな理由があれ、彼女を捨てたその行為は許されるべきものではない。それでもこの想いは紛れもない本物で、彼女を照らすようにとても美しく輝いていた。
沈黙が広がっていくのと同時に、光は萎むように静かに消えていった。僕は現実に意識を戻して目を開く。ユナもあの森から戻ってきていて、止め処なく溢れ出る涙に戸惑いながら、必死にそれを拭っていた。
「おかしいな、なみだとまんないよ」
彼女はずっと心の中で泣いていたのに、それを無意識に押し隠して生きていたのだろう。こうして実際に涙を流すのは初めてなようだった。もう無理をしなくていいから、思う存分泣いて欲しい。まずはそこから始まるはずだから。
「ユナ……!」
心に溜め続けていた想いが溢れ出していたのは、サラさんも同じだった。飛びつくようにユナを抱き寄せ、こぼれる涙を隠さずに、何度も彼女の名前を呼ぶ。頭を優しく撫でられる度、ユナの目から大粒の涙がぽろぽろと頬を伝って落ちていく。
「私たちはあなたの本当の親にはなれないかもしれない」
サラさんが心の奥底から吐露した懺悔の言葉は、図らずもユナの両親が残した言葉と同じものだった。唯一違ったのは、彼女はそれでもユナを愛すという強い決意が含まれていたことだった。
「でも本当の親にはなれなくても、それでもあなたのことを本当の娘のように愛している。大切に思っているの。だからどこにも行かないで、私たちと一緒に傍にいて欲しい」
愛おしそうにぎゅっとユナを抱きしめる。
「そんなことないよ」
泣き腫らして顔を真っ赤にしたユナが嗚咽するのを必死に堪えながら、サラさんに一生懸命語りかける。
「おばさんはね、ちゃんとユナのママだよ。だって、こうやってぎゅーってされるとね、ママとおなじかんじがするの。あったかくて、むねがぽわっとして、すごくあんしんする。これがママなんだなっておもうの」
きっとそれは彼女が自分の母の想いに触れて、初めて気付けたことなのだと思った。如何に自分が愛されているのかということを知った。そして自分の中にある愛をようやく見つけることができたのだ。
二人はしばらくそのまま泣き続けていた。僕は彼女たちの想いの仲介人としてほんの少しだけ役に立てたことがとても嬉しかった。
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