2-3

 歩けど歩けど、周りに見えるのは顔の似た木々が並んでいるだけ。つけてきた目印が見当たらないから同じところを通っていないのは確かだったが、奥へ進んでいるのか村に戻っているのか、それすら全くわからなかった。生い茂る枝葉のせいで、太陽ももうずいぶん見かけていない。

「セレンが空を飛べたらなあ」

 あまりに変化がなくて、そんなありもしない妄想に縋ってしまう。

「それだったら君が飛べばいいだろ」

 デリケートな部分を突かれて癪に障ったのか、セレンはそんな風に当てつけのようなことを言う。まあでも確かにそうだと思った。彼が飛べないのは、僕が飛べないのと同じだ。無神経なことを言ったと謝ると、彼は自分も悪かったとすぐに許してくれた。

 そうやって少し空気が険悪になってしまうくらい、僕たちはへとへとに疲れていた。そもそも僕もセレンもあまり活発な方ではない。運動なんて滅多にしないし、こんなに長時間歩き回るのも初めてなくらいだ。

 ふがいない僕たちに比べて、ユナはいつの間にか元気を取り戻して、飛び跳ねるように森の中をはしゃぎ回っていた。そのまま僕たちを置いてずんずんと先へ行ってしまう。一体あの小さな身体のどこからあんな元気が湧いてくるのだろう。

「おにいちゃんたちおそい」

 そんな風に彼女に急かされながら、何とか重い足を動かして道なき道を進んでいく。どうせ道なんてわからないし、どちらに進むかはもう完全に彼女に任せきりになっていた。彼女は帰り道を知っているみたいな自信に満ちた足取りで僕たちを先導する。

「痛っ」

 いよいよ足に力が入らなくなってきて、僕は足元に飛び出た木の根につまずいて豪快に転んでしまった。倒れた勢いで地面にぶつけた膝が痛んだ。泣きそうになるのを必死で堪えて立ち上がると、セレンが心配そうに駆け寄ってきてくれた。

「大丈夫かい?」

「うん、何とかね……」

 服についた土を払い、どこも怪我をしていないのを確認する。掌が少し擦れて血が出ていたが、それ以外は大丈夫そうだ。

「これ、おちてたよ」

 ユナも僕が転んだことに気付いて慌てて戻ってきてくれた。途中で拾ってくれたらしく、手に持った空の云壜を差し出してくれていた。どうやら転んだ拍子に鞄から出てしまったようだ。僕は彼女にお礼を言ってそれを受け取り、割れていないかを軽く確認した。

「ユナもそれもってる」

 彼女はその云壜を指差しながら言った。遊び道具として空き壜を誰かからもらったのだろうか。

「これはね、普通の壜じゃないんだ。云壜って言って、人の想いを詰めることができる特別な壜なんだよ。僕は云壜屋の仕事をしていて、想いの入ったこれを届けているんだ」

「うん、しってるよ。なかにね、ひがぼわってもえてるの」

 つい子どもだから知らないものだと決めつけてしまったけれど、どうやら彼女は云壜だとわかって言っていたようだった。それも火が燃えているということは、持っているのはすでに想いの込められたものだろう。

 云壜を開けないまま持っているのは、手紙を読まずにとっておくのと同じだからあまり推奨されない。しかし如何せん一度開けたら中の想い石は消えて無くなってしまうので、それが惜しくて開けない人は少なくないらしい。

「へえ、よく知ってるね。誰かからもらったの?」

 こんな小さい子どもに云壜を渡すなんて、ずいぶん珍しい気がする。もちろん想い自体は年齢に関係なくきちんと伝えることができるが、現象として自分に起こったことを理解するのはある程度大きくならないと難しいからだ。子どもからすると、よくわからないまま突然相手の想いが雪崩れ込んでくるような印象を受けることになる。

 それにそもそも大人同士の関係と違って、子ども相手なら言葉で想いを伝えられないということも少ない。さほど安いものでもないし、何か特別な理由がない限り、云壜という手段を使うことはないように思う。

「うーんとね。ずっとまえに、ほんとのパパとママからもらったんだって」

「ほんとのパパとママ……?」

「いまいっしょにすんでるおばさんたちはね、ほんとのパパとママじゃないの。ユナはほんとのパパとママにおいていかれちゃった……。おばさんがユナをみつけたときに、ゆうびんもいっしょだったんだって」

 彼女が語ったことに、僕は驚きを隠せなかった。最初に、一人なのか、と僕が聞いたとき、彼女はひどく悲しそうな顔をした。それは僕が思ったように迷子になったことへの不安ではなくて、彼女は文字通り一人きりだったのだ。

「可哀想に。君はずっと独りぼっちだったんだね……」

 僕はたまらなくなって、そっと彼女を抱き寄せる。腕の中にすっぽりと収まった彼女の身体はとてもか細くて今にも壊れてしまいそうだった。その心許ない感触が愛おしくて、とても苦しい。

「おばさんたちはやさしいけど、ユナはほんとじゃないから、おうちにいちゃだめなの。だからいつももりにきて、ひとりであそんでるの」

 あのときの僕と同じだ。家に居場所がないからできるだけ居たくなくて、いつも暗くなるまで外に一人でいた。たいして面白くないのに蟻の行列を眺めたりして、夜になったら帰らなくてはいけないから、ただただ夜にならないことを願っていた。

 森で彼女らしき影を見たとき、もしかしたら僕は自分と同じ何かを感じ取っていたのかもしれない。たぶん一人でいる彼女が昔の自分と重なったのだ。だからあんなにも気になって、ここまで追いかけてきた。

 いつの間にか彼女は声を上げず静かに涙を流していた。たぶんずっと我慢していたんだと思う。泣きたくても、どんな風に泣いたらいいかわからなかったのだろう。僕は彼女の背中をさする。ほんの少しでもいいから、彼女の苦しみが和らげばいいと思った。

「ママは、ユナのことすきじゃなかったのかな」

 嗚咽混じりの弱々しい声で、彼女はそう呟いた。これはきっと彼女が今まで悩み続けてきたことだ。一体どれほどつらかったことだろう。愛情をもらえなかったことへの恐怖は僕自身がよく知っている。

「そんなことは絶対ない」

 僕は確信を持って言った。ただ彼女を慰めるために言ったのではなく、本当にそう思ったのだ。

 彼女の両親は捨てた彼女に云壜を置いていった。それは残していった彼女に伝えたい想いがあったということだ。もし憎しみを持って娘を捨てたなら、そんな面倒なことはしないだろう。きっと少なからず未練や後悔があったから、せめてその想いを云壜に込めたのではないかと思う。

「ほんと……?」

「うん、本当だよ」

 縋るような目で僕を見上げていた彼女の顔に安堵の色が戻る。どうやら心につっかえていたものをほんの少しだけ取り去ってあげることができたようだった。

「それじゃあ行こうか」

 僕は彼女の手を引いて再び歩き始める。しかし何故か彼女はすぐに立ち止まり、僕も腕を引っ張られる形で足を止めた。

 後ろを振り返ると、彼女はぼんやりと宙を見つめていた。また悲しい思い出を思い出してしまったのかと心配になったが、そういう様子でもない。どうかしたの、と尋ねると、彼女は視線をそのままにぽつりと呟いた。

「なにかきこえるの」

 よく耳を澄ましてみるけれど、僕には何も聞えなかった。森の中に漂う環境音が雑多に流れているだけだ。セレンも特に気になるような音は聞こえていないらしい。それでも彼女の耳は確かに何かを捕えているようで、無言でその正体を探っていた。

「こっち」

 その迷いのない足取りに驚きながら、僕は手を引かれるままにユナの後を追いかける。どうやら音の聞こえる方へ進んでいるらしい。僕たちには見えない道が見えていて、その先へ吸い寄せられているようだった。

 聞こえる音に注意を向けて、彼女を導いている音を探す。すると遠くの方から微かに他とは違う音が聞こえるのに気付いた。源泉に近づくにつれて次第に音は大きくなり、ようやく僕はその正体を認識する。

「そうか、これは……川の音だ」

 風が葉を揺らす音に紛れて、ラジオから漏れるホワイトノイズに似た水流の音が森の空気を細かく震わせている。その中には丸みを帯びた破裂音が混じっていて、泡が水底から浮き上がる情景をありありと想像することができた。

 僕はその音に聞き馴染みがあった。森の中に薄っすらと広がり、音量を上下しながら、僕たちを覆うようにずっと聞こえていた。そして、不思議と意識の外に追いやっていたその音は、僕たちに活路を見出してくれるものでもあった。

 突然視界を遮っていた木々が消え、目の前が開けて見えた。そこには一本の川がゆったりと流れていて、何だか僕たちを待ちわびたと言っているような気がした。疎らになった枝葉の隙間から差し込む太陽の光を透き通った水が反射し、砕かれた宝石が散りばめられたみたいにきらきらと輝いている。

「よかった、これでもう帰れるよ」

 森に流れる川はすべてあの大樹から枝分かれして伸びているため、この川を上流に向けて上っていけば大樹の根元まで戻ることができる。これはすでに宿屋でもらった地図を穴が空くほど見て確認済だ。あそこまで戻ってしまえば、あとは一本道を下っていくだけ。ようやく帰り道の目途が立って、思わず安堵の溜め息が漏れた。

「さあ、急いで帰ろう。きっと家でみんなが待ってる」

 僕はそう言ってユナの方に視線を落とす。しかし彼女は一切動こうとせずに、まるで何かを探しているみたいに周囲に目を凝らしていた。

「ユナね、だれかによばれてたの。でもいなくなっちゃった」

 彼女は寂しそうに目を細めて俯く。勝手に川の音を聞いていたのだと思っていたけれど、彼女には僕たちとは別の何かが聞こえていたようだった。それは聞いたことがないはずなのによく知っているような、妙な声だったと言う。

「見えない誰かが僕たちを助けてくれたのかもしれないね」

 そうだったとしたら、お礼を言わなきゃいけない。けれどユナにももう声は聞こえなくなっていて、当然周囲に人がいる気配もなかった。僕は落ち込んでいる彼女を励ますように、またどこかで会えるさ、と言った。

「……うん」

 彼女は名残惜しそうに川を見つめながら、手を引く僕に従ってゆっくりと歩いていく。もしかするとその声の主と友達になりたかったのだろうか。そういえば僕も似たような体験をしたことがあって、そのときに僕は確かそんなことを思った。

 この世界には僕たちみたいに居場所のない子どもたちに、気まぐれに声をかける存在がいるのかもしれない。あのとき一度くらい、その姿を見てみたかったように思う。そうしたら少しくらいは、救われた気持ちになれたはずだから。

 きっと会えるよ、とユナには聞こえないくらいの声で言った。これはただの僕の願望だったから、どこかで聞いている誰かにだけ聞こえてくれればいい。僕の言葉に応えるように一瞬風が吹き抜けたのは、たぶんただの偶然で気のせいだったのだろう。

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