2-2

 その夜僕たちが泊まることになったのは、老夫婦が経営する民家を改装した小さな宿屋だった。老夫婦は一階に住んでいて、二階ある客室は二人泊まるのがやっとの部屋が二つ。客はもう何年も来ていなかったという話だが、部屋は塵一つないほど綺麗に掃除が行き届いていた。

 宿主である老夫婦も久しぶりの客人ということで張り切ったのか、とてもよくしてくれた。食事は森で採れた山菜を中心とした質素なものだったが、調理方法や味付けに手が込んでいて、何だか懐かしさを感じさせるものだった。

 行きの列車で散々眠ったはずなのに、長旅の疲れは想像以上だったようで、食事を済ませてベッドに入るとすぐに眠ってしまった。ふかふかで暖かな太陽の匂いがする布団がとにかく気持ちよかったことだけ覚えている。

「ほら、ユリー起きて! 朝だってば」

 朝が弱い僕は、朝ごはんができているとセレンに起こされてもむにゃむにゃと寝言を言うばかりで、危うく食事を逃すところだった。僕が寝ぼけて階段を踏み外しそうになりながら何とか一階に下りると、おばあさんは時間が経って覚めたスープを笑いながら温め直してくれた。

「今日はもう街へ帰るの?」

「いえ、少し時間があるので、この村の周りを見て回ろうと思います」

 寝坊したとは言え、僕にしては十分すぎるほど早く起きられたので、当初の予定通り観光がてら周囲の散策をするつもりだった。おばあさんはそんな僕たちのために周辺の地図と見ごたえのある場所をいくつか教えてくれた。

「森は迷いやすいから、入るときはくれぐれも気を付けるようにね。たまに旅の人が道に迷ったまま帰ってこないなんてこともあるのよ。この村に住んでいても、あんまり深く入ってしまうと簡単には出られないくらいだから」

 出かける直前、心配そうに彼女はそんな忠告をくれた。まさかもう来るときに森で迷ったとは言えず、気を付けます、とだけ言って宿屋を後にする。

 僕たちは彼女に教えてもらったこの森一番の大樹を見に行くことにした。その木は何百年も前から村を見守り続けていて、村の人たちに神様として崇められているらしい。おばあさんによれば、普段からその木にお参りをする人も多く、そこまでの道は比較的整備されているので迷うことはないだろうという話だった。

 教えられた通り村を抜けていくと、森の入り口が人為的に開かれ、奥へと続く一本道が作られている場所があった。地面には人が頻繁に通った跡があるので、ここで間違いなさそうだ。

 道が続いている先を見ると、もう少しで雲に突き刺さるのではないかと思うほど一本だけ頭の抜けた木がある。おそらくあれが例の大樹だろう。ここから見ただけでも、相当な大きさであるのは明らかだった。

 徐々に近づくにつれて、よりその大きさが顕著になっていく。木の本体はまだずいぶん遠くにあるように見えるのに、その枝葉の先は僕たちの頭上にかかりつつあった。

「これは、すごいや」

 森の入り口から三十分ほど歩くと、ようやく木の根元が目の前に見えてきた。その幹はまさに大樹と呼ぶに相応しいほど太く、まるで天に突き立てられた巨大な柱のようだった。軽く見積もっても周囲の木々十本分はありそうだ。

 木の下は大きな日陰になっていて、そこだけ世界から切り離されたような不思議な空間を形成していた。木の裏手から流れてきた小川がちょうど木を中心に二手に分かれ、森の奥へと伸びていた。その姿はまるで森に恵みを分け与えているようだ。実際にこの大樹を目の当たりにすると、村人たちがこれを神様として崇めるのも納得できる。

 すぐ側にこの木を祀っているらしい小さな祠があったので、一応お参りをしておくことにした。祠の前で屈んで、手を合わせる。しかし特に願い事が思いつかなかったので、何となく目を瞑っただけになってしまった。

「セレンは何かお願いした?」

 何だか彼はずいぶん熱心に祈っているようだったので、気になって尋ねてみる。

「君が朝ちゃんと起きて、料理や家事ができるようなって、もう少し社交的になって、あと素直になるようにお願いしたよ」

「それはなかなか神様も苦労しそうだ。そんなことよりも自分のことをお願いすればよかったのに」

「でもどうせ君だって願い事なんて思いつかなかったんだろう?」

 僕は彼に図星を突かれ、流石察しがいいと感心した。せっかくなので彼の真似をしようと、もう一度手を合わせて、彼がもうちょっとスリムになるようにお願いしておいた。

「それじゃあ帰ろうか」

 ちょうど今から駅に向かえば、昼の電車に乗り込めるはずだ。そうすれば夕飯までにはルネに帰れるからちょうどいい。あとアリサが行きがけにお土産を期待していたから、帰り道で何か買っていってあげよう。

 まだ丸一日しか経っていないのに、もう自分の家が恋しくなっていることに気付く。ホームシックってやつだ。早くあの少し黴っぽくてへたりきった布団にくるまりたい。どうやら僕はあんまり旅行に向いてない体質らしい。

 そんなことを考えながら歩いていると、ふと視界の端で人影のようなものがちらついた気がして立ち止まる。しかし気になって辺りを見回してみても、それらしいものは見当たらない。

「今あっちの方で何か動かなかった?」

「さあ。動物とかじゃないの?」

「うーん、そういう感じじゃなかったと思うんだよね。一瞬しか見えなかったけど、たぶん小さい女の子だった」

 セレンはまるで気が付かなかったと言うので、単なる見間違いだったのかもしれない。何となく引っ掛かりを感じつつも、無理矢理自分を納得させて再び歩き出す。あまりちんたらしていると列車が行ってしまう。

「あ、セレン! あれ!」

 少し先を行っていた彼を追いかけようと歩みを早めたところで、今度は確かに森の中を動く影をこの目で捉えることができた。またすぐに木の裏に隠れてしまったけれど、間違いなくその姿は小さな女の子だった。

「もう、何さ」

「女の子がいたんだって。森の奥へ入っていった。もしかして迷子だったりしないかな?」

「僕には全然見えなかったけどなあ。それに村の子だったら大丈夫なんじゃない?」

 セレンは半信半疑のようで、それよりも早く帰ろうと先へ進もうとする。しかし宿屋のおばあさんは村人でも森は危険だと言っていたし、こんなところに女の子が一人というのは普通とは思えない。それに何故かわからないが、僕にはその子が気になって仕方なかった。

 僕は半ば強引に彼を引っ張って、周りを探索してみることにした。自分たちが迷子にならないように気をつけながら、影が消えていった辺りをうろつく。

 すると、あるところからまるで足跡のように点々と花びらが落ちているのを見つけた。透き通るほど真っ白い綺麗な花びらだから、土の上で光るように目立っていた。近くにこの花が生えている様子はないので、人為的に落とされたのは間違いなさそうだ。それはくねくねと曲がりながら森の奥に向かって続いている。

「きっとあの子が落としていったんだ」

 もしかしたら帰るときの目印にしているのかもしれないと思い、念のため花びらは動かさないままにしてその跡を追っていく。不均等に置かれた花びらを見つけながら追うのはゲーム的な楽しさがあって、段々と夢中になって危うく本筋を忘れるところだった。

 ある程度行ったところで、突然花びらが途切れてしまっていた。どれくらい歩いたかわからないけれど、おそらくかなり奥まで入り込んだだろうというのは感覚的にわかった。

 結局女の子を見つけることもできず、仕方ないから戻ろうと思って踵を返す。しかしいざ元来た道を探そうとすると、今まで辿ってきたはずの花びらがすっかり消えてしまっていて、どっちから来たのか全くわからなくなっていた。

 風に舞った一枚だけが鼻先をかすめ、それに既視感を覚える。けれど昨日結婚式のときに見たものとは違って、ずいぶん僕をわびしい気持ちにさせた。

 僕は一体何をしているんだろうと、虚しさで胸がいっぱいになる。また森を彷徨うのかと思うと泣きそうだった。心なしか、森は先ほどよりも暗くなって、わずかに霧がかっているように見える。

「まったくもう。これだから君はほっとけないんだから」

 見るに見かねてといったように、黙ってついてきていたセレンがわざとらしく深い溜め息を吐いた。そして情けなく丸まった僕の背中をぽんと叩くと、任せなさい、と得意げな顔で笑った。

「もしかして、ちゃんと道を覚えてるの?」

 僕の問いに対し、彼は無言でしっかりと頷いた。そうして僕についてこいとジェスチャーをして、少しの迷いもなく道のない森の中を進んでいく。その背中が途轍もなく頼もしくて、僕は一生彼についていこうと思った。

 それからしばらくして辿り着いたのは、残念ながら、今までと何ら変わりない全方位を木々に囲まれた深い森の中だった。

「あれ、おかしいなあ……」

 ついさっきまであんなに自信満々だったセレンは、自分の失敗を誤魔化そうと唇を尖らせてそっぽを向いていた。もちろん僕に彼を責める権利はないけれど、その顔には流石にちょっとだけ腹が立った。

「これで僕たちは完全に迷子だね……」

 もう何の手がかりもなければ、果たして自分たちがどれくらい森に入ってきてしまったのかもわからない。

 果たしてこのままむやみやたらと歩き回って、いつか帰ることができるのだろうか。もはやホームシックがどうとかいう話ではない。命に関わるところまで問題が大きくなってしまった。このままここで野垂れ死ぬなんて嫌だ。

 とりあえず太陽の位置で方向を確認しながら、ひたすら真っ直ぐ歩いてみることにした。と言っても、頭上は木々に覆われていてほとんど空が見えないため、肝心の太陽さえもごくたまに隙間からおおよその位置を把握するのがやっとだった。

 同じところをぐるぐる回ってしまう可能性も考えて、一応通った場所がわかるように、途中の木に目印もつけておくことにした。その印を二度見てしまわないよう祈りながら進んでいく。

 僕もセレンも疲れ果ててしゃべる元気もなく、黙々と歩みを進めていた。そんなとき、目の前に木々の間を動く影が見え、がさごそと葉っぱをかき分ける音が聞こえてきた。姿こそ見えなかったが、おそらくあの女の子だろうと思った。今回はセレンもちゃんと目にしたようで、僕らは二人で顔を見合わせた。

「ねえ、誰かいるの?」

 遠巻きに恐る恐る呼びかけてみる。するとその声に反応したのか、影の主だと思われる何かが背の低い草木を揺らしながら、少しずつこちらに近づいてくる。僕はその奇妙な緊張感に生唾を飲み込む。

「わあ!」

 僕らを驚かそうと無邪気に発せられた声とともに現れたのは、やはり小さな女の子だった。予想通りであったはずなのに、僕はいきなり飛び出してきた彼女に危うく腰を抜かしそうになる。

「びっくりした?」

 彼女は満足げな笑みを顔に浮かべながらこちらを見つめていた。僕は何気ない風を装い、少ししゃがんで目線を下げて、こんにちは、と挨拶をした。

「僕はユリルと言います。あっちにいるのが友達のセレン」

「あ、とりさんだ!」

 セレンの姿を見た途端、彼女は飛びかかるように勢いよく彼に抱きついて、気持ちよさそうに頬擦りをした。僕のことは完全にほったらかしで、ちょっぴり悲しい気持ちになる。とりさんとりさん、と言ってはしゃぐ彼女になされるまま、セレンは困ったように顔をしかめてもみくちゃになっている。

「おなまえは何て言うの?」

「ユナ!」

「何歳かな?」

「もうすぐ五歳だよ!」

「村に住んでるの?」

「うん! あっちの方!」

 落ち着いたところで色々話をしてみると、こちらの質問に答えてくれるしっかりとした子であることがわかった。あんまり子どもと接したことがないから、こんなに小さいのにちゃんと言葉を理解して物事を考えられるのだということに驚かされる。

 身体はちょうどセレンよりも一回り大きいくらいで、並んでいるとまるで兄妹のように見えた。彼女は何か言う度に、まだ不揃いな歯を見せて楽しそうに笑う。

「お父さんかお母さんは? 一緒じゃないの?」

 自分が迷子になっておいて心配するのも変な話だが、彼女はこんなところにいて大丈夫なのだろうかと思った。僕の質問に対し、彼女は初めて返答に詰まって考える素振りをする。そして、まるで嫌いな食べ物を拒むみたいに激しく首を横に振って、いない、とだけぽつりと答えた。

「じゃあ一人なのかな?」

「うん……」

 それから彼女は急に暗い顔になって、唇をきゅっと結んで落ち込むように俯いた。今まで意識していなかったことに気付かせたせいで、不安になってしまったようだ。

 悪いことをしてしまったと思いつつ、これからどうしたものかと考える。案の定、彼女は迷子だったらしく、帰り道がわからないと言う。迷子が二人から三人に増え、状況は明らかにさっきよりも悪化していた。

 しかし彼女を追いかけてきたのは正解だった。それだけが唯一の救いだ。

「じゃあ一緒に帰り道を探そう」

 僕は彼女の手を引いて、薄暗い森の中を再び歩き始めた。

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