1-5

 シルヴィアさんに連れられて辿り着いたのは、町はずれの小さな病院だった。外から見るとほとんど普通の家と変わらなくて、病院というよりは診療所といった方がしっくりくる感じだ。ここがウィリアにある唯一の病院で、ゴルダさんもここで眠っているらしい。

 中に入ると、決して広くはない待合室は座る場所がないほど混み合っていた。老若男女が入り乱れ、病院とは思えない賑やかさがある。

「ここの先生はもう何十年もこの町で私たちのことを診てくださっていてね。街で一番の人気者なのよ。だからここは病院でもありながら、こうしてみんなの憩いの場にもなっているの」

 確かにここは病院独特の薄暗さや消毒液の香りもせず、窓の隙間からは涼しい風が入ってきてとても居心地がいい。待合室にいる人たちも何だかみんな明るく穏やかな顔をしていて、楽しげに笑い合う声も聞こえてくる。

「じゃあ行きましょうか」

 僕らは待合室を抜けて受付を済ませ、そのまま奥にある入院患者用の病室へと案内された。そこは先ほどとは一変して張り詰めた静けさに満たされていて、気持ちがぐっと引き締まるような感じがした。

「ここよ」

 閉め切られた扉が等間隔で立ち並ぶ廊下を進む。その一番奥にある部屋がゴルダさんのいる病室だった。

「入るわね」

 軽くノックをして、シルヴィアさんがそっと扉を開けた。すると暗い廊下から突然別世界に繋がったみたいに瞳の中に明るい光が差し込んできて、僕は思わず手を顔の前にかざして目を細める。

 中はさほど広くはなく、窓際に置かれたベッドと、その隣にある小さな机があるだけの質素な部屋だった。しかし僕らの目の前に見える窓は壁の半分以上を占めていて、そこから外の光を目一杯取り込んで、部屋全体を明るく照らしていた。

「あそこに眠っている彼がゴルダよ。あなた、お客さんを連れてきたわ」

 ゆっくりとベッドの方に近づいていくと、その上に横たわる老人の姿が見えた。彼は強面の厳しい顔をわずかに緩め、安らかな寝息を立てて眠っていた。一見するとただ昼寝をしているだけにしか思えない。

 しかし長らく眠っているせいか、布団から覗く首筋から頬にかけてはひどく痩せこけていた。顔は異様に白くて、眼の周りが痣のように青黒く変色してしまっている。

「そんなに静かにしなくても大丈夫よ。きっとこの人はここでお祭り騒ぎをしたって起きないんだから。ごくたまにこっちの声が聞こえてるみたいに、ほんの少し反応することもあるのだけどね」

 彼女は持ってきた花束を花瓶に差し替え、三人分の椅子をベッドの傍に並べた。どうぞ、と促されて、僕は軽くお礼を言ってその椅子に座る。

「夫が死んだとき、もうこんな思いをするのはこりごりだって思った。それなのにまた別の人にこうやって先に逝かれてしまうなんて、神様もひどいことをするわ」

 先ほどまで明るく振舞っていた彼女は、ゴルダさんの顔を見るなりひどく悲しそうな顔をした。潤んだ瞳で彼の顔を見つめながら、そっとその頬に触れる。

 僕はすっかり勘違いしていた。彼女は現実を受け入れ、真っ直ぐ前を向いて生きているのだと決めつけ、羨ましいさえと思っていた。でも彼女はそんな風に悟りを開いた超越者ではない。つらい現実に苦しみながら、理不尽な世界を悲しみながら、それでも必死に前に進もうとしている。彼女は僕が思っているよりもずっと強い人だった。

「お願いできるかしら」

「はい」

 隣に座っていたセレンに目配せをして、云壜を開ける準備を始める。まずは鞄の中からシルヴィアさんから受け取った云壜を取り出して、周りを包んでいた麻布を外す。壜の中には優しげな炎が揺らいでいた。それをゴルダさんの胸元に置き、手を動かして抱えるような形で持ってもらう。本来ならばこの状態で本人に自らの手で蓋を開けてもらい、云壜を作ったときと同じように相手の心の中に入って直接想いを届けに行くのだけれど、彼にはそれができない。

 僕は彼の手を壜の上に乗せ、何とか彼の心へ入っていこうと試みる。

 シルヴィアさんから聞いた彼の話を思い出しながら、自分の意識の中に彼の姿を作り上げていく。ぼんやりとした影が少しずつ形を帯びて、僕はその姿を見失わないように必死に目を凝らしながら近づいていく。

「ダメだ」

 何度やっても蓋が開かれることはなく、心の中へ入ることができない。やはり意識がない状態では上手くいかないようだ。

 彼は静かに意識を沈めたまま、胸に抱いたシルヴィアさんからの云壜に気付くこともなく眠っていた。僕は願いを込めるように彼の手を握る。凍ったように冷たく固まったその手の感触に、思わず力が入った。

「大変だ、ユリー! 火が……」

 突然隣で見ていたセレンが慌てた様子で声を上げた。僕は一度集中を解き、目を開けて壜の状態を確認する。

「そんな、どうして……」

 驚いたことに、壜の中で燃えていた炎が徐々に小さくなっていた。すでにここへ来たときの半分くらいになっていて、息を吹きかければすぐに消えてしまいそうなほど弱々しい。

 こんなことはありえなかった。まだ封を開けたばかりだから想いが抜けるはずはないし、そもそもこんなすぐに消えてしまうものではない。封さえしていれば何十年も燃え続けるものなのだ。

 どうしてこんなにも急速に火が消えようとしているのか、セレンもわかっていないようだった。彼は不安そうな顔で息を呑むように壜を見つめている。

「もう、いいのよ」

 僕は肩に温かさを感じて、目を開いて振り返る。

「ありがとう。あなたは十分がんばってくれたわ。でも、もういいの」

 シルヴィアさんはゴルダさんから云壜を取り上げると、まるで彼の目から隠すように花瓶の裏に置いた。するとみるみる火はその色を失って、黒い煙を上げながら消え入るようにしぼんでいく。辛うじて残っているのは微かに赤く光る燃えかすだけだった。

 云壜の炎が消えたのは、その源であるシルヴィアさんの想いが消えてしまったからだった。彼女は自分の想いを伝えるのを諦めたのだ。

「ごめんなさいね」

 それ以上何も言わず、彼女は潤んだ瞳で愛おしそうにゴルダさんの顔を見つめる。その痛ましいほど苦しげな姿は、あんなにも力強く僕を励ましてくれた彼女とは到底思えないものだった。

「どうしてですか……。まだ無理と決まったわけじゃ……」

 確かに普通のやり方では上手くいかなかったけれど、まだ考えてきた方法もいくつかある。それにもしかしたら根気よく続けていれば、少し眠りが浅くなったタイミングで意識がこちら側に近づき、偶然彼の心へ繋がることができるかもしれない。

 しかし彼女は首を横に振るばかりで、云壜の炎も戻る気配がない。これではもうどうしたって想いを届けることなんてできなかった。本人にその意志がなければ、僕たちにはどうしようもない。

 僕は中身の枯れた壜に目を向け、悔しさに唇を噛み締める。

「どうしてもこの想いを届けたくて、何回も依頼を断られても諦めずに僕のところへ辿り着いたんじゃないですか。僕が依頼を受けたとき、あなたは本当に嬉しそうな顔をしていた。それなのにどうして今更もういいだなんて……」

 切実な彼女を見て、僕は何としてもこの想いを届けたいと思ったのだ。涙ながらに僕の手を握り、何度もお礼を言ってくれた彼女の姿を思い出す。

「そうね……」

 僕の訴えを聞き、彼女は何かを躊躇うように目を伏せた。そして言葉一つ一つを反芻しながら、ぽつりぽつりと心の奥に秘めた本当の想いを語り始める。

「私はね、夫のときも自分の想いを伝えられないまま先に逝かれてしまったの。川に落ちた子どもを助けて、自分だけ流されて死んでしまった。真面目でお節介な彼らしいと思ったわ」

 以前話を聞いたときは、彼女の夫は若くして亡くなってしまったということだけ言っていた。そんな風に相手を失ったのなら、さぞやり切れない想いだったことだろう。

「ある日突然あの人がいなくなってしまって、正直わけがわからなかった。しばらくは茫然としたまま毎日が過ぎていった。それでも少しずつ現実感を得て、ふと気が付いたの。私はもう彼に何も伝えられないし、彼から何も受け取れないんだって。そうしたら途端に、彼への想いが止め処なく溢れてきた。おかしな話よね。それまではいつも一緒にいたのに、自分の気持ちを伝えようなんて思ったことは一度もなかったんだから」

 自分の心に素直になるというのは、意識しても難しいことだ。普通にしていたら、内に抱えた想いに気付くことはなかなかできない。特に日頃当たり前のように一緒にいる人に対する想いなんて、自覚できる人の方が稀有だろう。

 だから僕たち云壜屋は、少しでもその片鱗に気付いて訪れた人の想いを引き出して、本人にも伝えることができないそれを届ける役割を担っている。逆に言えば、全く自分の想いに気付けない人や、彼女のように伝えることを諦めてしまった人に対して、僕たちはあまりに無力だ。

「私はずっとそんな後悔に苛まれながら生きてきた。時折、あの人との思い出が浮かぶ度、伝えられなかった想いが心に積もっていった。振り返ってみれば、私の人生はあの人への、あるいは自分への後悔と懺悔の日々だったと言えるかもしれないわ」

 彼女は窓の外に目を移し、ぼんやりと遠くを眺めながら言った。どんなときもそうやってどこか後ろめたさを感じて生きるというのは、一体どれほどつらいものだったのだろう。それを何十年も続けてきた彼女がどれだけ傷ついてきたのか、僕には想像もできない。

「でもこの人といるときだけは、ほんの少しそれを忘れることができた。忘れてはいけないことだとわかってはいたけれど、たぶんもう歳を取って疲れていたのね。だから本当に驚いたし、彼のおかげで幸せな時間を過ごすことができた」

 そこで一度言葉を止め、再び視線をゴルダさんの方に戻す。彼は満ち足りたような笑みを浮かべている。彼女はその顔を見て、泣き笑いのように顔を歪める。

「彼が目を覚まさなくなったときね、あのときと同じだと思ったの。そうしたらとても恐ろしくなった。また私はこの人への想いを抱えたまま、これから生きていくことになるんじゃないかって」

「それで云壜屋に……」

「そう。本当はただ同じ過ちを繰り返してしまうのが怖かったの。それで過去を取り戻すために、この人に縋ろうとした。この人とあの人は違うのにね。だからこの想いは私の自己満足が生んでしまった偽りの物。届くはずもなければ、届くべきではないのよ」

 彼女はまるで自らを責めて傷つけるように言った。

「……言ったじゃないですか」

 何も言えずに黙っていた僕は、堪え切れなくなって彼女に向かって言う。声色の変わった僕の言葉に驚いたように、彼女はこちらに振り返った。

「自分を諦めるなって、言ったじゃないですか」

 湧き上がる想いに呼応して、思わず語気が強まる。

「過去がどうだとか、自己満足だとか、そんなのはきっと全部言い訳ですよ。あなたはこの想いを彼に届けたいと思った。それだけです。だから勝手に自分を諦めて、悟ったような顔をしないでください」

 言っていることは支離滅裂だし、偉そうにこんなことを言える人間でないことは自覚していた。それでも何とか彼女に想いを諦めて欲しくなくて、無我夢中で言葉を吐き出す。今の彼女が僕とどこか似ているように思えたから。

「ゴルダさんも、きっとこの想いを受け取ったら、喜んでくれるはずです」

 これだけは彼女の想いに直接触れた僕は確信を持って言えることだった。あんなにも温かくて美しい想いを受け取って、嬉しくないはずがない。

「……そうね」

 僕の言葉が届いたのか、それとも弱音を吐いたことですっきりしたのか、彼女の顔からは先ほどまでの迷いは立ち消えていた。

 彼女が立ち直るのと同時に、云壜の中にもう一度眩い炎が灯る。それは最初に見たときよりも幾分か弱々しくも見えたけれど、それがかえって彼女の想いを象徴しているようにも思えた。

「ユリー。実は一つだけ方法を思いついたんだ」

 想いの戻った云壜を持って、再びゴルダさんにそれを届けようとしたところで、急にセレンがそんなことを言い出した。

「方法?」

「そう。正直できるかわからないけど、やってみる価値はあると思う」

 彼はそう言って肩にかけていた鞄の中をごそごそと漁って、取り出した物を僕に渡す。

「これは、云壜……?」

 あまりに見慣れた物が出てきて、僕は少し拍子抜けしてしまった。どうやらまだ想いを込める前の状態のようで、中の想い石はただ外から受けた光を反射しているだけだった。

 一体これでどうするのか、それを聞こうとする寸前で、僕は彼が考えていることに気付く。

「そうか、これで彼の想いを引き出そうとすれば、もしかしたら……」

 想い石には人の心を顕在化する力がある。こちらから沈んでしまっている彼の意識に入り込むことは難しくても、彼の心を引っ張り上げることができれば、そのまま心の中に入っていけるかもしれない。つまり云壜を作りながら云壜を届けるというわけだ。

 そのためには、ゴルダさんの側に想いを伝えようとする意志がなければいけない。当然意識のない彼にそれを求めるのは難しいが、不可能ではない。シルヴィアさんの声さえ届けば、きっとそれができる。

「こっちの声が聞こえてることがあるって、言ってましたよね?」

「ええ。こっちの呼びかけに指を動かしたり、表情を微妙に変えることがあるわ。もちろん本当にわずかな変化だから、私の勘違いかもしれないけれど……」

 それならまだ希望がある。ゴルダさんにシルヴィアさんの想いが入った云壜と、まだ空っぽの壜の二つを腕の中に抱えてもらい、僕は彼の想いを掬い上げる準備をする。シルヴィアさんには僕が目を瞑っている間、絶えず彼に話し続けてもらうように頼んだ。

「やってみるわ」

 彼女は僕たちの意図を図りかねているようだったが、言った通りゴルダさんの反応を誘うように繰り返し名前を呼んで語りかけてくれた。

僕は彼女の声を聞きながら、先ほどと同じようにゴルダさんの姿を頭に思い浮かべる。しかし今度は彼の想いに集中するように意識した。真っ暗な視界に目を凝らし、彼の心を探していく。

「あなたには本当に救われたわ」

 静まり返った部屋の中で、シルヴィアさんの親しみに満ちた声だけが響いていた。

「私はずっとただ生きているだけで、それは死んだのとほとんど同じことだった。あの人を失ってから、私は私自身をも失くしてしまっていたんだと思う」

 ゆっくりと間を取りながら、一語一語丁寧に言葉を紡いでいく。

「そんな止まっていた時間を動かしてくれたのがあなただった。モノクロだった世界に色をくれたのがあなただった。そして、ずっと忘れていたこの心を、思い出させてくれたのがあなただった」

 息をついて、想いの込められた一言を口にする。

「ありがとう」

 その瞬間、弾けるような光が僕の視界を覆った。これは紛れもなく、彼の想いだ。

 どこまでも広がる鮮やかな花畑の真ん中で、無邪気に笑う女性。それを切り取って絵に描きながら、不器用な笑みを返す。

 幸福、感謝、希望、愛情。そして恥ずかしげに添えられたささやかな恋慕。それらが一つに混ざり合い、綺麗な輝きへと変わっていく。

 僕の目の前には照れ臭い気持ちを仏頂面で隠したようなちょっと変な顔をした、ゴルダさんの姿があった。彼は静かにシルヴィアさんからの想いを受け取ると、また眠るように静かに消えていってしまった。

「ちゃんと、届いたのね……」

 目を開けると、役目を終えた二つの云壜は砕けて光の粒となり、生き物のようにふわふわと宙を漂っていた。その光に混じって、シルヴィアさんの目には明るい涙が輝いている。

 急に窓から勢いよく風が吹き込んできて、想いの光は空高く舞い上がってどこかへ行ってしまった。その行方を追いながら、シルヴィアは嬉しそうに笑っていた。眠っているはずのゴルダさんもわずかに口元が緩んでいるように見える。

 結局僕は何もできなかったけれど、こうして二人が心から笑ってくれていることで、不思議と僕も救われた気持ちになる。今胸の辺りに温もりを感じているのは、もしかしたら彼女が言ったように、僕にも心がちゃんとあるからかもしれない。彼女たちを見ていると、そんな希望さえ感じてしまった。

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