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 こうして隣町まで来たのはずいぶん久しぶりだった。僕たちの住むルネから歩いて一時間ほどの離れたこのウィリアは、中心を大きな川が流れる自然が豊かな町だ。自然から発せられる鮮やかな音や香りに囲まれ、何だか時間の流れがゆっくりになったように感じられる。

 商業が盛んなルネと違って、農業を中心としたウィリアは町全体がとても落ち着いていた。道行く人も疎らで、すれ違う度に軽い微笑みと会釈をくれる。たまに間延びした動物の鳴き声が聞こえてきて、つい欠伸が漏れてしまう。

 この穏やかな町並みがどこかシルヴィアさんの心の中で見た風景と重なる。彼女は元々この町の出身と言っていたから、この美しい自然が彼女の綺麗な心を育んだのだと納得した。

 すっかり観光気分になりかけたところだったが、残念ながら今日はのんびりと景色を楽しんでいる場合ではない。僕は緩んだ顔を引き締めて、仕事だというのを忘れないよう気合を入れ直す。

 あれから色々と調べてみたものの、結局過去の事例からは決定的な方法を見つけることができなかった。とにかく実際にゴルダさんに会って、この云壜を渡してみるしかない。僕は不安を振り払うように歩みを早める。

「すみません。お待たせしました」

 待ち合わせ場所の中央広場に着くと、すでにシルヴィアさんがベンチに座って待っていた。何だか昨日から彼女を待たせてばかりだ。しかし彼女は気にした様子もなく、行きましょうと言って、しっかりとした足取りで僕を案内してくれる。

 ゴルダさんのいる病院までの道のりは、長閑な町並みが延々と続いた。ところどころに見える田んぼには収穫間際の稲穂が立ち並び、柔らかい輝きを放ちながらゆらゆらと不揃いに揺られている。あちこちから虫の声が聞こえ、時折吹く強い風に木々が擦れる音が重なって、壮大な演奏会に迷い込んだ気分になる。

「彼のいる病院までは少し歩くわ。せっかくだから、それまであなたのお話を聞かせてもらえないかしら?」

 目的地に着くまでの間、僕たちは少し話をした。昨日とは逆で、今度は彼女が僕のことを聞く形になって、受けた質問にぽろぽろと答えていく。

「あなたは云壜屋になってどのくらいなの?」

「大体もう四年半になりますね。ルネの町に来て一人で仕事をするようになってからは、ちょうど二年くらい」

 僕が試験に合格して、云壜屋を名乗るのを許されたのが十三歳の頃。周囲と比べても僕は早い方だった。それから色々あったけれど、ルネに来てからは毎日があっという間に過ぎ去っていった。

「あら、そうなの。じゃあまだ新人さんなのね」

「まあそうですね。やっと仕事ができるようになってきたところです」

 まだ一人前には程遠い。というか、自分が一人前になる想像すらできなかった。

それに仕事だけじゃなく普段の生活だって、一人じゃ何もできやしない。たぶんセレンがいなかったら酷いことになっていただろう。食事もまともに作れないから、下手したら餓死してしまっていたかもしれない。

 僕は隣を歩くセレンの頭を軽く撫でる。すると彼は僕を見て嬉しそうに頬を緩ませた。

「あなたとペンギンさんは本当に仲がいいのね」

「彼とは云壜屋になる前からの付き合いで、もうずいぶん長く一緒にいるんです。もう兄弟みたいなものですね」

 彼がいなかったら、僕はこうして云壜屋になることもできなかっただろう。

「そうそう。もちろん僕がお兄ちゃんね」

 僕の言葉に対して、すかさず彼は胸を張って会話に割り込んできた。歳は僕の方が上なのに、と思ったけれど、確かに散々世話をしてもらっているから、彼の方がよっぽど兄らしいかもしれない。

 そんな僕らのやり取りを見て、シルヴィアさんは楽しそうに笑っていた。段々僕らも楽しくなってきて、やいやい言いながら小突き合いをしながら歩いていく。

「何だか安心したわ。実はね、さっきあなたに云壜を作ってもらったとき、私も少しあなたの心の中が見えてしまったの」

 彼女は突然立ち止まると、目を伏せて申し訳なさそうに呟く。深い皺が刻まれた目尻を下げ、まるで自分の孫を見るような優しい目をしていた。

 云壜を作るためには、その人の心に同調して、その中に入り込む必要がある。そのとき僕たちは相手と心が交錯した状態になり、感情や記憶、あるいはその人自身が自分の中に流れ込んでくることがあった。

 それは当然相手も同じで、僕らの心が相手側に流れることもあるらしい。しかし特別な訓練を積んだ云壜屋とは違い、相手はそうした心と心の接触に慣れていないため、滅多に起こらないと言われている。僕自身、話には聞いていたけれど、実際に自分が出くわすのは初めてだった。

「あなたの心はとても寂しそうだった。目を瞑って丸まったまま、深い海の底へ沈んでいくような感覚。そしてすべてを受け入れて諦めてしまったあなたは声一つ上げずに、ただ一人暗闇を彷徨い続けていた」

 自分の話をされているはずなのに、彼女の言葉はあまりピンと来なかった。けれど空っぽの僕らしい心象風景だなと思い、自虐的な笑みが漏れる。

「きっとあなたはこれまでたくさんつらい思いをしてきたのね。だから固く心を閉ざしてしまった」

 そうなのだろうか。正直僕はずっと自分の気持ちなんてよくわからないまま生きてきたから、彼女の瞳にこもる同情と憐憫に少し困惑してしまう。

「でも今のあなたには想ってくれる人がちゃんといるんだわ。だからいつかそう遠くないうちに、その閉じてしまった心を取り戻せるはず」

 彼女の言葉に対して、セレンが敢えて僕に見えるように頷いて無言の同意を示す。二人の優しさがありがたかったが、それを素直に受け入れられない自分に嫌気がさす。

 僕は彼女が言ったことを言葉の上でしか理解することができなかった。上手く実感が湧かなくて、彼女の想いに対してお礼の一つも言えず答えに詰まってしまう。

 確かに僕は色んな人に支えてもらいながら生きてきた。でもそれはたぶん相手の優しさのおこぼれをもらっているだけで、僕という存在自体が誰かに想われているわけではない。僕は空っぽの人間なのに、まるで普通の人間のふりをして、意地汚い野良犬のように溢れ出した想いに縋っているのだ。

「あなたはまだ自分の心に気付けていないだけ」

 彼女の言葉があまりに眩しくて、僕はつい目を逸らしてしまう。

「いえ、僕はきっと心を持たずに生まれてきたんです。誰からも想いをもらえずに、空っぽのまま生きてきた。もしかしたら、僕なんて生まれない方がよかったのかもしれない」

 最初から持って生まれてこなかった心を、どうやって取り戻すことができるだろう。僕は今もずっとあの路地裏で蹲ったまま、キラキラと輝くこの世界を羨んだ目で見ることしかできないのだ。

 僕は両親のことを全く覚えていない。物心ついた頃にはとうに捨てられていて、物のように売り飛ばされて色んなところを転々とした。誰にも想われることのないまま、ただ生存本能に従って死んだように生きていた。

 自分に心がないと気付いたのは、それからずいぶん大きくなってからのことだ。誰の心にも触れないまま生きていたのだから、それも当然のことだった。心を見つけるために云壜屋という仕事に就いたけれど、ただ自分に欠けたたくさんのことに気付くばかりで、生まれ持った本質的な部分はそう簡単に変わらなかった。

 いっそ両親を恨んだり、世界を憎んだりできたら、少しは楽だったのだろうか。しかし僕の空っぽの心に浮かぶのは、生きる意味への漠然とした疑問と、誰かを想い、想われることへの憧れだけだ。

「君は考えすぎているだけだよ。自分を責める君を見ていると、僕はとてもつらくなる」

 セレンは悲しそうに俯いて、弱々しく僕の服の裾を引っ張った。彼にこんな顔をさせてしまう自分が嫌で、でもどうしたらいいかわからない。ちゃんと想いを伝えたいのに、上手く言葉が出てこなかった。

「ごめんよ……」

 それだけ言うのが精一杯で、また黙り込んで悪いことばかり考えてしまう。いつかセレンやアリサも僕のことを見限って、両親と同じようにどこかへ消えてしまうのだろうか。そうだとしたら、僕はたまらなく悲しい。

「大丈夫。あなたは相手を想い遣ることができる、綺麗な心を持っているわ。だから自分を諦めてはダメよ」

 シルヴィアさんは沈黙を突き破り、はっきりと言い聞かせるように言う。

「これはあなたの心を覗き見たから言っているんじゃないわ。私があなたから、素敵な想いを受け取った一人だからよ。だって、今もこうして私のために云壜を届けようとしてくれているでしょう?」

 優しく僕の手を握って、何も言えない僕をそっと撫でる。僕は彼女の言葉をすべてそのまま受け取ることはできなかったけれど、ずっと自分で否定し続けていたことが許されて、少しだけ救われた気持ちになった。

「何だかシルヴィアさんの方が、よっぽど云壜屋に向いてそうですね。僕は小さいこと悩んでばっかりで、自分のことでいっぱいだから……」

 しばらくして冷静になり、いつの間にか立場が逆転していて、依頼人に悩みを聞いてもらっている自分が恥ずかしくなった。まだまだ未熟者だけど、いつか僕も彼女のように相手の心に寄り添える云壜屋になりたい。そうしたらきっと、この空っぽの心を想いで埋めることができると思うから。

「そんなことないわ。あなたは優秀な云壜屋さんよ。私のわがままを聞いて、あの人の元に想いを届けてくれるんだから」

 そう言って彼女は悪戯っぽく笑う。こんな頼りない僕のことを信じてくれているのがわかった。その期待に応えるためにも、この温かな想いの火を送り届けたいと思う。不思議と不安は無くなっていて、代わりに彼女からもらった自信と希望が身体に満ちていた。

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