1-3

 薄暗くて息苦しい狭い路地裏。側溝から立ち上るどぶの 臭いが鼻にこびりついて離れず、単調に波打つ雑踏の音は次第に耳鳴りと判別がつかなくなっていた。目の前に転がる潰れた鼠の死骸を見ていると、それが自分自身のように思えてくる。

 視界の端には、多くの人で賑わう街から漏れる色とりどりの光が見える。けれど、僕はそんな明るい世界に拒まれている気がして、その光を直視することができないまま、この孤独な暗い世界に閉じこもるように蹲っていた。

 これは僕の中にある最も古い記憶だ。幼い頃のことなど何も覚えていないのに、唯一この吐き気がする光景だけは、ずっと脳裏に焼き付いている。

 そこがどこで、僕は誰で、何をしていたのか。そういうことは全く思い出せないし、そもそもこれが実際の記憶なのかどうかも定かではない。

 そんな見飽きた悪夢に苛まれ、僕は声のない悲鳴とともに起き上がった。息が上手くできなくて、肺に空気を入れようと強張った喉に力を入れる。激しく上下する胸を抑えて、汗が滴る額を拭い、ようやく目を開けて意識を取り戻すことができた。

「寝ちゃってたのか……」

 どうやらいつの間にか机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。時計を見ると深夜一時を回っていて、部屋の中は真っ暗だった。セレンも眠っているのか、物音一つないせいで、僕の鼓動の音が部屋中に響き渡っているような気がする。

 眠気もすっかり覚めてしまったので、少し外の風に当たろうと廊下に出る。今日は綺麗な満月だった。明かりをつけていなくても十分なほど月の光が明るい。涼やかな秋の空気を感じながら、僕はシルヴィアさんのことを考える。

 彼女はどうしてあんなにも自分の心に素直でいられるのだろう。普通なら多少なりとも自分に嘘をついたり、気持ちを隠したりしてしまうものだ。届かない想いは諦めたくなるし、つらい想いは捨ててしまいたくなる。

 それなのに彼女は心の中にある想いをきちんと自分の物として、真摯に向き合っている。それは決して楽なことではないはずだ。僕なんかきっとすぐに自分の汚い部分に嫌気がさして、耐えられなくなってしまうだろう。

 彼女のように強く生きられたら。そうしたら僕も自分の心を見つけることができるのだろうか。

「そんな難しい顔をしてどうしたのよ」

 突然後ろから声がして振り返ると、ゆるいパジャマを着たアリサが不思議そうに首を傾げていた。そして僕の顔を見ると、眉間に皺を寄せて心配そうな顔をする。どうやら考え事をしていたせいで、よっぽど変な顔をしていたらしい。

「いや、ちょっと難しい仕事が来てね。でもちゃんと届けなくちゃいけないから、どうしたらいいか考えていたんだ。アリサこそどうしたの?」

「私はお母さんに頼まれて店に物を取りに来たの。そうしたら上から足音が聞こえたから、まだ起きてるならちょっと世間話でもしようかと思ってね」

 彼女はそんな風に言ったけれど、本当は早寝の僕が夜更かししているのを心配してくれたのかもしれないと思った。その証拠に、何気なく付け加えるような言い方で、悩み事なら聞くわよ、と窓際に寄り掛かって僕に話を促す。

 あまり依頼内容を詳しく話すのはよくないと思いつつも、僕はついシルヴィアさんのことを話してしまった。同業者の知り合いはおろか、ほとんど友達もいない僕には彼女くらいしか話を聞いてもらえる人がいないので、こうして相談に乗ってもらうことがよくあった。

 もちろん彼女は云壜屋ではないし、何か詳しい知識を持っているわけでもない。それでも彼女は真摯に僕の話を聞いてくれて、僕とは違う彼女なりの考えを話してくれた。僕はあまり器用な方ではないし、すぐにあれこれと悩んでしまうタイプなので、彼女がいなければとっくに仕事を辞めてしまっていたかもしれない。

「ふーん、なるほどね」

 事情を一通り聞き、彼女は口元に手を当てて考え込むような素振りを見せる。こうやって他人のことにも真剣になれる彼女は本当にすごいと思う。僕なんていつも自分のことだけで精一杯だから、いつも彼女に助けてもらってばかりだ。

「まあでも大丈夫じゃない?」

 しばらく考えたあと、彼女は少しそっけなくも思える口ぶりでそう言った。

「いや、でも実際に同じような例は何度も失敗してるみたいなんだよ。何かいい方法を見つけないと、たぶん上手くいかない……」

 僕は自分がすっかり自信を無くして不安になっていることに気付く。たいして経験もなく、まだ幼い、田舎町の小さな云壜屋に一体何ができるというのか。そもそも僕は人の想いを届けるなんてことができるほど、立派な人間じゃない。

 僕が云壜屋になったのは、それ以外に選択肢がなかったからで、何となく流されるままにここまで来ただけだった。崇高な意志や理念もないし、結局この仕事をしているのは誰のためでもない自分のためだ。自分が生きていくための日銭を稼ぐ仕事でしかない。

 想いを人に伝える。それは誰よりも僕自身ができていないことだった。自分の想いというものを僕は未だに見つけられていない。

 僕はずっと探しているのだ。自分の中にあるはずの『想い』。云壜屋として他人の想いに接していれば、いつかそれも見つかると思っていた。でも他人の想いに触れる度、それが自分とは完全に切り離された別世界の存在のように感じてしまう。あんな綺麗な光が僕の中にもあるなんて、どうしても信じられない。

 ――キミは誰からも想いを受け取らずに生きてきた。だからキミの心は空っぽで、決して想いが生まれることもない。

 遠い昔、誰かに言われた言葉を思い出す。たぶんその通りだ。僕は人間のふりをした、空っぽの人形、『人間擬き』なのだと思う。

「でもその人の想いを届けたいんでしょ?」

 アリサは真っ直ぐ目を見て僕に尋ねる。

「うん、届けたい」

 たとえ僕に心がなくても、云壜屋であることに変わりはない。シルヴィアさんが僕を信じてくれているから、その気持ちに応えたい。

「じゃあ大丈夫。だって、あなたはそんなにも一生懸命想いを届けようとしているじゃない。それにね、云壜なんてものがあるくらいだから、想いは届くべきところに届くようにできてるのよ。だから『届けたい』っていうあなたの想いもちゃんと届くはず。きっと世界はそこまで理不尽じゃないから」

「僕の想い……」

 さも当たり前のことのように語るアリサはとても頼もしかった。ほんの少し、自分を信じられそうな気がする。優しい激励の言葉をかけられてすぐに元気になるなんて、単純だとは思いつつも、それくらい彼女の言葉は力強かった。空っぽなはずの僕の心に、温かい火を灯してくれる。

「ありがとう」

 今はこうしてお礼を言うくらいしかできないけれど、いつか彼女に何かを返せたらと思う。

「じゃあ私はそろそろ寝るわ」

 僕はまだ眠れそうになかったので、もう少しシルヴィアさんの依頼を解決する方法を考えてみることにした。そんな僕のために、彼女は部屋に戻る前にホットミルクを入れてくれた。

 彼女が入れてくれたホットミルクに口をつけると、失敗して砂糖を入れすぎたのか、お菓子のような甘さが口いっぱいに広がる。夜の闇を溶かすような温かさが身体に染みわたって、思わず溜め息が漏れる。それは彼女の優しい想いがこもった味だった。

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