第10話 ルーシーの懐妊
リムルバーツはアルビオン随一の人口を誇る商業都市だった。
リムル砂漠の北限に当たるこの地は亜熱帯地域に属するが、内陸にありながら高地のため、動植物には心地よい環境と言えた。
東に向かって二千キロの長さを誇るビンランドの壁の起点が、ここリムルバーツである。
「ビンランドの壁の当初の目的は、砂嵐から街を守るためだったんだ」
ビンセントは延々と地平線に続く城壁を指差しながらそう言った。
葵達一行は街を一望できる高さ百メートもあるリムルの搭に招かれていた。
「この土地は気候だけ見れば植物の生育にとても適した環境なんだよ。なのに、数日おきにやって来る砂嵐のせいで、作物の実らない土地と言われていたんだ」
葵に話しながらもビンセントの目が時々リンダを見ていた。
それを察した葵は、塔より見下ろせる景色に興味を持った風を装い、その場を外した。
リンダがビンセントの視線の最前となった。
「ふ~ん。それでこんな途方もなく長い壁を作ったって言うのかい?」
「そうなんだよ」
「でもさぁ。当初というからには、その後があるんだろ?」
「ああ、その通りだよ。当初は全ての壁が繋がってなかったんだよ。砂嵐の勢いさえ抑えればよかったから、十メートル幅の壁を作る毎に二メートル程の間隔を開けてコストを抑えていたんだけど……。いつの間にか収まった砂嵐とは別の問題が持ち上がったんだ」
ああ、とリンダは頷いた。
「ルシファーのことだろ?」
ビンセントも頷いた。
「特にリムルバーツの感染は酷かった。人間にとって環境がいい場所は、ルシファーにとってもいい環境だったわけだ」
「ルシファーの脅威は今も残っているんだろ?」
「いいや。今は……もう、ない」
リンダの質問にビンセントは首を横に振ったが、その表情は暗かった。
「発症した時、それに対する備えがなくて、大流行してしまった……」
そう口ごもり顔を背けるビンセントに、葵は事の顛末を理解した。
「施設も治療方法もなかったと言うことだね」
葵の言葉にビンセントは小さく頷いた。
「つまり、感染者やその家族。それに疑わしき者は全て処分した。違うかい?」
「軍師殿。まさか、それはないよな」
リンダが苦笑しながらビンセントの前に立ったが、彼は苦悶の表情を浮かべた。
「孔明殿の言うとおりだよ。治療方法が分からないから、伝染病の蔓延を恐れた各ギルドは……」
言いかけてビンセントは言葉を止めた。
「おい、ビンセント。隔離施設にいれたんだろ? そうだろ?」
リンダの言葉にビンセントは小さく首を横に振った。
「まさか……」
ビンセントは意を決したように頷いて見せた。
「ビンランドの二メートル間隔の壁は全て塞がれ、王都ロンドニア及びリムルバーツへの難民の流入を阻止した一方、すでに街中に入っていた流浪民は見つけ次第殺戮し……その場で焼いたんだ……」
ビンセントの言葉にコメントする者はいなかった。
「わたしが国を離れて放浪の旅に出た切っ掛けは、それだったんだよ。助けられる命があった筈だ。形だけとは言え、陣頭指揮を任されはわたしはギルドの大人たちの強い言葉に逆らえず、流されるまま、彼らを見捨ててしまったんだよ」
十年前の話だ。当時十三歳だったとビンセントは話した。
「それにしても孔明殿は本当にすごい人だ。リプートでの活躍を聞いた時は大変感動したよ。人を救うってこういうことだと思ったよ」
「そんなことないよ。三十人を副作用で殺してしまったんだよ、ぼくは」
「そんな風に言わないでくれ。孔明殿は助けるつもりで行った末のことだ。それに薬のせいではなく、すでに間に合わなかったのかもしれないよ。わたしのように最初から命を絶つ目的で行った行為じゃないんだから、自分を卑下しないで欲しい」
「そうだよ」
とリンダが割って入った。
「軍師殿はすぐに内に籠るからいけないよ。まあ、
照れたように言うリンダを見るビンセントが、不意に葵の顔を見つめた。
リムルバーツから十数キロ離れた所に茶葉の群生地はあった。
「間違いありませんわ、葵様。これはダージリンです。しかもこんなに新芽が芽吹いています。これはファーストフラッシュの紅茶が作れますよ」
珍しくスルーズが興奮気味だった。
春の雨季の後にできる新芽だけで作ったダージリンの紅茶をファーストフラッシュと呼ぶ。
「新芽だけ摘むんだよ。これは最高級のダージリンティになるやつだよ。こんな所でお目にかかるなんて思いもよらなかったよ」
葵も少なからず興奮していた。
「新芽だけで作った紅茶はね、色は淡く味はマイルドだけど、風味や香りがよくて、とても爽やかなんだよ」
「いいタイミングでやって来たってことだよな、軍師殿」
新芽を手早く摘みながらリンダが言った。
「ああ。これは今までにない紅茶が飲めるぞ。ぼくの居た世界でも、ファーストフラッシュは最高級茶葉でとても高価なんだよ。もちろん好みの問題はあるけど、香りと爽やかさとマイルドな渋みを求めるならファーストフラッシュが一番だよ」
「今までの茶葉はどんな感じの物だったのですか?」
ルーシーが聞いた。
「大体はセカンドフラッシュか、オータムナルと言った物だよ」
「どのような違いがあるのですか?」
「ファーストフラッシュを過ぎると紅茶にした時の色合いが深くなり、香りや爽やかさは落ちるけど、苦みとかコクが強くなるんだよ。それを好きだと言う人もいるけどね。後はその人の好みだよ。一般的に紅茶は、香りとか風味とかそう言った爽やかな物を好む人が多いからね」
「それがこの、ファーストフラッシュの紅茶と言うことなんですね」
「そうだよ。実のところぼくもまだ飲んだ事ないんだよ。ファーストフラッシュの紅茶」
「楽しみですね」
そう言って笑顔を見せるルーシーだったが、少し顔色が冴えなかった。
ここのところ何となく元気がないと言うか、体調がすぐれない様子を見せていた。
《ご心配ありませんわ。ルーシーは懐妊しているだけですから》
「ええっ?」
スルーズの心の声に思わず大きな声を上げてしまった葵だった。
いつも静かに喋る葵の上ずった声に、茶葉を摘む皆の手が止まった。
苦笑いで誤魔化しながら葵は、
「ルーシー」
と呼んだ。
「何でしょうか?」
葵はルーシーの耳元に近寄って尋ねた。
「もしかしてキミは妊娠している?」
「どうしてそれを……!」
ルーシーは両手で口元を押さえた。
「ええっ!! 本当か、ルーシー!」
傍で聞いていたハモンドがルーシーを引き寄せた。
「おれたちの子供が出来たのか?」
嬉しそうにルーシーを抱き寄せるハモンドに、彼女は照れたよう小さく頷いた。
「そうか。よくやったよルーシー!」
ハモンドはルーシーを抱きしめてキスをした。
「ハモンド、ちょっと、みんなが見てるわ」
「構うもんか。嬉しいんだよ、おれは」
そう言って何度もキスをした。
「おめでとう。ハモンド。ルーシー」
葵が二人を祝福すると皆もそれぞれに、祝意を伝えた。
その日はビンセント主催の豪華な晩餐となった。
葵とハルのコンビで作ったファーストフラッシュのダージリンティを、デザートに添えたのは言うまでもないだろう。
だが一方で、ルーシーは泣き通しだった。
「だから知られたくなかったのよ……」
ルーシーはその身の変化に、十日ほど前から気付いていたと言う。
だけど言えなかった。言えは、アナスタシア探しの旅から脱落しなければならなかったからだ。
「イヤです。アナスタシア様を見つけたい……。わたしはあの時……アナスタシア様を救えなかったのよ。せめて、この手であの方をお探ししたいのよ……」
そう言ってハモンドの胸に顔を埋めた。
今夜はハモンドとルーシーの送別会も兼ねていた。
「ルーシー」
葵がハモンドとルーシーの傍らに寄り添った。
「マリーはキミたちが結婚して懐妊したことを知ったら、間違いなく小躍りして喜ぶよ。だってマリーはキミたち二人が捕まったことを気に病んだいた筈だ」
葵はそう言って二人の手を取った。
「必ずマリーを探して連れて帰るから、その時はキミたちの子供を見せてやってくれないか? それがこれからのキミたちの任務だ。産まれ出る新しい命を二人で大切に育てて欲しいんだ。マリーだってきっとそれを望んでいるに違いない」
「孔明様ぁ……」
ルーシーは涙で一杯になった目を向けながら頷いた。
「分かりました……。わたしきっとこの命を誕生させ……大切に育てます。ハモンドと二人で……きっと」
「それでいい。ハモンドもルーシーのこと頼んだよ」
「はい。アナスタシア様のことよろしくお願いします」
「ああ。きっと見つけ出して見せるよ」
葵とハモンドは固く手を握り合った。
翌日、ハルの転移魔法でルーシーとハモンドをジルベルトランドに転移させた後、今度は葵達がギルバートの転移魔法で、王都・ロンドニアに転移ゲートを開いた。
いよいよ、アルビオンの国王(女王)と会う時が来た。
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