第11話 アナスタシア 動けない心





 大学の図書館でその横顔を見つけた時、彼女の心臓は張り裂けそうな程鼓動した。

(○○○。やっと……やっと……会えたのね)

 溢れそうになる涙を堪えた彼女は、そっと○○○の傍らに寄った。

 だが○○○は彼女に気付く様子もなかった。

 彼女はいったん呼吸を整えてから○○○に声を掛けた。

「ねぇ、何読んでいるの?」

「ん?」

 ○○○は振り返り彼女を見たが、目線を合わせているのに目を見ていない、そんな印象を覚えた。

(心がここにない感じがするわ……。これがアナスタシア・マリーと出会う前の○○○なのね)

「わたしは◇◇△△よ。ここにはよく来るの?」

 唐突な入り方だったかなと、ちょっと気まずさを感じたが、当の○○○は表情を変える事なくただ笑みを浮かべていた。

「この大学には、古文書や古い手紙などの一級品の考古学資料がたくさん眠っているんだ。有名な戦いから局部的な小競り合いまで、ここに保管されている資料の数は国内でもトップクラスなんだよ。学校では教わらなかった戦術・戦闘の、真実の姿をここでは見る事が出来るんだ」

(やぱり、こっちの世界でもそう言うものが好きだったのね)

 そう思うと彼女は笑ってしまった。

 もっとも彼女だってそれを見込んで、関東一の蔵書を誇る、この大学の図書館で○○○が現れるのをずっと待っていたのだ。

「わたしも兵法が好きなのよ。でもね、趣味の合う人が中々いないのよね。ねぇ、これからも会って、色々教えてくれる?」

 ○○○は絶え間なく微笑みを浮かべていた。

(いいの? ダメなの? どっちよ)

 でも……。

 どう答えた所で、彼女は引き下がるつもりはなかった。

(十九年も探して、やっと見つけたのよ。手放してなるものか)

 最初から○○○に拒否権はないのだ。




 窓ガラスを激しく叩く風の音で、アナスタシアは目が覚めた。

(涙……?)

 起き上がった時、頬を伝わる涙にアナスタシアは驚いた。

(わたしは泣いていたのか?)

 今のは夢だったのか?

 それとも転生前の記憶なのか?

(分からない……)

 単に夢だと言うのならそれでいい。

 だが、もしそれが転生前の記憶だったとしたら……。

(わたしの知らない記憶だ)

 アナスタシア・マリーではない違う前世の記憶と言う事になる。

 目覚めるまでは相手の男の顔と名前を認識していた筈なのに、目覚めるとその部分の記憶だけがすっかり抜け落ちているのだ。しかも、前世の自分の名前まで忘れていた。

(十九年探した? 夢の中のわたしはそう言っていた)

 アナスタシアが転生の剣で命を絶ったのは十八歳になる直前だった。

 そもそもそれが前世の記憶だと決めつける所以ゆえんは何処にもなかった。

 単なる夢だと考える方が自然なのだ。

(疲れているのだろうな、わたしは……)

 色々と一度に重なりった事もあるが、何でも正面から捉えてしまう自身の気質がより強い呪縛となって伸し掛かっているのだ。

(相変わらずの悪い癖だ……)

 もう少し気楽に考えるべきなのだろうと思った。


 ――― マリーは全てを抱え込み過ぎるんだよ ―――


 誰かに言われた言葉が頭をもたげだ。

 穏やかな口調だ。

 アナスタシアはそれを心地よいと感じた。

 自然と肩の力が抜けて行く。

(その通りだな。だが……)

 その言葉をかけてくれた相手は誰だっただろう?

 思い出せない記憶に、アナスタシアは再び呪縛に取り込まれそうになった。



「アナスタシア様。お早うございます」

 ヒカルが小屋の扉を開けて入って来た。

 元気なヒカルの声が救いだった。

「そろそろ朝稽古の時間なので呼びに来たんですけど……」

 アナスタシアの顔を見てヒカルの笑顔が揺らいだ。

「大丈夫ですか? 気分が悪いのなら――」

「すまない。余計な気を遣わせたな。夢見ていただけだ。問題ない」

 アナスタシアは元気で頑張っている少年に涙を見られた事を恥じた。

「さあ、稽古に出かけるぞ」

 この地に転生して二週間しか経たないと言うのに、アナスタシアはカイザキに於ける最高剣技指導者に押し上げられていた。

 朝稽古と称してアナスタシアの下に集うのは、各地にある剣道場の師範代以上の腕に覚えがある者達だ。

 ヒカルは十二歳と言う最年少にして、東イカルガの師範代を務めているので朝稽古に参加出来るのだ。

 

 眩しい朝日と、飛ばされそうな突風に目を細めながら、アナスタシアはヒカルに尋ねた。

「キミはどのような思いを持って一人で生きて来たのだ?」

 ヒカルには両親がいない。

 三年前に、先日のような襲撃に合い命を落としたと聞いている。九つ年の離れた姉がいるのだが、旅芸人を生業なりわいとしていて、めったに帰って来ないらしい。

「おれは東イカルガが――カイザキが好きなんです。みんな気のいい連中だから、おれは寂しくなんかないですよ」

「そうか。強いのだな、ヒカルは。それに比べてわたしは……」

 突風に激しく舞う長い髪を押さえる仕草にかこつけて、アナスタシアは言葉を切った。


 高台のふもとの村は賑やかだった。

「剣聖様。お早うございます」

「アナスタシア様。いつもありがとうございます」

「剣聖様ぁ。かっこいいです」

 アナスタシアを見ると誰もが声を掛けて来る。

 ヒカルがアナスタシアを見上げてニコリとした。

「早くこの村にも馴染んでくださいね」

 そんなヒカルの気遣いを有難いと思った。そして村人たちに対しても。

 襲撃を受けた村の復興は迅速だった。他の村からも大勢の応援が駆け付け、住宅の再建に尽力しているのだ。

 集落同士には共同体という組織があって、有事の際には南・北・東・西のイカルガ村が一致団結して事に当たる仕組みが出来上がっているのだとヒカルが話してくれた。

「成程。いい仕組みだ」

(これは学ばなければならないな)

 エルミタージュの事が脳裏を掠めたが、次の瞬間心の中を風が抜ける、そんな錯覚を覚えた。

(学んだ所で、もうあの場所には帰れないのだろうな……)



 カイザキに転生してからのアナスタシアは、いつも心に霧が掛かっていた。

 モヤモヤとするそんな思いを払拭できるのが、剣を打ち合う瞬間だけだった。

 模擬戦だけが自己の境遇を忘れて、のめり込む事が出来る唯一の物だった。

 アナスタシアは皆に指南しながらも、己の剣技にも磨きをかけていた。

 最初は一度に三十人相手だったのを少しずつ人数を増やして、今では五十人の相手をしている。

「遠慮はいらない。叩きのめすつもりで打って来て欲しい」

 稽古には木剣を使用しているが、それでも打たれたら痛みはある。

 アナスタシアのスタミナは彼らの中でも群を抜いている。

 それでもアナスタシアは満足してはいなかった。

 四十人を倒した頃から、致命打にはならない程度の打ち傷を、腕に当てられるようになる。

 その辺りがアナスタシアのスタミナの限界のようだ。


(二人のバルキュリアのスタミナはこんなものではなかった)

 アナスタシアはメリッサとポーラの事を思い出していた。

 二人ともかなりの凄腕だった。

 それでも、三度模擬戦をしたが、差しで戦ってアナスタシアが負けた事はなかった。

 だが、戦場を想定した多数を相手にした模擬戦になると勝手は違った。

 何処から来るともしれない百人の敵と、仮想戦場を駆け回りながら、敵陣のフラグを取れば勝利とすると言った模擬戦があった。

 敵方となる戦士は弱すぎてはいけない。

 下位のA級シュバリエか上位のB級シュバリエから選抜する。

 百人相手なら辛うじてアナスタシアは勝利できるのだが、二百人相手になるとフラグを取る事は叶わなかった。

 しかし、バルキュリアは違った。

 文字通り一騎当千と言われるだけあって、二人とも模擬戦に於いては五百人が相手でもクリア出来るのだ。

 違いは、桁外れのスタミナだ。並の人間とは明らかに違うのだ。


 スタミナが落ちると思考力も剣技も衰えるが、最後までそれらを維持出来るのがバルキュリアの強みだった。

 だけど……。

(もっと凄い者がいた……その筈だ……)

 微かな記憶の中に、差しの勝負に於いて、アナスタシアの兜を弾き飛ばした相手がいたように思うのだ。

 アナスタシアが勝てなかった唯一の女性だった―――そんな気がする。

 並の女性ではない。

(彼女もやはり、バルキュリアだったのか……?)

 そして大切な仲間だったように思う。

 何故かしら、心がそう告げていた。

 色々な事で競い合った、朧気おぼろげな記憶がアナスタシアには確かにあった。

(思い出したい……全てを……)

 アナスタシアの心は、常にその思いから動けないでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る