第3話 アナスタシア 失われた記憶





 (ここは? 何処だ?)

 目を覚ましたアナスタシアは、真っ暗な狭い空間に、仰向けの姿勢で押し込められていた。

 差し出した右手が、目の前の扉のようなものに触れると、わずかに動いて、淡い光が見えた。

(上からフタのようなものを被せられているのか?)

 両手で押すと、それは簡単に押し上げる事が出来た。

(どうやら、閉じ込められていた訳ではないようだ)

 アナスタシア定まらない意識の中で、上ブタとなっていた木の板を、強く押し出した。

 フタは高い音を立てて床に転がった。

 見慣れないこじんまりした明かりのない薄暗い部屋だった。

 窓が一つあり、そこからかなり傾いた夕日が差し込んでいた。

 起き上がったアナスタシアは自分が入っていたのがひつぎだと知って、慌てて飛び出した。

(わたしに何が起こったと言うのだ?)

 アナスタシアは額に指を押し当てて、ぼやけている記憶を掘り起こそうとした。

 徐々にだが、ロマノフ帝国第一皇女にして皇太女でもあるアナスタシア・マリー・ロマノフの記憶が込み上げてきた。

(そうだ。わたしは短剣でこの胸を刺したのだ……!)

 アナスタシアは自分の左胸を見下ろしながら触った。痛みはなかったし、刺し傷も確認できなかった。そして自身が身に着けている真っ白な衣装が、ロマノフ帝国の伝統的な死に装束である事も思い出した。 

(わたしは、あの時、やはり死んだのか?)

 何かに追い詰められ、自害しなければならなかった思いだけは微かに残っていた。

 だが、それが何だったのか、頼りない記憶の断片が脳裏を掠めるだけで、確信に触れるには至らなかった。

(死んだのであれば、このわたしは誰なのだ?)

 アナスタシアは近くにあった壁掛け鏡に、恐る恐る近づいて見た。

    

(間違いない)

 鏡に映るのはアナスタシア・マリー自身だった。

 アナスタシアは必死に記憶の糸を辿った。

 いつも傍にいてくれる侍女長のルーシー・エルモンドがいた。

 剣術に限らず、兵法や経済・内政など、全ての指南をしてくれた パウエル・ラルク・ジルベルトや、アナスタシアのサーバントとなったハモンド・グリーデンがルーシーと恋仲だった事も思い出した。

(あの二人の恋は成就したのだろうか?)

 そう思った時、胸がギュッと締め付けられるような、切ない気持ちが込み上げてきた。

(わたしはこんなにあの二人の仲を気にかけていたのだろうか?)

 確かに二人の恋の成就を願う気持ちは強い。

 だがそれとは違う。

(なんだろ……胸が焦がれるような、この思いは……)

 それはアナスタシア自身の思いではないのだろうか。

(分からない……)

 身近にいた人物を一つ一つ思い返してみたが、いずれもアナスタシアの思いと符合する相手はいなかった。

(だけどわたしは……誰かの事を思っていた……)

 そうでないとしたら、この、息をするのも苦しい感覚は一体何なのだろうか。

(何処かに、とてもを残して来たと感じるのは気のせいだろうか?)

 アナスタシアの心は言いようのない寂しさに満ち溢れていた。

 心の中を冷たい風が吹き抜ける、遣り切れない感覚の中にいた。

(わたしにも、特別なひとがいたと言うのか?)

 そんな大切な人を思い浮かべて行くうちに、アナスタシアは父・皇帝ニコラスの死を思い出した。

(そうだ。宰相ペトロ大公のクーデターによって父上様が殺されたのだ!)

「父上様ぁ……!!」

 アナスタシアは床に座り込んで涙したが、僅かな時間で立ち上がった。

(こうしてはいられない)

 アナスタシアは棺の中にあった自らの剣と、青いフリースジャケットを手にした。

(この上着は……? わたしのものか? ―――いや、違う。これは……)

 微かだが、誰かにもらった気がした。しかもアナスタシアが望む形でもらった記憶が――ある。

 そして棺の底にもう一つあった黒い髪飾りにも気が付いた。素材はメテオラ鉱石のようだ。

(これもきっと、大切な誰からもらったものに違いない)

 お世辞にも上手とは言えない花模様の手作りの髪飾りだが、それを目にした瞬間、アナスタシアの瞼から、涙がポロポロと零れ落ちたのだ。

(わたしの体が……告げている。これは、わたしの大切な人が作ってくれたものだと……)

 青いフリースジャケットや黒い髪飾りに何の思い入れも感じていないのに、アナスタシアの体が勝手に反応して来るのだ。

 時間と共に一定の記憶の回復はあったが、一番大切な部分だけが覚醒しないのだ。アナスタシアは強くそう感じていた。

(わたしは一度死んだのだろうか……。だからなのか……)

 どういった状態で蘇生、或いは転生したのかは分からないが、その代価として、肝心な記憶を奪われているのではないのか。

(キミは一体誰なんだ!)

 アナスタシアは青いフリースジャケットと黒い髪飾りを両手に握りしめた。

(知りたい! この胸が張り裂けそうになる相手のことを、わたしは知りたい!)

 どちらにしてもこんな所でグズグズしてはいられなかった。

 それに………。

(早くロマノフに戻らないと大変なことになる)

 父・ニコラスが殺された後のエルミタージュ、いや、ロマノフ帝国の行く末が心配だった。

(それにしても、ここは一体何処なんだ)

 アナスタシアは取り敢えず外に出る事にした。


 しかし………。

 扉の外に出てアナスタシアは愕然とした。ここは高台にあった。

 夕焼けだと思っていたそれは少し離れた平地にある集落を包む炎だった。

(何事だ!)

 アナスタシアのいた建物もそうだが、集落のほとんどが木造りの建物だった。

 アナスタシアの出てきた建物の後ろにも、小さな木造りの建物がいくつか立ち並んでいた。

 アナスタシアはフリースジャケットを羽織ると剣を片手に集落に向かって駆け下りた。

 途中、足首まである死に装束が邪魔になり、太腿から下を剣で切り落として再び駆け出した。

 

 しばらくするとこちらに上ってくる一団がいた。村人のようだ。

「お、おまえ……!  先回りしていたのか! このやろう!」

 先頭を歩いていたと同い年くらいの少年がアナスタシアを見止めると剣を抜いた。

(ハル……? あっ、ハルことも思い出したぞ)

 一瞬喜んだが、それは後回しだ。

「待て! 何故わたしに剣を向ける?」

「うるさい! おまえ、アスカピアの手先だろ?!」

「アスカピア? なんだそれは?」

とぼけやがって!」

 少年は問答無用とばかり斬り込んできた。

(いい踏み込みだ)

 かなりの鍛錬のあとが窺えた。実戦経験も豊富のようだ。筋も悪くない。

 しかしアナスタシアの敵ではなかった。

 アナスタシアは素早い動きと剣捌きで少年を圧倒して見せた。

「こ、こいつ! 強い!」

 一撃で剣を弾き飛ばす事は可能だったが、上から目線という訳ではないが、力の差を見せつけるのではなく、手解きをしてやりたいと思った。

「上から振り下ろすばかりではダメだ!」

 アナスタシアの声に少年は立ち止まり、アナスタシアを見つめ直した。

 少年は「チッ」と舌打ちすると今度は下から剣を振り上げてきた。

 アナスタシアは一歩横に移動すると、少年の剣を巻き込むようにして弾き飛ばした。

 少年は剣を握っていたその両手を食い入るように見つめていた。

「剣は直線で動かしてはダメだ。防御を基本とし、円を描くよう意識すれば防御からスムーズに攻撃に転ずることが出来る」

 アナスタシアはこのまま剣の指南を続けたいと思ったが、村人の背後から甲冑を身に着けた数人の兵士が迫っていた。どうやら、先程少年が言っていたアスカピアと言う集団のようだ。

 アナスタシアは膝を落とす少年の横を駆け抜け、アナスタシアの進路を大きく離れる村人をも駆け抜けた。

「誰だお前は!」

 先頭にいた兵士が向かってくるアナスタシアに剣を向けた。

「このまま立ち去るなら見逃してやる」

「なんだと。この小娘が!」

 敵は五人だが、下位のA級シュバリエなら三十人を同時に相手が出来るアナスタシアだ。

「どうやら退く気はないようだな」

「退くだと?」

 男の一人が、アナスタシアのむき出しになった太腿を眺めて笑った。

「殺すんじゃねぇぞ」

「分かっているさ。小娘だけど、いい女じゃねえか」

「ああ。殺すのは遊んでからだ」

 アナスタシアは薄ら笑いを浮かべた。

「ありがとう、諸君」

 アナスタシアは剣を斜め下に構えた。

「おかげで、キミ達をほうむることに躊躇ちゅうちょしないで済むよ」

 兵士達は怒りをあらわにした。

「なめんなよ、コラ!」

「こっちは五人だ!」

「楽しんだ後に、切り刻んでやるからな!」

 言いながら斬り込んで来る男達は殺気に満ちていた。

(遊んでから殺すのではなかったのか?)

 アナスタシアの方が何倍も冷静だった。

 最初の二人を同時に甲冑の胴の継ぎ目を狙い、次の二人は首を刺し、最後は脇の下から心臓を突き刺した。その間十数秒の早業だった。

(わたしはすでに四人の人間を、この手であやめている)

 最初はバルキュリアの二人。そしてビルヘルムと第一皇子のミハイル・イワン・ロマノフだ。

 敵を殺すのを躊躇ためらっては、味方に損害を被る事にもなる。

 アナスタシアのおぼろげな記憶の中に、ゲルマン王国領アトライカで自分を庇って怪我をした男の姿が浮かんだ。

(あのひとは誰だったのだろう。わたしの思うひととは彼なのだろうか?)

 アナスタシアは戦いに置いてもう躊躇ためらわなかった。

 気配を感じて振り返ると、先程の少年がいた。

 少年は目を大きく見開いてたたずんだままだった。

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