第9章 再始動

第32話 もう離さない

 落ち着いた雰囲気喫茶店。

 客は少ないし、年上の大人ばかり。クラシック音楽が流れている。お値段も高い。


 真夏の一番暑い時間帯。

 自分ひとりだったら、まず入らなかった店に僕はいた。


 僕とは飲み物を前に向かい合っている。

 店に入ってから、僕たちの間に最低限の会話しかなかった。


(細野たちと話して吹っ切れたはずなのに、いざとなると緊張するんだな)


 なんのために彼女を呼び出したのか、わからなくなる。


 心を落ち着けよう。

 アイスティを口に含む。良い茶葉を使っていることもあり、リラックスできた。


「美心、僕が間違っていた」


 余計なことを考えず、頭を下げた。


「あたしの方こそ、ごめんなさい。勢いで変なことしちゃって」


 頭がテーブルにぶつかりそうなほど丁寧な謝り方だった。


「いや、僕が悪いんだ。美心が謝ることじゃない」

「ううん、詩音くんの気持ちを無視したから。あたしが悪いの」

「ちがうし、僕の方こそ」


 お互いに謝りあってしまう。

 視界の隅にカウンターが映る。コーヒーを淹れていた初老の紳士が微笑ましい目で、こっちを見ていた。

 

「僕、もう過ちは繰り返したくない」

「うん、あたしも」

「だから、今日は本音で話そう。僕たちの未来を考えたいから」


 美心は首を縦に振る。


「僕、今までは建前ばかりで、肝心の気持ちをおろそかにしていた。それで、美心を傷つけてしまった。でも、もう建前は捨てたつもりだ」

「あたしも覚悟を決めたから」


 美心の青い瞳は揺るぎがない。


「まずは、美心の気持ちを教えてほしい」

「あたしの?」

「ああ。イルミネイトへの移籍ではなく、活動休止を選んだ理由なんかを聞かせてもらえるかな?」


 美心はアイスハーブティを飲んでから、口を開く。


「そんなの決まってる。詩音くんがいるから」

「……」

「詩音くんがいるから、あたしはVTuberをしてるの」


 僕は自分の意見を挟まず、無言でうなずく。

 目を意図的に大きく開け、彼女の発言を促す。


「だって、詩音くんはあたしの希望だから。あたしにとっては大スターなんだよ」


 彼女は瞳を潤ませる。

 震える声に、純粋な思いが、これでもかというほど詰まっていた。


「中2のときの僕は、美心の大スターだったんだな?」


 自分で言うのは恥ずかしい。

 が、美心の言葉を使うことで、彼女を受け入れたかった。


「それもあるけど……」


 美心は頬を朱に染める。


「いまの詩音くんも……かっこいいから」

「うっ」


 覚悟を決めていても、羞恥心が消えるわけではない。


「あたし、初配信のとき、すっごく不安だったの」

「そ、そうなんだ」

「VTuberになって自分を変えたいのに、いざ本番となったら、勇気が出なくて……。入学式のときと同じだったんだよ。逃げ出そうかなと思ってたの」


 美心は胸に手を添え、不安な気持ちを吐露したと思えば。


「でも、詩音くんが励ましてくれたから」


 満面の笑みを浮かべ。


「あたしは弱い自分を乗り越えて、自分を変えていくことができた」


 僕に澄んだ瞳を向ける。

 神々しい瞳孔。そこに映る僕まで輝いていた。


「詩音くんはあたしの目標で、同じ立場の仲間で……けれど」


 彼女は苦笑いをしてから。


「ライバルでもあって。だから、だから……だから」


 僕の手を握りしめる。


「詩音くんがいないVTuberなんて、考えられないの」


 彼女の温かい皮膚を通して、熱い想いが伝わってくる。

 ASMRボイスと相まって、心が浄化されていく。


「美心……」


 清純さあふれる笑みに、僕は見とれる。


「あたしの言いたいことは終わり」


 美心は口を閉じる。

 数秒の間、僕は余韻を噛みしめた。


「美心の気持ちは受け取った」


 精一杯の感情を声に乗せる。


「なら、今度は僕の番だな」


 僕は美心の指を離していく。

 冷たいグラスを握っても、大切な人の温もりは残ったままだった。


「また美心を傷つけるかもしれないが、それでもいいか?」

「覚悟を決めたから。詩音くんの思っていることを話してほしい」


 青い瞳を見つめる。

 美心から一切の迷いが感じられなかった。


「僕、美心と一緒にいたい」


 うれしそうに美心は頬を緩める。


「大事な仲間で、大好きな女の子だから」


 真っ赤になる美心を見て、罪悪感がチクリと僕の喉を刺す。


「でも、美心のことを大切に思っているから――」


 建前を捨てると決めたから。

 対等な立場である彼女の覚悟を受け取ったから。


「僕は美心が変わっていって、活躍するのを願っている」


 僕は美心の想いを聞いてなお、自分の本音を伝えた。

 うれしさと困惑が混じったような複雑な顔をしたものの、美心は大きく相づちを打つ。


「たとえ、僕から離れていったとしても、美心が報われるなら……」


(僕は美心の幸せを願っている)


 そう言おうとしたのに。

 僕はに裏切られた。


 たった15年の人生。僕の大半を占めたのは、歌。


 歌に必要不可欠なのは声だ。

 声を出すには、息を吐いて、声帯を振動させ、声道で共鳴させ、口で音を作る。


 何万回となく繰り返し、ひたすら練習してきた、僕の声。

 最大のパートナーである声が、僕の言うことを聞かなかった。


 声変わり以来、2度目の反逆は――。


「いい加減、建前を捨てなよ」


 持ち主である僕へのツッコミだった。

 僕の声は、僕の心をズタズタに引き裂くと同時に。

 ここ数日の苦痛を取り除いた。


「僕は美心と一緒にいたい」


 ようやく本音が言えた。

 自分へのツッコミがなければ、僕は美心と一緒にいたい気持ちを押し殺すところだった。


「ふたりでゲーム実況したり、くだらないクイズを出しあったり」


 過去の活動を思い出すだけで笑顔になる。

 が、同時に涙もこみ上げてくる。


「ふたりで遊びに行ったときの話を、お互いの雑談枠でネタにして」


 美心がハンカチを取り出して、僕の頬を拭く。綿と彼女の指が、僕を撫でた。


「楽しかったんだ。歌っているのと同じくらい」


 VTuberでしか味わえなかった、僕たちだけの青春。

 当たり前になりかけていたけれど、ものすごく貴重な時間で。


「でも、もう戻ってこないから」


 幸せの存在を気づいたときには、過去になっていた。

 僕は美心と一緒に活動したくても、僕たちを取り巻く環境は厳しい。


「僕、悔しかったのかもしれない」

「……」

「失いたくなかったのかもしれない」


 これまで言えなかった負の感情を美心にぶつける。

 彼女なら僕を受け止めてくれるから。

 僕が弱音を吐いたぐらいでは、彼女は揺らがないから。

 母の胸で泣きじゃくる子どものように、僕は本音を吐き続けた。


 どれほど時間が流れた頃だろうか。

 やがて。


「まだ…………ないよ」


 彼女の手が僕の手に重ねられる。


「まだ、終わってないよ」


 彼女の力強いささやき声が、僕に勇気と癒しを与えてくれる。


「詩音くんの炎上なんて、どうにでもなる」

「じゃあ、事務所がVTuberをやめるのは?」

「だったら、もう一度、最初から始めたらいいでしょ」


 前向きすぎる美心がたくましく見えた。


(本当に出会った頃とは別人だな)


 相棒の新たな面を発見して感動するとともに、もっと彼女を知りたくなる。


「どうして、そこまで?」

「諦めようとしている詩音くん、まるで昔の自分みたいで……本当に苦しいの」


 美心は眉根を寄せた。


「昔のあたし、陰キャな自分が嫌なのに、変えられなくて、みじめな自分を否定した。それで余計に苦しくなって、諦めて……」


 苦しげだった彼女の顔が明るくなる。


「でも、詩音くんは自分の抱える矛盾を認めた。そのうえで、泣くほど悩んでるから」

「……」

「それって、すごいよ」

「僕がすごい?」


 美心がうなずく。


「出会ったころ、あたしの声だとか、PCスキルとか褒めてくれたよね?」

「ああ」

「あたしにとってはできて当たり前で、特別だと思ってなかったの。でも、詩音くんに言われて、あたしの普通は他の人からみれば、すごいことなんだなって気づいた」

「美心」

「それから、少しずつあたしは自信が持てるようになっていったの」


 美心は聖女のような笑みを浮かべる。


「あの頃とは逆だね。詩音くんが自分の良さに気づいてなくて、あたしに言われてるんだから」


 指摘されてみて、納得した。


「だから、あたしは詩音くんに諦めてほしくないの。秦詩音が好きだから」


 彼女の言葉が無限の勇気をくれる。


「あたしは詩音くんとVTuberをしたいの。ただ、それだけ」


 あれだけ自分を変えたいと言っていた女の子が、選んだ答え。

 それが僕であることに、うれしさを感じる。


「美心って、意外と頑固なんだよなぁ」

「……詩音くんのいじわる」


 口ではからかっているけれど、照れ隠しだ。美心の新たな一面を見て、僕はまた彼女が好きになった。


「まあ、美心と一緒だったら、僕も0から始めてもいいかな」

「あたしも」


 今度は彼女の手に、僕の手を乗せる。


「後悔するなよ」

「なにが?」

「大手への移籍を蹴ったことを」

「それはないよ」


 美心は言い切った。


「なら、もう離さない」


 美心に指を絡ませる。

 彼女は抵抗するでもなく、僕を受け入れた。


 見つめ合い、お互いの体温を確かめ合っていると。


「雨降って地固まるって奴?」


 僕たちのテーブルの脇に誰かが立っていて。


「それで、あーしの罪が消えたわけじゃないんだけどさぁ」


 彼女は頭をかいていた。

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