第31話 したいこと
突然、我が家を訪れてきたマネージャは、ハンカチで首筋の汗を拭っている。ブラウスにできた深い谷間に伝わる汗。フェロモンがハンパない。
危険物質が危険で危ないので、とりあえず話しかけよう。
「……今日、約束してたっけ?」
「ううん。近くに来たから寄らせてもらったの~」
高校生というより、若手会社員が言いそうな雰囲気だった。実際に、会社で働いているから、納得である。
「僕が外出してたら、どうするんだよ?」
「大丈夫。ボッチな詩音ちゃんだし~」
陽キャ同級生は、明るい口調で僕をからかってから。
「大事な話があるの」
急に真顔になった。
「……暑いだろ。まずは、家に上がってくれ」
細野をリビングに通した。
麦茶を出す。マネージャはコップを持つと、上を向く。
ゴクゴクと飲み干したのはいいが、豊かな胸まで強調されるから視線に困る。
「ここに来るまえ、彼女の家に行ってきたの」
一瞬にして、気が引き締まった。
「なにか言ってたか?」
「……舞姫ひびき、引退したいって」
「……そうか」
信じたくなかった。
けれど、驚いてはいない。半ば予期していたから。
「残念だな。美心、才能あるのに」
あえて抑揚を消した僕の声は、自分でもびっくりするほど乾いていた。
(こんなの僕じゃない)
わかっていても、口の動きは止められない。
「僕とちがって」
良くないとわかっていても、自虐的な言葉が吐き出されてしまう。
僕自身の言葉が胸を深くえぐってくる。
(思えば、皮肉な話だ)
3ヵ月前。僕は美心のマイナス発言に、心の中で突っ込んでいた。
なのに、今、僕は自己否定をしているわけで。
昔の美心が抱えていた惨めな気持ちが、ようやく理解できたかもしれない。
彼女との接点が失われた、このタイミングで気づくとは。
もう遅い。遅すぎる。
(笑っちゃうよな)
苦笑いがこぼれかけたとき。
「……それ、本音なの?」
怒りと悲しさが混じった声が、僕の意識を現実に引き戻した。
お姉さん風の同級生が、目に涙を浮かべている。普段の大人びた様子はなく、同じ年の少女にしか感じられなかった。
細野の視線が痛い。
喉がヒリヒリする。
答えようと思ったのに、口が動いてくれない。
麦茶を流し込む。コップ1杯分の水分が空になっても、乾きが収まらない。
それでも、逃げてはいけない。
「うぅっ……」
どうにか声を出そうとするが、意味を持つ音にならない。
僕のうめき声と、セミの鳴き声が不協和音を奏でる。
僕とセミの不毛なジュエットが1曲分ほど流れる間、細野は無言でいた。
やがて、セミが演奏をやめる。僕の口も止まる。
数秒の沈黙ののち。
「詩音ちゃんはどうしたいの?」
あらためて、細野は僕の目を覗き込んでくる。
僕は視線を外す。
けれど、彼女の瞳は僕を追従する。どこまで逃げても追いかけてくる、ミサイルのように。ただし、無機質な兵器ではなく。温もりに満ちていた。
細野と目が合ったとたん。
「僕は諦めたから」
数分間にわたり出せなかった声が出た。
「ウソ」
細野は目に涙を浮かべ。
「わたしの目は誤魔化せないんだから」
姉と同じことを言った。
(僕の負けだな)
身近な2人から指摘されてまで、強情を張ろうとは思わない。
けれど、気持ちを認めたからといって、現実が変わるわけではなく。
僕が望む未来と、惨めな現実のギャップに悶々としていたら。
「建前とか捨てちゃいなよ~」
細野はいつもの間延びした話し方に戻っていた。
妙に落ち着く。
「会社が~とか、移籍が~とか、そんなくだらないこと~どうでもいいから」
「どうでもいい?」
「そうそう。大人の都合なんて、くだらないじゃん」
「くだらない……か」
言われてみれば、僕の悩みなんてくだらないのかもしれない。
僕は美心に活躍してほしい。
現時点における、僕の最良の選択肢だ。
なのに、彼女は僕がいないのを理由に引退すると言い出し。
僕は美心が羽ばたくためには、僕の存在が不要だと考える。
すれちがい。
僕と美心の希望が食い違っている。
僕と美心は仲間とはいえ、別々の人間。
当然、元々の性格も異なるし、育ってきた環境も違う。
たとえば、同じモーツァルトの曲を聴いても、僕と美心の感想が一致するとは限らない。僕たちは別の人間で、趣味嗜好や感性も一致しないのだ。
だから、今回の問題においても、意見の衝突は避けられない問題なのだろう。
悩むだけムダ。くだらないことだと頭ではわかっている。
でも、
モヤモヤが止まらない。
「詩音ちゃん、聞いてる?」
「えっ? ああ、ごめん」
考えがそれてしまったようだ。
「とにかく。詩音ちゃんは、なにをしたいのかな~?」
「僕は……僕は……」
「ほら~また、建前を考えてるし」
笑われてしまう。
「詩音ちゃんたち、建前が多すぎなの~」
「えっ?」
「前から思ってたこと、言っていいかな~?」
「この際だ。はっきり言ってくれ」
「ふたりともさ~配信のためとか、過去を取り戻したいとか、自分を変えるためとか~そんなんばっかり」
「うっ」
たしかに、そうだ。
僕と美心はデビュー前から肩肘を張っていた。
僕はバ美肉で、歌を取り戻したくて。
美心は嫌いな自分を変えたくて。
自分の願望を大事にしているようでいて、動くための題目を唱えていた。
「引退するんでしょ~なら、建前なんてどうでもいいじゃん~」
「たしかに」
うなずく僕に、細野はつぶらな瞳をぶつけてくる。
「美心ちゃんとどうなりたいの?」
不意打ちだった。
「ほーら、お姉ちゃんに話してみ~」
同級生は大人びた笑みを浮かべる。癒やし系爆乳お姉さんの本領を発揮していた。
美心とは路線がちがうけど、細野も妙な安心感がある。
どんな発言をしても受け入れてくれる。
なら、僕はいっさいの考えを捨てて。
肩の力を抜いて。
「僕は美心と一緒にいたい」
言葉を紡ぎ出す。
自然と僕の口からあふれた声は、過去のどんな演奏会よりもキレイな音色を響かせた。
「美心と一緒に配信したい」
「うんうん、それで?」
「美心は大事な人だから。VTuberを引退しても、ずっといたい」
「なら、本人に気持ちをぶつけなよ~」
「……そうだな」
どうやら僕は難しく考えすぎていたらしい。
さすが、マネージャ。有能な女子高生マネちゃん。
おかげで、僕は大事なことに気づけた。
「ありがとな」
「どういたしまして~あっ」
細野が口を押さえる。
「マネージャとしては、ふたりには引退してほしくないから~」
さっきまでの彼女の発言を振り返る。僕たちの引退を認めていると受け取られてもおかしくないかも。
元気になった僕は軽口を叩くことにした。
「まだ、僕を見捨ててなかったのかよ?」
「当たり前でしょ。夢咲かなでは歌もプロ級に上手いし~女子よりもかわいいからね~ほとぼりが冷めたら大丈夫だよ~」
マネージャは豊かな胸を張る。
歌音姉さんじゃないけど、鬱展開後のおっぱいは最高です。
「詩音ちゃん!」
「えっ?」
(胸を見てたのバレた?)
軽く焦っていたら。
「ほら、早く美心ちゃんのところに行きなさいよ~」
全然ちがった。
「そうだな」
僕は勢いよく立ち上がると、美心にLIMEを送った。
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