第8章 休止

第30話 ゆらぎ

 8月に入って、数日後。


「暇すぎる」


 まだ、午前中。1日がたっぷりあるんですけど。


 思えば、予定がない夏休みは人生初かもしれない。

 学校とVTuberの両立でヒイヒイ言っていたのがウソみたいに退屈だった。


 学校も休みだし、VTuberも半ば引退したようなもの。


(そりゃ、時間が余るわな)


 さて、とりあえず、今日もなにかしらするか。


 暇だとロクなことを考えない。

 最初の何日かで鬱になりかけ、やがて僕は学びを得た。


 そこで、夏休みの宿題に着手した。

 朝から晩まで勉強したら、昨日で終わってしまった。


(さて、今日はどうしよう?)


 宿題もなく、遊ぶ友だちがいるわけでもなく。

 歌を除いて趣味もない。


 少し前だったら、空き時間にはVTuberの配信を見たり、ゲームをしたりしたんだが……。


(いかん、いかん。また、はまりそうになった)


 VTuber時代を思い出すのは、メンタルの健康上よろしくないのに。


 椅子に座ったまま、背伸びをする。

 だらりと腕を下げたとき、ふと、CDの山が目に入った。


 今日は部屋の整理でもするか。


 数百枚あるCDを床に並べる。

 仕分けしてCDラックに詰め始めた。ついパッケージを見てしまい、なかなか片付かない。


(時間を潰したいし、まあいいか)


 と、作業に没頭していたところ。


 1枚のCDが目に止まった。

 合唱曲集だ。僕も出演している。ソロを歌わせてもらったんだった。必死に練習してソロを任されたので、思い入れがある。


 CDをコンポにセットし、再生する。


 全盛期の自分が歌っていた。

 透明感ある女性の音域を。

 天使のように純粋な歌声で。


 すさんでいた心が洗われていく。


(自分の歌声なのにな)


 思わず苦笑がこぼれる。


 自分の歌を聞いているうちに、歌手時代の出来事が脳内で蘇っていく。


 もっとも古い記憶は3歳にさかのぼる。

 両親の前で姉が楽しげに歌っていた。


『ぼく、うたいたい』


 そう言って、姉の隣で僕は歌い始めた。

 音楽一家の子どもとはいえ、3歳児。上手に歌えるはずもない。


 なのに。

『しおんちゃん、いいこ』

 姉はうれしそうに僕の頭を撫で。

『そうね。さすがはママの子。楽しそうに歌っていて、良い歌だったわ』

 母は満面の笑みを浮かべて、僕を抱きしめる。


 それから、僕は歌が好きになった。

 姉が屈託のない笑みを向けてくれたから。

 音を楽しんだことを母が褒めてくれたから。


 自分の楽しさを、みんなに届けたくて、僕は歌の道に進んだ。


 きっかけとなった経験を振り返ったあと、なぜか近い過去に思いを馳せていた。


 VTuberを始めたときの気持ちと重なる部分があったから。

 女性の声でもう一度活動したかったのもあるが、安らぎをリスナーさんに届けたいと願っていたのも事実で。


 歌とVTuber。どちらも僕の根幹が求めていて、自分の存在意義を感じる手段だった。いや、日々すごすにあたっての希望になるものだった。


 なのに、僕は大切な人たちリスナーを裏切ってしまった。

 今は活動休止という名の、実質的な引退に追い込まれている。


 もはや歌もVTuberもなく。

 今度こそ空っぽになってしまった。


 心の支えになる少女にも会わせる顔がない。


 神楽美心。同じクラスの陰キャ女子。

 おとなしくて、真面目で。

 出会ったころは学校でいじめられ、試験前には勉強を教えてくれて。


 かと思えば、突拍子もない行動にも出る、変わった女の子。


(あのときのランジェリーショップは驚いたな)


 艶やかな下着姿が蘇り。

 恥ずかしくも、男の本能が頭をもたげる。


「最低だな。彼女を傷つけておいて」


 僕に彼女と接する資格がないと頭では理解していながら――。

 CDのケースに透明な液体が、ポタポタと落ちる。


「美心、ごめんな」


 いますぐ、美心に会いたい。謝りたい。


 衝動と理性のせめぎ合いに打ちひしがれる。

 コンポが何曲も流す間、僕はうめいていた。


 どれぐらい時間がすぎたころだろうか。

 PCがビープ音を鳴らす。


 姉だった。Web会議システムで通話してきた。

 涙を拭いてから、通話をオンにする。


『やろー、歌音かのんお姉ちゃんでちゅよ★』


 画面越しに映る歌音お姉ちゃんを見て、僕は噴き出した。


「なんで下着なのかな?」


 というのも、姉はブラジャーとパンツしか身に着けていなかったから。

 大きな胸がはみ出そう。姉だから興奮はしないけど。


『暑いから』

「そういうことを聞いてるんじゃない」

『だってぇ、かなでちゃん、ううん、詩音ちゃんが体調不良みたいだから、元気になってもらおうと……てへっ★』

「……」

『とりま、鬱展開になったら、おっぱい出しとけ★』


 細野ほどではないが、たゆんたゆんな胸を下から持ち上げる女子大生。


 姉なのに。

 3年ほど前までは風呂にも一緒に入っていたのに。

 不覚にも心が癒された。


『どう? 歌音お姉ちゃんのおっぱい……キ・レ・イ★』

「……はいはい、キレイだな」


 癪なので、あえて平淡な声音で答える。


『な、なによ、その言い方』

「別に。こっちは取り込み中なんだけど」

『……お休みのところ、ごめんね★』


 ハイテンションすぎて、謝っているようには聞こえない。


「で、なんの用?」


 姉だからこそ、冷たい態度を取ってしまう。

 いや、妙に勘の良い人だから、心の底を見透かされたくないのかもしれない。


(着信拒否すればよかったな)


『ところで、美心ちゃんも体調不良なんだって?』


 歌音姉さんは一度だけ美心のボイトレを引き受けてくれた。美心が舞姫ひびきだと知っている数少ない人だ。

 舞姫ひびきが体調不良で活動休止中だと、SNSで知ったのだろう。


 無言を貫こうとしたら。


『美心ちゃんとしたの?』

「へっ?」


 僕の口から間の抜けた声が漏れる。

(したって、もしや?)


『ふたりして体調不良だもん。キスで飛沫感染したのかな?』

「ぶはぁぁっ!」

『あれれ? いまの反応だと、ホントにキスしたのかな?』

「してないし」

『ちぇっ、つまんないの★』


 ウザい。うちの姉がウザすぎる大学生になった。


『……ちょっとは元気になったかな?』

「へっ?」

『暗い顔してたんだぞ』


 どうやら見破られていたらしい。


『ボーイソプラノを引退した直後だったかな』

「う、うん」

『割り切ってるように見えてさぁ。歌に未練があるの、バレバレだったんだから』

「そ、そうだったんだ」


 自分では誤魔化してるつもりだった。

 当時、歌音姉さんも大学受験があったし、余計な心配をかけたくなかったのだ。


『うんうん。歌音お姉ちゃんだって、歌を引退した人間だし。やめざるを得ない人間の気持ちはわかるつもり』


 歌音姉さんは音大進学を諦め、ボイトレ講師になった。

 挫折を乗り越えて、新たな道を見いだした先輩でもある。


『いまの詩音ちゃん、歌をやめたときの顔をしてるんだよね』

「……もうVTuberは諦めたし」

『お姉ちゃんの目は誤魔化せないぞ★』


 Webカメラ越しなのに、姉は僕の心を読んでくる。


『ホントはVTuberに未練があるんでしょ?』

「……くっ」

『うふっ、ホントにかわいいんだからぁ★』


 完全に手玉に取られている。


 美心と一緒にドルチェを続け、リスナーさんに安らぎを届けたい。

 歌音姉さんの言うとおりだ。


 けれど、言葉に出してしまったら、失うツラさに耐えられなくなりそうで。

 僕は無理やり口に蓋をする。


『まあ、今日はこれくらいにしておきましょ』

「……」

『まだ、勝負下着の感想を聞いてないけど、見逃しておいて、あ・げ・る★』


 言い終わると、姉は一方的にミーティングを終わらせた。

 嵐のようだったけれど、姉なりの気遣いがうれしかった。


(CDの整理に戻ろうか)


 ところが、今度は玄関のチャイムが鳴った。

 玄関に行き、ドアを開ける。

 細野日和が立っていた。

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