第10話 彼女の特訓

『詩音ちゃん、カノジョとどこまで進んでるのかな?』

「姉さん、これ以上はやめてくれ」


 顔から湯気を出す神楽を横目に、僕は画面に映る姉に抗議する。

 Web会議システムは便利だと思っていたら、とんだ大惨事になった。神楽とくっつきそうな距離でいたのを実の姉に目撃されたのだから。


「あれれ、お姉ちゃんにたいして、冷たいなぁ」

「……」

「『歌音かのんお姉ちゃん』って、お姉ちゃんの胸を追いかけていたのは誰だったかな?」


 我が姉はカメラに胸を近づける。

 結果、僕のPCに爆乳がドアップで表示されることになり。


 神楽は画面の一点を凝視し。


「やっぱり、秦くん、大きいのが好きなんだね」


 ため息まじりに、自分の胸元に視線を落とした。


(おまえも、普通に大きいから!)


 メンタルのフォローをしたかったが、セクハラになる。

 バツが悪くなったので、話を先に進めることにした。


「姉さん、彼女が例の――」

「歌音お姉ちゃんだよ?」

「……歌音お姉ちゃん、彼女が例の――」


 面倒くさい姉だ。呼び方ひとつで、ご機嫌になるし。


「うんうん、彼女がそうなんだね★」


 我が姉は、目をせわしなく動かす。カメラ越しなので推測だが、神楽をじろじろ見ているにちがいない。


 一方。


「……ひゃっ、あの……あ、あ、あたしは」


 神楽は噛みまくりで、緊張が伝わってくる。

 こうなる可能性を考え、心の準備をしてもらおうと段取りを立てていた。この時間に姉が連絡してくると伝えておいたのだ。


「メチャクチャ、かわいい子だね★」


 幸い、姉さんは神楽をお気に召してくれた。

 神楽がクールダウンする時間を待つ間、僕は姉に話しかける。


「どうかな?」


 曖昧な問いかけだったのに。


「理想的な安眠ボイスだね。不眠症の治療にいいかも。ただし、医師の指導を受けてね。そう言っておけば、怒られ案件にはならないはず★」


 僕の意図を察した歌音姉さんは、あっさりと神楽の個性を見抜く。


「ひゃい、あたしの声は睡眠魔法なんでしゅ……ぴえん」

「自分のことはわかってるんだね。今のままじゃ、ゲーム実況で寝落ちするリスナー続出すること間違いなし。ASMRだったら問題ないんだけどね」

「あたし、ゲームも好きだから」


 神楽は青い瞳に涙を浮かべ、うなだれる。


 どれだけ神楽がゲーム好きなのか僕も知っている。とあるネット対戦の格ゲーで世界ランキングVIP入りしているらしい。かなりやりこんでいるのだろう。

 今のままでは得意なゲーム実況もできない。才能を持て余して、もったいなさすぎる。


 姉さんは微笑んで。


「落ち込むことないぞ!」


 声優ばりの甲高いアニメ声を出す。


「そのために、歌音お姉ちゃんが呼ばれたんだから★」

「お姉さま、ありがとうございます」

「そう、その調子。声は変えられるのだっ★」

「さすが、姉さん」

「歌音お姉ちゃんでしょ? 罰として言うね。『ドビュッシー』というフォルダにエロ動画を隠しておくなんてね。ドビュドビュしちゃって、かわいいんだから★」


 神楽にジト目を向けられたし。

(それに、ドビュッシーに謝れ!)


「……歌音お姉ちゃん」

「なに、詩音ちゃん?」

「依頼は受けてくれるんだよな?」


 僕は頭を下げた。


 実は、僕の姉はボイストレーニングの講師をしている。

 もともと、姉は幼少期から歌をやっていた。僕が歌を始めたのも、姉の影響があったから。


 姉は音大への進学を目指していた。

 が、音楽の世界は非情である。

 高2のとき、プロのオペラ歌手である母から引導を渡された。姉の実力では、まぐれで音大に受かっても、プロにはなれないだろう、と。


 結局、姉は声楽の道を諦めた。

 今は大阪の一般大学に通いながら、ボイストレーニングボイトレのスクールで講師をしている。声優志望や、歌手志望の人に教えているらしい。


 神楽の声のことで相談したくて、時間を取ってもらったのだ。


「いいよ」


 姉はニッコリと微笑む。

 安堵しかけたが。


「ただし、うちの生徒さん、30分のレッスンに4000円も払ってるんだよ?」


 ただでは終わらない。

 なぜ、金額を持ち出したのか。

 僕には姉の意図がわかる。

 気持ち的には神楽をフォローしたい。しかし、僕が口を出してしまったら、意味がない。


 神楽がどう答えるか、見守っていたら。


「大丈夫です」


 神楽は堂々と胸を張って応じた。


「今回はお小遣いで払いますし、次回からはバイトして、払いますから」

「……合格」


 姉が白い歯を出して笑う。


「あなたの覚悟を試させてもらったの」

「ふぇっ?」

「安心して。報酬ならお金以外のものでもらうから」


 神楽が小首をかしげる。


「……画面越しでも綺麗なパイオツってわかるんだよね。お姉さん、揉みたくてたまらんぞ!」

「リモートでお触りは無理だろ」


 思わず突っ込むと。


「おっぱいのためなら、新幹線に乗ってでも駆けつける★」


 バカだ。


「冗談だよ(てへっ)。かわいい弟の頼みだからね。お金は気にしなくていいよ」


 というわけで。

 神楽のボイストレーニングが始まった。


「最初に聞きたいんだけど、美心みこたん?」

「なんですか?」

「これまでの人生で、あんまりしゃべってなかったでしょ?」

「……あたし、友だちいませんから」

「大丈夫。友だちなんかいてもメンドクサイから。おっぱい揉んだだけで嫌われる世界なんて滅んでしまえ」


 姉のバカな話のおかげで雰囲気が暗くならないから不思議だ。


「それはさておき、声も筋肉なんだぞ★」

「筋肉?」

「うみゅ。体を動かせば筋肉は発達するし、使わないと衰えていく」


 神楽は神妙な顔でうなずいた。


「声も一緒。しゃべらないと退化するんだよね★」

「は、はい」

「美心たんは今までしゃべる量が少なかったから、同世代の子よりも発達が遅れてるのかも」


 それは僕も感じていた。


 神楽のささやくような声は綺麗ではある。

 だが、磨かれていない原石だ。今のままでは宝石にはなれない。


「とりま、抑揚をつければ、睡眠魔法にはならないでしょ★」


 神楽は言われた内容をノートにメモしている。


「まずは、基本中の基本な腹式呼吸からね★」


 なぜか、姉はニヤリとした。

 嫌な予感がする。


「我が弟よ」

「はい?」

「美心たんの胸を触ってみて」

「ぶはぁぁっ!」


 さすがに想定外だ。


「エッチな意味じゃないから。声の当たる位置を確かめたいのさ」


 納得した。

 声を出すにあたり、呼吸法が基本になる。

 呼吸法には腹式呼吸と胸式呼吸がある。発声法に求められる呼吸法は、腹式呼吸。


 そこで、胸式呼吸になってしまっているか確認する方法があるのだが。

 胸に手を当てて、声を出してみる。そのとき、手がビリビリしたら、胸で呼吸をしている証拠だ。


(理には適っているが……)


 神楽さん、床に座って、のの字を書いている。


「さすがに、ありえん」

「じゃあ、弟よ、下腹部を触ってみ」


 腹に手を当てることで、自然と腹を意識して呼吸するようになる。これも、最初のうちはよくやる練習法だ。


(胸よりはマシだけど、腹も無理だろ)


 神楽も抵抗すると思ったのに。


「あたし、やります」


 想定外だった。


「秦くんなら安心ですので」

「おまっ」

「それに、あたし」


 神楽は青い瞳を僕に向けて。


「自分を変えたいから」


 彼女は覚悟を見せた。

 本人がいいと言っているなら、僕も応じるまで。


「じゃあ、お邪魔します」


 緊張のあまり、変な挨拶をしてしまった。


 僕は前屈みになり、神楽のお腹を触る。

 ぷにぷにしてて柔らかい。なんだ、この意味不明に癒される感触は。


『吸って………………吐いて………………』


 神楽は姉に命じられるまま、深く息を吸って、吐き出す。

 ちょうど首筋に吐息が当たり、くすぐったい。


 成果はあった。腹式呼吸ができている。


「はい、おわり」


 終わったらしい。僕は神楽から離れる。

 名残惜しいが、仕方がない。


「今度は表情筋を動かす練習ね」


 神楽の顔が火照っていた。呼吸の練習も疲れるから無理もない。


「美心たん、無表情なのだぞ★」

「……陰キャですから」

「陰キャは関係ないぞ」


 姉は笑顔のまま神楽をたしなめる。


「性格よりも技術が大事なのさ」

「……そうなんですか?」

「うみゅ。表情も筋肉だから。鍛えればレベルアップするの、ゲームみたいに」

「表情も筋肉なんですね」

「そう。コミュニケーションは基本的に技術だから。練習すれば、陰キャでもコミュ力強者になれるぞ★」


 歌音お姉ちゃんのおかげで、神楽の顔が少し明るくなった。


「話は戻るけど。声と表情は繋がってるんだぞ」

「どういうことですか?」

「表情が豊かになれば、声も変わるってことさ★」


 神楽は熱心に書き込んでいる。


「定番の練習法を教えるね。まず、『い』と言ってみて」

「い」

「次に、『う』」

「う」

「じゃあ、『い』と『う』を連続して発音してみようか。『いういういう……』って感じで」


 姉さんの見本を神楽が真似する。


「いういういう」

「もっと頬を動かして!」

「いういういう」

「口角を上げる!」


 という練習を数分。

 終わったときには、神楽の顔が苦しそうだった。


「明日には、顔が筋肉痛になるかもね★」

「……うっ」


 神楽の顔がひきつっていた。

 さらに。


「なお、舌にも筋肉があるぞ★」

「舌まで……」

「鍛えると、滑舌が良くなるのだ」


 歌音姉さんに命じられるまま、神楽は舌を左右に動かす。

 仕草がリスっぽくて、かわいい。


「というわけで、今日のレッスンは終わり」

「ありがとうございました」


 神楽の額に汗が光っていた。


「また、お願いします」


 神楽が頭を下げると。


「ふぇっ、次回からは詩音ちゃんがトレーナーだぞ★」

「なっ」


 予定外だったので、僕の口から変な声が漏れてしまった。


(まあ、何度も頼れないか)


「わかった、僕でよければ」

「お願いします、先生」


 神楽が潤んだ瞳を僕に向けてくる。


(熱心だし、教え甲斐があるかも)


 機材関係で助けてもらった分、声では僕が協力しよう。


 姉が退出したので、会議アプリを閉じたときだった。


「ふたりとも良い雰囲気のところ、悪いけど」


 いつのまにか、後ろにマネージャがいました。

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