第8話 最強の“正妻”ルッテの秘密
森の中の高木から一人の男が飛び降りてきて、地面にすたっと着地した。
手に弓を握っている。
擦り切れて
質素ではあるが身軽で目立ちにくい姿だ。
「ギラス様、もしかしてうまくいっただすか?」
木の根元にはでっぷりした腹の荷物番が待っていた。
どこかぼんやりとした間の抜けた声の男である。
もっさりと寝癖のついた髪は脂ぎっていて、赤ん坊がそのまま大きくなったような、つぶらな瞳をしている。
ギラスは弓をこの男に渡すと、その質問には答えずにただ鼻にしわを寄せて、にいいと笑った。
気持ちの高ぶりを抑えながら叫びたいのを必死に堪えているようにも見える。
「ルッテ・フィオーナ……伝説の魔術師か。地道に情報を集めてきた
「ついにやったんだすね! もう二週間もこの森に隠れて、オラはくたびれただす」
「二週間ぐらいなんだ。そのおかげで俺は貴族みてえな生活ができるんだ。お前にだって、もちったぁ美味いもん食わせてやれるぜ」
「ホントだすか? んがああ! なら来て良かっただす!」
コッポは頬を緩めた。
◇◇◇◇◇
草をかき分けながら、でっぷり腹のコッポはついに湖畔に横たわる女を見つけた。
綺麗に着飾った姿の背中には矢が突き立っており、尾羽が風に震えていた。
「どうだ? ちゃんと死んでるか?」
「はい……だす」
少し離れた繁みの中から声を掛けてくるギラスにコッポは答えた。
しかし、どうも歯切れが悪い。
コッポはさらにまごついた表情を浮かべながら言った。
「矢はしっかりと女の心臓を貫いているだす。これなら生きてるわけがねーだす。でも……なんでだろう。……なんで死んで苦しいはずなのに、この女は嬉しそうに笑っているだすか?」
「顔が笑っているだと……?」
ギラスは油断ならない顔つきになった。
「それにしても、オラ、こんな高貴な人は初めて見ただすよ」
「おいコッポ、おめえの斧でよ、その女の首を
「ふええ!?」
コッポは肩すぼめてびっくりした。
「オラ、そんなおっかねえことはできねえだすよ! い、いつも母ちゃんに言われてるだす。人を殺したら悪霊に取り憑かれるって! そんで自分も同じ死に方をするって! オラ、この女の悪霊に殺されたくねえ!」
「心配するな。お前が殺すわけじゃねえ。もうその女は間違いなく死んでいる。そしてその女を殺したのは俺だ。お前じゃねえ。わかるだろ? お前はただ雇い主である俺様のために証拠の首を持ってくりゃあいいんだ。買い物のお使いと同じだぜ」
「んでも、オラやっぱ人間の首は、斬りたくねえだす! うまく言えねえけども、何か
「何を馬鹿なこと言ってやがんだ。人間も豚や牛と変わらねえ。何も難しいことはねえ」
「で、でも……」
「いいから、やれってんだよ!!」
「ひいい!」
コッポは恐る恐る斧を振りかぶりながら祈るように呟いた。
「……どうか高貴な家の娘さん、オラを恨まねえでくだせえよ。オラは、ただ怖い人たちに命令されてアンタの首を
ルッテの目がくりっと動いた。
そしてコッポをじっと見つめる。
「……では、冥土の土産にあなたたちの雇い主の名前を教えて頂けませんか?」
コッポはきょとんとした顔になった。
ダラダラと冷や汗が流れる。
気のせいだろうか?
死んだ女がしゃべったような。
それもまるで今眠りから覚めたばかりのように平然と。
いや、むしろ泉の湧くような美しくやわらかい声だった。
コッポは考えることをやめてしまったように、立ちすくんだ。
女はまた口を開いた。
「……どうかあの世へ行く前に教えてください。私が悪霊となって呪うべき相手は誰ですか? それはあなたですか?」
コッポは必死になってブルブルと首を振った。
「では、あなたたちは誰に私を殺すように命令されたのですか? 教えてください。もし本当の名前を言わなかったら……」
コッポはひくっと息を引き
どうしようか真剣に迷った様子で目を泳がせる。
しかし、やがてその瞳には復讐心にも似たじっとりとした暗い情念が宿りはじめた。
長いあいだ理不尽な力で虐げられ続けてきた者に特有の感情がここに発露したのである。
「……ブルジェロア侯爵だす。オラ達はブルジェロア侯爵にアンタを殺すよう頼まれただす。だから呪うならあの人にしてくだせえ。オラたちはただの貧乏人で、街に行ってもろくな仕事もなくて……あのブルジェロアって男に何もかも奪われて、仕方なくこんな……」
悔しさと
「そう」
偽物のレオ・バロウを演じたダルフの口からもその名前が出てきた。
傭兵をゴミ屑のように扱う貴族、ブルジェロア侯爵――。
「何をしている! 早くしねえと俺はもうお前の面倒は見ねえぞ! こっからは一人で家に帰るんだな。金もやらねえ!」
「う、うう。今すぐやりますだ! 娘さん、どうぞ、お許しくだせええ!!」
コッポは振り上げた斧を強く握りしめた。
錆のついた刃が夕日を鈍く弾く。
そして渾身の力を込めて喉元めがけて斧を叩き込んだ。
柔らかい肉にくるまれた硬い骨の芯が砕け、地面に達した刃が湿った土にめり込む感触が走った。
ビュッと赤い鮮血がしぶいて生首が宙に跳ね上がる。
「ふいいい! ついにやっちまった! やっちまっただよ!」
コッポは斧を手放すと、ガクガクと膝が震えて力が抜け、尻餅をついてしまった。
ギラスはようやく安堵の表情を浮かべて繁みの中から姿を現した。
「どんな凄腕の魔術師も首を切られちゃおしまいよ。この女ももう蘇ることはできねえ。へへ、伝説の魔術師もあっけないもんだ。しかし、こうやって近づいて見てみると、けっこう美人だったな」
ルッテの髪を掴んで生首を拾い上げ、
「ま、金さえありゃ、美人ならいくらでも街で買えるがな。ハハ、ありがとよ、お前が死んでくれたお陰で、俺様はこれから地元に帰って豪遊生活ができるんだ。感謝するぜ! クヒヒヒッ」
ギラスは今度こそ心置きなく腹の底から笑い声を上げた。
するとルッテの目がくりくりと動いた。
同時にギラスの手には黒く灼けるような未知の感触が走った。
「なっ!!」
不気味さのあまり、思わず掴んだ髪を放す。
生首がごろりと地面に転がった。
気のせいだろうか?
死んでいるはずのルッテの生首が動いた気がした。
いや、それどころかもっと奇妙なことが起きようとしていた。
今度は草に埋もれるように横たわっていたルッテの胴体がむっくりと起き上がったのだ。そして地面に落ちていた自分の生首を拾って元の位置に置いた。すると首の切断面を覆うようにミミズ腫れのような肉質のものが盛り上がってきて傷口を塞いだ。やがてその膨らみが平たくなっていくと、皮膚は完全に再生しており、傷口は跡形もなく消えていた。
いまやルッテの顔には健やかに血が通い、その肌はちょうど今が娘盛りのように美しく艶めいている。
やわらかく結ばれた口は潤んで花の蕾のようだ。
まるで何事もなかったかのように彼女は
「……そうですね、あなたの言うように、死ねるものなら死んでしまいたいと思っていますよ。そうすれば、あの世であの人の魂と再び巡り会えるかもしれないのですから」
ルッテは最後のところは独り言のように囁いた。
この光景をまざまざと目撃したギラスは、赤ん坊にまで退化してしまったように言葉でものを考えられなくなってしまった。
あり得ないことが目の前で起きたからだ。
首を切断しても生き返ってしまう人間。
いや、人間なのだろうか?
世界の摂理を破壊してしまっている。
それに彼女の胸を射貫いていたはずの矢もいつの間にか消え失せている。
彼が入念に準備してついに破壊したものはすべてが元通りになっていた。
一体何が起きたのか、もはや彼の理性では答えを見つけられない。
しかし同時に、別の何かは直観的にわかっていた。
それは、この女魔術師を自分のような卑小な存在が決して敵に回してはいけないということだ。
そもそも自分とは次元の異なる力を持った存在だったのだ。
それだけは理解した。
「う、うあ……」
ギラスは呻いた。
ルッテを殺してブルジェロア侯爵から報奨金をもらい豪遊するという彼の未来図は意識の中で儚く燃えていき、灰となった。
いまや後に残るのは神経に直接刺さるような冷たい恐怖だけだ。
いっそこのまま気を失ってしまいたいほどの激しい恐怖だった。
ギラスは身を翻して、転げるように森へ駆けだした。
すぐに無軌道な葉擦れの音が辺りの下生えから迫ってきて、ギラスの足首に何かが絡みついた。
足が引っ張られ、もつれて転倒し、景色がぐるんと一転する。
植物の
草の汁と血と毒素が混じった匂いが鼻を突いた。
足に鋭い痛みが走り、すぐにその痛みは麻痺しはじめた。
意識が遠のいていく。
「あなたは私の不老不死の秘密を知ってしまった。もしこの世界にこのような秘法があるなどと知れたら、私の他にもそれを求める新たな魔術師が現れるやもしれません。それだけは未然に防がねばなりません。私と同じ経験をしたことがない人にはわからないでしょうね。死ねないということが、どれほどの苦しみを伴うものか……それを知るのは私だけでいい」
森の中から騒々しく金属同士がかち合う音がした。
「申し訳ありません!」
ルッテの護衛をするべき王国騎士団がようやく駆けつけてきた。
騎士団長は魔法の
そして騎士団長はすぐに罪の意識から顔を歪ませた。やがてその表情は暗殺者のルッテへの襲撃を未然に防ぐことができなかった己への憤怒へと変わっていった。
「誠に申し訳ありません。我々がついていながら……」
騎士団は一斉に跪いて、ルッテに首を垂れた。
ルッテはゆっくりと首を横に振った。
「いえ、この事件に関しては私にも責があります。この湖畔で一人にして欲しいと我が
「し、しかし……」
ルッテの落ち着いた声には温かい慈悲が感じられた。
それでも騎士団長はなおも
「それに、実際のところ本当に私を殺せる人間などこのオーレンシアには一人も存在しないのですからね。こんなことを言っては身も蓋もないですが、元々私には警備の必要性すらもないのです」
ルッテは自嘲気味に言った。
彼女は国に守られている存在ではなく、彼女がこのオーレンシアを守っているのだ。
騎士団長はどう返事をすればよいのかわからず、ただルッテの顔を見つめることしかできなかった。
落ち着いた言動をしているが、この湖でルッテの心の中に何かがあったのは間違いない。
そんな気がする。
あれは怒りの表情ではない。
悔しさも恨みも感じられない。
そんなものはもうとっくに超越しているような表情に見える。
なんと、なんと、深く、哀切に濡れた、孤独そうな瞳をされているのだろうか――。
やがてルッテはいつもの事務的な調子に戻って告げた。
「この二人の罪人を捕らえて、ウィッテン城に連れて行きなさい。処遇は後で伝えます」
「はは!」
騎士団長は深く頭を下げた。
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