第5話 最強の“幼馴染み役”シュナ登場!



ルーニャが立ち去った後、レオ・バロウは改めて壊れたクローゼットを眺めた。


これはこのまま放置していいのだろうか?

いざとなれば自分の手仕事で直せないこともないが……。

後でルーニャに聞いてみることにしよう。


そんなことを思いつつ、よくよく部屋の至る所を見てみると、木材の組み合わせに隙間がなかったり、金属の曲面加工の技術が非常に高かったりといったことに気づいて驚かされた。それでいて、この家はその技術の高さを誇るような素振りがあまり感じられない。


ぜひこの家を作った職人に会ってみたいものだ。

一体どのような人物なのだろう。


レオ・バロウはスライド式の窓も開けてみた。

するすると滑るようにスムーズに動く。

窓の外にはレオ・バロウが一度も見たことのない日本式の住宅街が一面に広がっていた。


「なんと見事な景色か」


思わず感嘆が漏れる。

空は青く、白い雲が浮かんでいた。

地平線を探すと、戸建て住宅の屋根やビルの平屋根が遠く山の裾まで連なっていた。

日本の現代的な街を知らない彼にとって、木材や石の代わりにコンクリートやプラスチックが用いられていたり、馬車の代わりに自動車が走ったりしていたりと、未知の情報が多すぎて一度に捉えきれない。


レオ・バロウは改めて深い溜息をついた。


ああ、ルッテと一緒にこの風景を見たかったものだ。

きっと俺と同じようにあいつもこの景色を見て息を飲むに違いない。

驚くルッテの表情が目に浮かぶようだ。

どこへ旅するときもそうだった。

いつも俺の横には必ずルッテがいた。

同じものを見て同じ感想を思い浮かべてくれるただ一人の女性。

ルッテ……。

ルッテ……。

まだまだお前と冒険を続けたかった。

いつまでも、どこまでも……。

いや、俺は……。


レオ・バロウは窓を閉めて、階段を降りていった。



◇◇◇◇◇


キッチンではエプロンをつけたルーニャが味噌汁を温めていた。

そこへレオ・バロウが降りてくる。


「もうちょっと待ってね、お兄ちゃん。いま温めてるから」


んふふ♪

鼻歌を歌いながらお玉で汁をかき混ぜる。


「あくまで俺の妹だという“設定”を押し通すつもりなのだな」


「別に本物の妹だと思っていいんだよ? お兄ちゃん」


ルーニャはどこまで本気で言っているのかわからない笑みを浮かべた。

レオ・バロウは苦笑する。

だがすぐにダイニングテーブルの上に並んだサラダ、目玉焼き、白米、焼き鮭、漬物に目を奪われた。


「これは見事な朝食だな!」


レオ・バロウはそれから思案顔になった。


「見たところ、このあたりには鳥も魚もいるようだな。そうであろう?」


「え? そりゃ鳥も魚もいるけど……」


「やはりそうか! ルーニャ、良い狩り場があるなら俺にも教えてくれないか。何でも捕まえてくるぞ!」


レオバローは運動の準備をするときのように肩をぐるぐると回し始めた。


「え?」


「できれば弓でもあると有り難いのだがな。なければそこらにあるもので作るしかないが……」


レオ・バロウは視線を巡らせて、室内に飾られた観葉植物の蔓やキッチンの奥に立てかけられた竹製のほうきの柄をチラチラと物色する。


「ちょ、お兄ちゃん、狩りなんてしなくていいよ!? 肉も野菜も普通にスーパーに売ってるからね!」


「スーパー? なんだそれは?」


「ああもう、とにかくここでの生活はお兄ちゃんが昔暮らしていたオーレンシアとは違うの! さ、とりあえず椅子に座って!」


ルーニャがレオ・バロウを席に座らせると、温めた味噌汁の鍋を持ってきて、彼のお椀によそった。

発酵した豆の香ばしい匂いが彼の鼻腔をくすぐる。


「うむ。これはいい匂いだな!」


「でしょ? 食事のことはこれから何も心配しなくていいからね。それよりお兄ちゃんは、まず学校に通ってこの地獄の仕組みについて勉強しようね。いい?」


「う、うむ、わかった。俺はまだここへ来たばかりで知らないことばかりだからな。一から色々と教えてもらえるのは有り難いことだ。しかし、こちらへ来てから一方的に施しばかりを受けるというのはどうも腰が落ち着かぬ」


「それでいいの! お兄ちゃん死ぬ前は英雄として頑張ったんでしょ? だからお兄ちゃんは、もう何も頑張ったり疲れるようなことはしなくていいの。ゆっくりとこの家で魂を癒やしてね。この家にいる間はお兄ちゃんはひたすら妹の私に甘やかされればいいの。欲しいものは何でも妹の私が買ってあげるし、家事も全部妹である私がしてあげる! 私が何でも、どんなこでも、お兄ちゃんのためならしてあげる。だから……お兄ちゃんは……」


「ルーニャ! それは困るぞ」


「え?」


レオ・バロウはルーニャの両肩をがしっと掴んだ。


「俺は自分だけ何もしないというのが一番の苦痛なのだ!!」


ピンポーン。


二人の口論が今にも始まろうかとしたそのとき、インターホンの音が鳴った。

さっとレオ・バロウは立ち上がった。


「今のは何の音だ!? まさか蛮族の襲来か? 相手は何人だ!?」


レオ・バロウは口をつぐんで耳を澄ませ、瞳をぎょろりと巡らせた。

とっさに椅子を掴んで、いつでも投げつけられるような体勢になっている。


「ちょ、お兄ちゃん! 今のインターホンは戦いの合図じゃないからね! ただの来客の合図だから! 」


ルーニャは慌ててレオ・バロウを制止した。


「……そ、そうなのか?」


「ここは平和な世界だからお兄ちゃんは誰とも戦わなくていいの! 安心してゆっくり休んでていいの! わかった? 訪ねてきたのは私のお友達だから心配しないでね!」


「そ、そうなのか。ここは、戦いのない平和な世界なのだな……」


ちょっと気落ちしたかのようにも見えるレオ・バロウであった。

しかしルーニャは構わず居間から出て玄関へ向かった。


「ったく、シュナのやつ、せっかくお兄ちゃんと二人っきりの時間だったのに……ちょっとばかし来るのが早くない?」


ぶつくさと独り言をつぶやきながら、ドアを開いた……

その瞬間である。


ドンッ!


深く鳩尾みぞおちに食い込む烈しい蹴りが、ルーニャの身体を弾き飛ばした。

まるで大型トラックに撥ねられたかようにルーニャの身体は宙を飛び、居間の壁をぶち破って、レオ・バロウの目の前に転がり倒れ込んだ。


「おいルーニャ、大丈夫か!? やはり蛮族の襲来ではないのか??」


「へ、平気だよ、このくらい大丈夫。お兄ちゃんは心配しなくて大丈夫だから。ホント朝っぱらから、随分なご挨拶だよね!」


パラパラと壊れた壁の破片が落ちてくるのを振り払って、ルーニャはすくっと立ち上がる。

見たところ流血などはしていないようだ。

なかなか頑丈な肉体である。


玄関からは、朝の眩しい陽光を背にして制服姿の少女がそのシルエットを際立たせていた。

風になびいた金髪ポニーテールがキラキラと輝いている。

顔立ちはシュッと整っている。

背丈はルーニャとあまり変わらないが、ルーニャよりもスリムで、スポーツに向いていそうな体型だ。


「よう、お二人さん。おはよう♪」


少女は不敵な笑みを浮かべながらルーニャを見下ろそうとする。

だが身長が同じくらいなので結果的に無理にあごを持ち上げている状態になっている。

少女はちらりとレオ・バロウのほうに目を向けた。


「学校へ行くんだろう? “いつものように”迎えに来てやったぜ」


「それは俺に言っているのか?」


レオ・バロウは警戒心のこもった声で言った。


「アタシの名はシュナ。隣の家に住んでいるお前の“幼馴染み”のシュナだ。よろしくな!」


「俺の“幼馴染み”だと? 初めて会う顔だと思うが?」


そう言われること想定していたかのように少女は小さく頷いた。


「だな! アタシもそう思うぜ。でも、この世界ではアタシとお前は“幼馴染み”ってことになってるんだ。だから、これからはちゃんとアタシと幼馴染みらしくしろよ!」


ニッと明るく口角を上げるシュナの笑顔には邪気がなかった。


「……つまり、お前が俺の“幼馴染み”だというのは、ルーニャが俺の妹であるというのと同じように、この世界特有の“設定”というやつなのか? どうも俺にはよくわからんのだが……」


レオ・バロウは困惑の表情を浮かべる。


「ま、そんなに深く考えることはないさ。それより、アタシはとりあえずお前の“幼馴染み”として、お前を救うために来たってわけ。今はそれだけはわかってくれればオッケー!」


「俺を、救う?」


すかさずルーニャが前に進み出て横槍を入れてきた。


「あら、お兄ちゃんがいったいどんなピンチだというの?」


「決まっているだろ? お前みたいな面倒くさい女につきまとわれて、さぞ困っているだろうと思ってさ」


「この善良な妹である私がお兄ちゃんにどんな悪いことをするっていうの?」


「おい、コイツから何かいかがわしいことはされなかったか?」


シュナにそう聞かれて、レオ・バロウは答えた。


「ふむ。いかがわしいことと言えば、寝起き早々に俺のベッドに潜り込んできて、添い寝をしようと……」


「ほら見ろ!」


ルーニャは顔を赤らめて両腕をブンブンと振った。


「ちょ、お兄ちゃん! それは兄妹として普通のスキンシップでしょ! ちっともいかがわしくないと思うな! むしろこの世で最も善良な行いだと思うよ??」


シュナはダンッと床を踏みしだいた。


「油断するなよ、レオ! この女はすぐに口で誤魔化そうとするんだ。でも信じちゃダメだぞ。こいつは自分の欲望のためなら平気で他人をだまくらかして利用しようとする悪い奴なんだ!」


ルーニャはすかさず反論する。


「別に私が一方的に利用しているわけじゃないし。私とお兄ちゃんはむしろウィンウィンの関係なの。なんの問題があるのかわからないわ」


「お前のやることはどうせみんな悪いことに決まってんだよ。いちいち証明する必要なんてない!」


シュナが爪がしゅっと鋭く伸びた。

レオバローは目をみはった。

どうやら彼女はただの人間ではないようだ。

さらにシュナの頭部からはぴょこっと尖った耳が生えて、制服のスカートの下からはもこもこの尻尾が突き出た。

ルーニャはクスッと笑った。


「あら、もう正体を明かしちゃうつもり? ずっと人間の姿でいれば良かったのに。お狐ちゃん」


尖った狐耳をぴょこぴょこさせながらシュナは八重歯を覗かせて笑みを浮かべた。


「能力の出し惜しみなんてアタシらしくないからな!」


「ホント単純なんだから。私だったらもっとタイミングを選ぶのに」


「これがアタシのやり方さ。変な回り道はしねえ」


シュナは爪先をルーニャに向けたまま飛びかかった。


「だからっていきなりそれはないんじゃない?」


「お前の思い通りにならなきゃアタシはそれでいいのさ。そのためにレオの“幼馴染み”になったんだからな!」


「あら、それこそ不純な動機ってやつじゃない? 私はちゃんとお兄ちゃんと心から愛している。それなのに、アンタは人様の足を引っ張ることほうに一生懸命だなんて、心が歪んでいるんじゃない?」


ルーニャはシュナの攻撃をかわしながら、キッチンの方へ後退する。


「出会ったばかりなのに、よく愛してるだなんて言えるな。そういうところが嫌いなんだ。アタシはこれっぽちも歪んでなんかいない。今のアタシを動かしているのはただの純粋な正義の心だ!」


目にも留まらぬスピードでシュナの爪の切っ先がルーニャの顔に迫る。

ルーニャは素早く反応し、フライパンを掴んでシュナの一撃を弾き、右手に隠し持っていたお玉で牽制する。


「くっ、武器を使うのかよ!」


シュナは後ろに飛びすさって、体勢を整え直し、攻めあぐねるように体を揺らした。


「フフ、相変わらず力で押し切ろうとするだけなんだから、進歩がないね」


「卑怯だぞ、武器なんて捨ててかかってこいよ!」


「でもそっちは長い爪があるじゃない。それに身体能力に優れた妖狐ようこを相手に人間の私が武器を持つことは別に卑怯だとは思わないけど?」


「くそっ」


ルーニャはお玉をブルンブルンと振り回して攻撃のリーチの長さを見せつけた。

レオ・バロウは少し呆れた顔つきになって、両者の間に入った。


「お前たち、まだここで喧嘩を続けるつもりか? この調子じゃこの家がもっと壊れることになるぞ。この立派な家を建ててくれた職人たちに申し訳ないと思わないのか?」


二人はそう言われても向き合ったまま闘志をメラメラと燃やしている。


「お兄ちゃんはいいから黙ってて!」


「レオ、邪魔をすんじゃねえ! その女とアタシは因縁があるんだ!」


レオ・バロウは腕組みをして天井を見つめた。


「天使ルルリエよ! 俺の声が聞こえるか!?」


その瞬間、二人は何かに弾かれたかのようにビクッと体を震わせた。

それから姿勢を崩してそわそわと周囲に視線を巡らせる。


「びっくりさせないでよ。本当に天使がいるかと思ったじゃん!」


「お、おい、ビビらせんなよ。ここは地獄だぜ? 天使なんかがくるわけないだろ?」


「そうだよ。いくらお兄ちゃんが生前に大英雄と呼ばれる程の存在だったとは言え、そんな気軽に天界から天使を地獄に呼び出せるはずないじゃん。ましてや、大天使ルルリエだなんて、この教養深き私ですら書物の中でしか存在を知らない、最高位の天使なんだよ。そんな超偉い天使様がこんな場所に現れるわけが……」


突如として居間が白い光に包まれた。

そして何もない宙空に忽然と天使ルルリエが現れた。


「呼びましたか? レオ・バロウ」


「おう、やはり見ていたのだな、天使ルルリエ!」


ルーニャとシュナは目を剥いた。


「はああああ!?」

「ふえええ!!」


見たこともない神々しいオーラを纏った白い衣の美女だった。

それが当たり前のように目の前にいる。

背中には美しい白い羽が生えていた。

頭上には眩しいほどに輝く光輪。

間違いない。天使である。

しかも最高位の天使に特有の凄まじい霊圧のために、二人はその姿を長く直視することもできなかった。

天使ルルリエは二人の少女を無視してレオ・バロウだけを見つめる。


「何かわからないことでもありましたか?」


「わからないといえばわからないことだらけだが、それはまあいいとして、実はこの者達の喧嘩を止めようと思ったのだ。しかし俺はまだこの世界での力加減というものを知らん。もし取り返しのつかないことになったら困ると思ってな」


「なるほど。そういうことであれば、心配は無用ですよ。冥界ではこのような喧嘩など日常茶飯事です。そして両者がどれほど殴り合い、傷つけ合ったところで、どちらかが死んで戦いが終わるということはありません。なぜなら両者ともすでに死んでいる同士だからです。確かに肉体は一時的に破壊されるかもしれませんが、時間が経てば勝手に元に戻ります。誰も死んだ人間をそれ以上さらに殺すということはできないのです。それが冥界という場所です」


「なるほど、そういうものか。では、力加減に関しては別に遠慮はしなくてもよいということだな。それは了解した。だが、喧嘩を仲裁するにしてもどちらに味方をしたものかな……。俺は二人の事情をよく知っているわけではないからな」


レオ・バロウは腕組みをして、ルーニャとシュナを交互に見つめた。

二人とも目を輝かせて正しいのは自分のほうだと仕草と表情で訴えた。

天使ルルリエは小首を傾げた。


「別にどちらにも味方しなくて構わないと思いますが。もともとこの者たちは、天界へ行くことのできなかった不完全な魂たちです。前世において遙かに高い徳を積んだ貴方がわざわざこのような者たちに手を貸してやる必要はありません」


「この二人が……不完全な魂?」


「その意味はいずれわかるでしょう。とりあえず今は傍観者で結構です。ですが、もし見込みがあると思えば、彼女たちをより高い精神位階せいしんいかいへと導いておやりなさい。そうすればいつか天界に連れて行ってやることもできるはずです」


「俺が精神位階せいしんいかいに導く? またよくわからん冥界用語が出てきたな。とりあえず俺は目の前で喧嘩が起きているなら、それを放っておくのは性に合わんので止めることにするぞ」


「そういうときは遠慮なく私を呼べばよいのですよ、レオ・バロウ。彼女たちの振るまいが目に余るようでしたら、私がちょっとしたお仕置きくらいしておきましょう」


天使ルルリエは返答を待たずに両手を上に掲げた。

やがてゴゴゴという轟音が遠くから響いてきたかと思うと、天使ルルリエが高らかに唱えた。


「愚かなる魂よ、身の程をわきまえよ!」


ズドオオォォン!!


天が割れるかのような巨大な炸裂音が響き渡った。


「キャアアア!」

「ウギャアア!」


次の瞬間にはこの家の二階が木っ端微塵に吹き飛んでいた。

聖白の稲妻がルーニャとシュナに直撃している。

二人の体から蛇のように放電した幾筋の電気の尾が伸びていき繋がったり離れたりしながらビリビリと弾けた。

ルーニャは腰をひくつかせ、身を反り返らせた。豊かな胸の円い膨らみは微細に振動しながらはち切れそうになっている。

シュナは帯電したモフモフの毛がピンと逆立って、溺れたように手足を震わせた。大きく開いた瞳の色が明滅し、舌がとぅるんと跳ねる。


「フギャアア!!」

「お、お仕置きってレベルじゃねーぞ!うひゃああ!」


天使ルルリエは不可思議な力で宙に浮いたまま、落ち着き払った声で言った。


「ルーニャ、シュナ、あまりレオ・バロウを困らせるのではないですよ。彼とは生前に積み上げた徳の高さが貴女たちとはまるで違うのです。少しはわきまえなさい」


「は、はひ……」

「ふひ……ひゃ」


電撃が終わると二人は力尽きて床に突っ伏した。

天使ルルリエはレオ・バロウのほうに向き直る。


「さあ、他に困ったことは何かありませんか?」


「う、うむ。とりあえずは大丈夫だ。わからないことは他にもあるが、これから学校というところへ行けば一から教えてもらえるようだからな。まずはそこでここでの生活について学ぶつもりだ」


「ええ、それがいいでしょう。最初は慣れないことも多いと思いますが焦ることはありませんよ。学校での生活はきっと貴方にとって有意義なものとなるでしょう」


「うむ。そうであってほしいと思っている」


天使ルルリエは羽をパタパタと動かしたまま、何か物欲しそうな顔つきでレオ・バロウをまだ見ている。


「そういえばレオ・バロウ、身体一つで冥界へやって来て少し寂しいのではありませんか。何か欲しいアイテムはあったりしますか? 貴方が昔生活していたオーレンシアで使っていたアイテムをここに取り寄せるくらいならできますよ。私の奇跡の力ホーリースペルを使えば……」


「おお、それは有り難い! ルルリエはそんなこともできるのか」


「その程度のことであればお安いご用ですよ」


「ふむ……だが今すぐにこれというのは思いつかぬ!」


「そうですか。では、何か思いついたらまた私を呼ぶのですよ?」


「うむ、そうすることにしよう!」


「気軽に呼んでいいですからね?」


「うむ!」


天使ルルリエはようやく納得したように頷いた。

するとまた白い光が部屋を満たして、気がつくと忽然とその姿を消していた。


ルーニャとシュナはようやく体の痺れが消えて、起き上がることができた。


「ひえー、とんでもない目に遭った!」


「あんな強烈な電撃は初めてだ……」


よほど身に応えたのだろう。

二人ともすっかりこれまでの殺気が霧散していた。


「ね、ねえ、お兄ちゃん?」


「なんだ」


「お兄ちゃん、随分とあの大天使様と仲が良さそうだったけど、ひょっとしてもうあの天使といい感じの仲に……」


「ははは。それはない!」


レオ・バロウはすぐにルーニャの疑惑を笑殺した。


「人間と天使はそもそも決してパートナーになれないらしいぞ。俺もそのことを知り、天使をパートナーに選ぶなどという非常識なことを口にすることは絶対にしないと、あの天使ルルリエの前で誓った。だからそんなことは絶対にありえない!」


ルーニャの瞳に少しずつ光が戻り始めた。


つまり、あの大天使ルルリエはレフリーみたいなものね!

あの超越的な美貌にはさすがの私も度肝を抜かれたけど、立場的に私のライバルというわけではないなら一安心ね。

まあ、常に天使に監視されていると思うとやりにくくはあるけれど。

となると当面の邪魔者はシュナだけ……。


ルーニャはさっと狐耳の少女に視線を向ける。


「レオ、お前すごいな! あんなつえー天使と対等に話せるなんてよ!」


シュナは素直な感動をそのまま表情にして、レオ・バロウに駆け寄った。


「びっくりしたぜ!」


「そんなにびっくりすることか?」


「当たり前だろ! めちゃめちゃすごいって!」


「ほんと語彙力がないわね」


ルーニャがシュナを小馬鹿にした。


「んだと、このバカ女!」


すかさずシュナがまた噛みつくような目つきになる。


「待て待て」


ところがレオ・バロウが間に入ると、さっきとは打って変わって、二人ともすぐに大人しくなる。

また天使ルルリエを呼ばれたら厄介だと思っているのだろう。


「そもそもお前たちはどうしてそんなに仲が悪いのだ?」


レオ・バロウは子供の喧嘩を諭す先生のように二人に尋ねた。

シュナはキッと険しい目つきになった。


「アタシはこいつのせいで死んだんだよ!」


シュナは叫び声を上げた。

ルーニャは少し悲しい瞳をすると、視線を斜め下に落として口をつぐんだ。

それでもシュナは気を許す気配がない。


「アタシとルーニャはこの地獄へ来る前は同じ世界の住民だったんだ。レオのいたオーレンシアとは別の異世界で、エトラシアってところでさ」


故郷を懐かしむようにシュナの瞳が潤んだ。


「アタシはそこで妖狐ようこと言われる一族に生まれたんだ。妖狐ようこってのは魔族の血が入った一族で、もともと里の人間とは仲良くなれないはずの種族なんだ。でも生まれてすぐに不幸な事故で両親と離れ離れになってしまったアタシは、食い物も見つけられなくて、死にそうだったところを、人間に救われたんだ。その人がアタシの人間のご主人さ。ご主人はまるで本当の娘のようにアタシを育ててくれた」


シュナの声には親しみが籠もっている。


「アタシはご主人のことが大好きだった。だからもっともっとご主人以外の人間とも仲良くなりたいと思っていた。アタシは妖狐ようこだけどさ」


「ふむ」


レオ・バロウは真剣な眼差しで聞き耳を向ける。


「でも……」


シュナは俯いた。


「ルーニャと何かあったのか?」


シュナの声が一段と暗くなった。。


「ある日ご主人が病気になったんだ。だからアタシはお医者様のところに行ったんだ。そのお医者様の家の娘がルーニャだった。ルーニャのお父上は偉いお医者様で、ご主人の病気を治すにはエトラシアの北にあるゼトナ山の霊泉に行かなくちゃいけないって教えてくれたんだ。だからアタシはすぐにゼトナ山に向かった。でも、アタシがその霊泉に来たときにはなぜか泉の水が涸れていたんだ。アタシはどうすればいいのかわからなくて途方に暮れた。そしたらルーニャがやって来て、霊泉を復活させるには東の祠に行って山神様にお供え物をすればいいって教えてくれたんだ。アタシはもちろんその言葉を信じた。だってルーニャは偉いお医者様の家の娘だもん。きっとお父上からの言づてだと思ったんだ。それなのに……」


シュナは悔しそうに握りしめた拳を振るわせた。


「東には山神様の祠なんて最初からなかった。そこにあったのは狂暴なドラゴンの巣さ。いくら妖狐ようこのアタシでもドラゴン相手には叶わない。アタシはそいつに襲われて死んだんだ!」


レオ・バロウはルーニャに視線を向けた。

口の達者なルーニャなら何か反論するのかと思ったが、意外にもただふてくされたように黙り込んだまま佇んでいるばかりだった。

シュナは構わず言葉を続ける。


「アタシはドラゴンに喰われて死んだ。せっかくアタシの命を救ってくれたご主人への恩義を返せると思ったのにさ。だから冥界に来てからアタシは閻魔様にそのことが悔しくてたまらないって必死に訴えたんだ。そしたら閻魔様はアタシに真実を教えてくれた。ルーニャはわざとアタシに嘘をついたってことを。閻魔様には何もかもお見通しなんだ。霊泉を涸らした張本人もルーニャだったってことまで教えてくれたぜ。アタシにはそれが理解できなかった。どうしてルーニャがそんな悪いことをしようと考えたのか、どうしてそんな酷いことができるのか、アタシには全然理解できねえ!」


ルーニャはやはり何も言い返さない。


「アタシが死んだ後、向こうの世界で何があったのかは知らない……でも、しばらくしたらルーニャも冥界にやって来たんだ。つまり、アタシが死んだ後すぐにあいつも死んだのさ! きっとアタシを騙した報いで死んだんだ! ざまーみろ!」


シュナは吐き捨てるように言った。

ルーニャはただただ悲しげな伏し目でシュナの言葉に耐えている。

レオ・バロウはじっとシュナを見据えた。


「だからお前はルーニャのことが嫌いなのだな?」


「そうさ。嫌いさ! 大っ嫌いだ!!」


シュナの凍てつくような鋭い眼差しがレオ・バロウを射貫こうとした。


「……だからお前は苦しいのだな?」


だが返ってきたのは柔和な太い声だった。

レオ・バロウは狼狽えることなく、じっとシュナの瞳の奥にあるものを見つめ続けていた。

シュナの顔つきが変わった。

怒りや憎しみに濁っていた瞳が、まるで生まれてきたばかりの赤子のような透明な色に澄んでいく。

レオ・バロウはゆっくりとした口調で語りかけた。


「お前は人間を大好きになりたかった。それなのにルーニャという人間の娘に騙されて、死んでしまった。そのせいでお前は人間を好きになるのが難しくなってしまった。妖狐ようこのお前にとって、人間はやっぱり好きになってはいけない存在なのではないかと思うようになってしまった。人間はみんなルーニャのように平気で嘘をつく。そういう生き物なのではないのか? そうだとは思いたくなかった。人間がみんな悪いのではなく、ルーニャだけが特別に悪いのだと思いたかった。でも、どんなにルーニャを悪い奴だと決めつけても、お前の中の人間への疑惑は消えることがない。お前のご主人はお前が魔族の血を引いた妖狐ようこであると知っていてもなお、お前を愛してくれたというのに」


シュナの瞳がまた潤んだ。

レオ・バロウはゆっくりと言葉を続ける。


「シュナ、お前は今まで本当によく頑張って耐えてきたのだろうな。妖狐ようこのお前が種族の異なる人間を好きになるというのは大変な努力が必要だったことだろう。きっとそれは人間に生まれて人間に育てられた俺やルーニャには想像もできない大変なことだったに違いない。だから一度こじれてしまったお前の心の問題が解決されることは難しいのだろう。お前の心の傷はあまりに深い。天使ルルリエがお前の魂は不完全だと言っていたのも、きっとそういう意味なのであろう」


レオ・バロウはシュナの頭にぽんと手を乗せて、ひと撫でしてやった。

さっきまで息を荒立てて怒っていたシュナが嘘のように大人しくなった。


居間には二階のすっかり吹き飛んだ青天井から明るい陽光が降り注いでいた。

壊れた壁からは心地よいそよ風が入ってくる。

辺りには不思議な沈黙が漂っていた。


やがてルーニャがお玉でフライパンをカンカンと叩いた。


「さ、昔話はそこまでよ。もう食事にしましょ。シュナ、どうせあんたもまだ食べてないんでしょ?」


幸いダイニングテーブルの上の料理だけは被害を受けていなかった。

ルーニャはテーブルの上にシュナの分のお皿も並べる。

どうやら彼女が来る前からちゃんと準備をしていたようである。


「うむ。そうだな! 俺も腹が減ったぞ!」


レオ・バロウは冒険者生活が長かったので、食事する場所はどこでも平気だ。

ルーニャもあまり気にする様子はなく、レオ・バロウの隣の席に腰を下ろして、しれっと肩が触れそうなくらい身を寄せる。

今度はシュナがしゅんとした表情でテーブルに近寄ってきた。

彼女の皿が置かれたのはレオ・バロウの向かいの席だったが、シュナはそこには座ろうとせず、レオ・バロウの首筋の匂いをすんすん嗅いでから、ちんまりとしたお尻を彼の膝の上に乗せた。

そして次の瞬間にはもう無邪気な笑顔になっていた。


「うん、なかなか座り心地のいい膝だな! 気に入ったぞ! アタシはここで食べる!」


モフモフの尻尾がレオ・バロウの顔面の前で揺れた。


「ちょっと! なに当たり前のようにお兄ちゃんの膝に乗ってるのよ! あんたの席はそこじゃないでしょ! 自分の席に行きなさいよ!」


ルーニャが文句を言った。


「アタシは狐だからいいんだよ。人間のルールなんて知らないねー!」


「こらあぁ! ちょっとお兄ちゃん! 邪魔だったらこのバカ狐殴っていいからね?」


「ハハハ。まぁよいではないか。犬なら俺も昔飼っていたぞ。狐も犬の仲間であろう? 同じようなものではないか。どれ、可愛いのう」


レオ・バロウはシュナの頭をまた撫でた。


「ええええ!? まさかお兄ちゃん、妹より犬派だったの!? 膝に乗せるなら妹でしょ? 普通、妹だよね!? それが世界の常識だよね???」


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