第3話 レオ・バロウ 若返る


天使ルルリエの立っている場所は展望テラスのような場所だった。

そして、そこには一頭立ての馬車が待機していた。

馬車と言ってもその馬には天使ルルリエと同じように白い羽が生えている。


「オーレンシアでは見たことのない馬だ」


物珍しそうにレオ・バロウが言った。


「ペガサスというのですよ」


「ふうむ」


「ここは冥界ですから、貴方の目には珍しいものばかりでしょう」


微笑を浮かべながら天使ルルリエは手を差しのべた。

その優雅な手の動きに誘われるまま、レオ・バロウは馬車の中に乗り込んだ。

天使ルルリエもレオ・バロウの隣に座る。


「ペガサス、飛びなさい」


主の命に応じてペガサスはいなないた。

少しの助走で馬車はすぐに浮き上がり、まるで宙空に透明の道でもあるかのように車輪が滑り出す。


「これは驚いた! 本当に空が飛べるのか!」


田舎者のようにレオ・バロウは声を上げた。

見上げると空は厚い灰色の雲に覆われ、どんよりとしていた。

眼下には大きな活火山が口を開けている。

大地の割れ目からごぼごぼと熱いマグマを噴出させているのがおどろどろしい。

さすがは地獄といったところだろうか。

上空を飛びでもしないかぎり、この火山地帯を歩いて越えていくことは不可能だろう。

見慣れぬ不毛の世界を眺めているうちに、レオ・バロウは心細くなった。


ああ、せめてルッテが共にいてくれたなら……。

偉大なる大魔法使いにして、我が愛するただ一人の女性、ルッテ・フィオーナ。

その優しい顔が思い起こされた。

白い開襟ブラウスの上に黒いロングカーディガンを羽織って、つばの広い帽子を被ったルッテ。

手入れの行き届いた柔らかい髪は肩の辺りでゆるく波打ち浪漫的な光に艶めいている。

しっとりとした長い睫毛に縁取られた深いすみれ色の瞳は霊泉のように潤い、いくぶん物悲しげな表情を浮かべながらも、レオ・バロウを見つめるその真っ直ぐな眼差しにはいつも信頼の炎が燃えていた。

彼女との旅は長いものだったが、笑うといつも、旅を始めたばかりの頃のような少女のあどけなさを残していているのを彼は見つけるのだった。


レオ・バロウが過去の思い出に浸っていると、まるで彼の心を見透かしたように天使ルルリエは言った。


「レオ・バロウ、新しいパートナーを見つけてはどうですか?」


凜とした表情には潔癖さと冷たさが感じられる。


「地獄の管理者グルガンも申していたでしょう。貴方の本来行くべきところは天界なのです。貴方はオーレンシアで偉大な功績を残した大英雄。天界でも最上位の土地が与えられることが約束されています。ですから、まずはパートナーを……」


「わからぬ。なぜ俺を真っ直ぐにその天界に連れて行ってはくれないのだ?」


「連れて行くことができない事情があるのです」


「なんなのだ、その事情というのは。冥界というところはよくわからぬ」


「まあ、しばらくは『エロエロ地獄』で生活をしてみることです。そのうち貴方と気の合うパートナーも見つかるでしょう」


「そんな相手を見つけて俺にどうしろというのだ?」


「その相手と愛の契りを交わし、天界へ連れて行くと良いでしょう。天界には貴方の一番大好きな人がいなければなりません。孤独のままの魂では、たとえ他の方法でどのように大きな徳を積んだとしても、天界へ踏み入ることはできないのですよ」


レオ・バロウは難しい表情を浮かべた。

そして天使ルルリエに問うた。


「つまり、天界へ行くには『パートナー』というのがおれば良いのだな? それは例えば、ルルリエ、貴女でも良いのか?」


馬車が急に停止した。


天使ルルリエは背中の羽を大きく広げて遥か上空に舞い上がったかと思うと、両手を天に掲げて叫んだ。


「身の程を知れ! 人間風情が!!」


灰色の雲が突如激しく光りだし、レオ・バロウの体に強力な稲妻が直撃した。


「ぐはああっ!」


ビリビリとした紫電が体内を縦横に駆け抜け、彼は絶叫する。

生前の世界であればとっくに意識を失い絶命しているであろう一撃である。

だが、冥界ではどんなに強い痛みを感じても肉体が物理的に滅びることはない。

意識はずっと残されたまま、光が影を殺し続けるような聖絶せいぜつなダメージを負い続けなくてはならないのだ。

「死」という終わりがないところに冥界の恐ろしさがある。

レオ・バロウは全身をいかずちに焼かれながら苦しみ悶えた。


「ぐおおおおおおおお!!!」


「分をわきまえるがいい!」


天使ルルリエはレオ・バロウの目前に舞い降りた。

その美しさは、天使という存在の本質が人間とはそもそも異なることを直観させるのに十分なものだった。

まさに絶天使!!

天使ルルリエの頭上には完璧な円形をした天光の輪が発光している。

白く映える雪肌は傷一つなくなめらかできらきらとしており、潤みを含んでいるようにも見える。生前の世では一度も見たことのない超上質の質感の肌だ。

にゅっと突き出たふくよかな胸の膨らみはきよらかに、耳も鼻も愛らしく、どの角度から見ても、厭らしさが全く感じられない完成された美観!

すぼめた口は麗しき花のつぼみのよう。

そして全てを見通すような圧倒的な瞳の力。

ルルリエという存在自体が周囲の空間まで無尽蔵に光り輝かせているかのように感じられる。

その美しき天使が今はレオ・バロウに激昂していた。


「天使と人間が愛を交わすなど、ありえぬわ!」


「わ、わかった! よくわかった!!」


レオ・バロウは身を投げ出すように頭を垂れて激痛に耐えながら天使ルルリエに申し開きをした。


「すまなかった! なにぶん、まだ冥界へ来て間もないものでな。こちらの事情には疎いのだ。どうか先ほどの俺の失言を許して欲しい。この通りだ、天使ルルリエ!」


ふっと表情を和ませると、天使ルルリエは峻烈な稲妻の一撃をピタリと止めて、再び穏やかな微笑を浮かべはじめた。


「よろしい」


天使ルルリエはレオ・バロウの額に手をかざした。

途端にレオ・バロウを苦しめていた痛みは一瞬で消え去った。

いかずちに焼かれて煙を上げていた体も、まるで何事もなかったかのように元通りになっている。


「こ、これは……?」


不思議そうに自らの肉体の蘇生を目撃するレオ・バロウを、天使ルルリエは悠然と見下ろした。


「素直に己の過ちを認めることは貴方の美徳です、大英雄レオ・バロウ。その素直さに免じて今回だけは許してあげましょう。しかし、たとえ冗談であっても人間の貴方が天使をパートナーに選びたいなどというふざけた申し出は二度とせぬように!」


「うむ。心得たぞ!」


「貴方は人であり、私は天使なのです! 本来ならば、この姿を人に見せることすら憚られるのですよ。貴方が英雄だからこその特別待遇なのだと知りなさい!」


「うむ。それは知らなかったが、もう心得たから大丈夫だ! 天使ルルリエ、わざわざ俺のためにありがとう。そして、二度と貴女を俺のパートナーに誘うようなことはしないと誓う!」


天使ルルリエはレオ・バロウの顔を見つめて頷きながらも、なんとも言えない微妙な表情を浮かべた。


レオ・バロウはただ無骨なだけの男ではない。

内に秘めたこの男にしか出せない独特の表情や声がある。

それらに触れていると、まだ出会ったばかりなのに不思議な懐かしさのようなものが胸に込み上げてくる。

一千世界の趨勢すうせいを見届けてきた大天使であっても、初めて感じるような妙に胸をくすぐる情緒がこの男の纏う雰囲気にはあるのだ。

無性に人恋しさが募ってくるような……。

なんなのだ? この感情は――。


天使ルルリエはその天使らしからぬ気持ちを押し込めるように口をつぐみ、再びペガサスに馬車を進ませるように命じた。

しかし、しばらくするとまたレオ・バロウの横顔に話しかけていた。


「他に何か冥界のことでわからないことはありませんか? 私でよければ答えましょう、レオ・バロウ」


天使ルルリエの声はいつしか砕けたトーンに変わっていた。

するとレオ・バロウもすっかり気を許したような表情になった。


「いやぁ、わからないことだらけで何を質問すればよいのかもわからんのだよ……」


「まあ、それもそうでしょうね。もし『エロエロ地獄』での新生活で何か困ったことがあれば、その時はすぐに私を呼ぶのですよ。私が貴方の後見役なのですから」


「おお、それは心強い! では、よろしく頼む、天使ルルリエ! 貴女がいれば新生活にも不安を感じないぞ」


レオ・バロウは先ほどの凄惨な一幕などもうとっくに忘れてしまったかのように快活な笑顔で返事をした。

まるで天使ルルリエを古くからの友人であると思ってでもいるかのように。

だがそれは世間知らずな田舎者の愚鈍さとは違う。

その屈託ない振る舞いの奥には、生前に英雄として数々の壮絶な冒険を乗り越えてきた男の経験から来る知恵の裏付けが確かにある。

人懐っこい優しさや鷹揚さだけでなく、修羅場慣れした強さもこの男の中には同居しているのだろう。

彼の声の響きを聴けば天使あでるルルリエにはそれがわかるのだ。

その雰囲気はそばにいる者の心を不思議とほっとさせる。


あれほどの苦痛を与えられておりながら、今は一転してこの晴れた空のような態度よ。

この男の度量は底が知れぬな……。


天使ルルリエはその大英雄の笑顔にむしろ思慮深い顔つきになって、再び口をつぐんだ。


しばらくすると、ペガサスの馬車は高く聳える山岳地帯に差しかかり、高度を下げていった。

レオ・バロウは大きく首を巡らせた。

人家のような構造物は一軒も見当たらなかった。

目に入るのは草木も生えない険しい裸の岩山ばかりである。

しかし、突如としてその山合いに高さ百メートル以上はありそうな巨大な門が姿を現した。

とても人力で動かせるような大きさではないのは見て明らかである。


「さあ着きましたよ。ここが『エロエロ地獄』の入口です」


天使ルルリエがそう告げると、まるで柔らかいクッションがそこに敷かれてでもいたかのようにふんわりと馬車が地面に着地した。


門を真下から見上げると、ますますその大きさが途方もないものに感じられる。


レオ・バロウは馬車から降りようとした。

すると、天使ルルリエが彼を呼び止めた。


「待ちなさい。そのままの格好で行くつもりですか?」


「何か問題でも?」


「せめて仮の肉体だけでも、昔の姿に戻してあげましょう」


天使ルルリエはレオ・バロウの額に指先で触れた。

冷んやりとした心地よい指先だ。

彼の肉体は淡い光りに包まれて、急速に若返り始めた。

内臓や骨格の位置がずれていくのを感じる。

やがて肉体の芯のほうから若々しい精力が漲ってきて、強張っていた筋肉が弾力のあるものなった。

素肌を洗う大気の流れも新鮮で心地よいものに感じる。


「おい、俺の腕の怪我が治っているぞ!」


彼が巨大台風からオーレンシアの避難民125万人を救ったときに負った傷だ。

レオ・バロウはその右腕を軽やかに動かしてみせた。

すっかり健康な十代の青年の顔つきである。


「ふふ。レオ・バロウ、爽やかになりましたね。良いパートナーを見つけるのですよ……貴方のパートナーは一体誰になるのでしょう……」


天使ルルリエは微笑みながら小さな声で何かを唱えた。

するとレオ・バロウの意識が急速に薄れはじめた。


「こ、今度はなんだ!? この世界では不思議なことばかりが起きるな」


「目が覚めれば、そこはもう『エロエロ地獄』ですよ」


まどろみの中でレオ・バロウはゆっくりと巨大な門が開かれていくのを目にした――。


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