第154話 本能による条件反射

 それよりほんの少し前の事。


 ――ピチョン……ピチョン……。


 電灯一つ灯らぬ暗いバスルーム。

 暗闇の中に響くのは、シャワーのノズルよりだらしなくしたたりおちる水滴の音だけ。


 いや、そうではない。

 微かではあるが、ベッドルームからは規則正しい男の息遣いに合わせて、時折白々しい女の嬌声が聞こえて来る。

 しかし、にとってそれは些細ささいな事でしか無かった。


 バスタブに張られた水。

 その中へ深々と己が身を浸して行く彼。


 何も見えない。

 何も聞こえない。

 何も感じない。

 深いの世界。


 にもかかわらず。

 彼の五感は研ぎ澄まされ。

 隣の部屋で起きている事象を手に取るように感じる事が出来るのだ。


 知識は……あった。

 この世界のものとは思えない記憶。

 神として崇められ、都市を、砂漠を、迷宮を。

 信頼できる仲間たちと踏破する。

 そんな、いにしえの記憶。


 しかし、それは彼にとって壁面に描き綴られた、フレスコ画のようにしか感じられない。


 唯一、実体験として思い起こされるのは。

 燃え盛る炎の中、淡い粗末なローブを纏う女性に抱きかかえられ、群衆とともに逃げ惑う哀れな姿。

 やがて、暗闇の回廊を抜けたその先では……。


 ――ピクッ


 彼の右のまぶたが微かに……揺れた。


 己が記憶の深淵を探る旅の途中。

 彼の思考を遮るのは、己が脳へと直接働きかけて来る、ある言葉。


『これ以上変な事したら、ブッ殺すよ!』


 ある程度の人生経験を積んでさえいれば。

 それは額面通りの意味では無い事ぐらい、当然理解する事も出来たであろう。 

 しかし、彼がそれを理解するには、余りにも時間が不足していた。


 その結果、彼はこの言葉を最大級の警告として捉えてしまったのである。


 ――ザバァ……。


 バスタブの縁より溢れだず大量の水。

 やがてその縁に手をかけ、慎重に己が身を起こす彼。

 ゆっくりと開き始めた両の瞳、その奥でうごめき輝くのは神の威光か、それとも悪魔がもたらす地獄の業火なのか。


「殺される前に……コロス」


 それは彼にとって論理的に紡ぎ出された結論では無く、極限にまで研ぎ澄まされた本能による反射……でしか無かった。

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