第148話 オムニバス(エピソードⅣ)the final

 深海を模した青い天井。

 壁には難破船を思わせる精巧なオブジェが埋め込まれており、その間を縫うようにして巨大なマンタが悠々と泳ぎまわっている。

 もちろん本物のマンタが部屋の中を徘徊はいかいしている訳では無く、プロジェクションマッピングによる精緻な映像ではあるのだが。


 渋谷区道玄坂の一角にある高級ラブホテル。

 アミューズメントホテルとも呼ばれるこれらのホテルでは、他ホテルとの差別化を図ろうと手を変え品を変え、創意工夫を凝らした様々な部屋が用意されている。

 その中でも特に若者たちからの支持を集めていたのが、この『深海の洞窟』と名付けられた特別ルーム。

 ただ、神秘的なネーミングとは裏腹に、部屋の中より漏れ聞こえて来るのは、他のラブホテルと同様、律動する衣擦れの音に加えて、欲情の香り漂う甘い吐息でしかなかった。


「なっ、なぁ……本番……いいだろぉ、……なぁ……なぁ!」


 部屋の中とは言え、出入り口にもほど近いその場所で、男は立ったまま年若い女を壁際に押し付け、背後よりせわしなく腰を振り続けている。

 男女双方ともに着衣したままの状態である所をみれば、部屋に入るなり辛抱堪らずに及び始めたのではないかと推測はされるのだが。


「いやぁん、すごぃぃ! でも駄目だよぉ!」


 焦り気味の男に対し、女の方はと言えば手慣れた様子で。

 時折嬌声を上げつつも、しっかりと男の欲望をコントロールしているように見える。若い見た目とは異なり、それ相応の経験を積んだ娘なのかもしれない。


「って言うかさぁ、オジサン、ちょっとガッツキすぎじゃなぁぃ?! だいたい、まだシャワーも浴びて無いしさぁ。ウチの店は本番も禁止だけど、即ハメ即尺も禁止だかんねぇ! それにさぁ、服汚したら罰金でクリーニング代、上積みされちゃうよぉ。ソコんトコちゃんと分かってるぅ?」


 壁に両手を付いたまま、苦笑いを浮かべてみせる彼女。

 マナーの悪い客と言うのは確かにいる。

 普段の彼女であれば即刻事務所に電話して、怖いお兄さんを呼び出していたに違いない。しかし、今回だけは少し事情が違っていた。


(今日の客はウチの暴力団オーナーからの紹介だから)


 出がけに聞いたマネージャの言葉が女の頭の中でリフレインする。

 ただし、マネージャはそれに加えて(特に優遇する必要も無いぞ)とも言っていたはずだ。

 だとすれば、暴力団オーナーがらみの関係者とは言え、気にするほどの重要人物でも無い……と言った程度なのだろう。

 とは言えだ。もしここで不用意に男の機嫌を損ねる事にでもなれば、何らかのペナルティが課せられる可能性も十分に考えられる。

 女はタバコ臭い男の息に辟易へきえきとしつつも、男の為すがままに身を任せるつもりでいた。そして……。


「!!」


 彼女の体にしがみ付いたまま、急に黙り込む男。

 小刻みな振動が男の手を通して彼女の腰へと伝わって来る。

 やがて、男は何事も無かったかのように女の体を解放すると、一人部屋の中央にある大きなソファーへと座り込んでしまった。


「ふぅ……」


 気付けば、タバコに火を付け、完全に賢者モードへと移行した男。

 既に男の視界に彼女の姿は入っていない。


「もぉぉ! オジサァン! 洋服汚したら罰金ってさっき言ったよねぇ! ホントにもぉ! 


 あれだけ言っておいたにもかかわらず、ルールを公然と無視する男に対し、憤懣ふんまんやる方無い女。

 いくら暴力団オーナーがらみの客だとは言え、あまりにも酷い仕打ちだ。

 女はスカートの縁に付いたを指先でしっかりと確認。

 更なる罵声を浴びせるため、大股で男の元へと歩み寄って行く。


「だいたいねぇ!」


 ――パサ……


 女が大声を張り上げようとした矢先。

 男はソファーの脇より何かを鷲掴むと、ソレを無造作にテーブルの上へと放り投げた。


「まぁまぁ、そう怒るなよぉ。ネェちゃんのケツ、結構良かったぜ。これはチップだ。取っといてくれ。それに料金とクリーニング代は別に払う。だからまぁ、機嫌直してくれや」


 咥えタバコのまま、悪びれた様子もなく謝罪の言葉を口にする男。

 本来であれば到底受け入れられないと突っぱねる場面シーンなのだが。

 しかし、それを差し引いたとしても有り余る現金ゲンナマの魅力。


 彼女にしてみれば、ほぼ何の労力も使わずに、今日の目的ノルマを達成した事になる。

 しかも、男は間違いなく彼女の体を使って訳だから、当然このチップは彼女への正当な対価であると言えなくも無い。

 よくよく考えて見れば、こんなに旨い話は無いだろう。


「さっ、先にシャワー浴びるてるし。もし……もしも二回戦目がしたくなったら、ちゃんとシャワー浴びに来てよねっ! 待ってるからねっ!」


 先程までの腹立たしさと怒りは何処へやら。

 多額のチップによる嬉しさも相まって、一風変わったツンデレのようなセリフを口にしてしまう女。

 当然、テーブル上のチップはしっかりと回収。

 更に女は軽い鼻歌を歌いながらバスルームの方へと去って行った。


 男はその様子を視界の端で捉えながらも、おもむろに胸ポケットから二本目のタバコを取り出した。

 そして、テーブルの上に置いてあった百円ライターへと手を伸ばそうとした、その時。


「キャー!!」


 バスルームより響く、うら若き女の悲鳴。

 しかし、男は気にする風もなく、二本目のタバコに火を付ける。


「ちょちょちょ! ちょっとどう言う事っ! ちょっとどう言う事なのよっ!」


 悲鳴を上げた張本人が、全裸のまま部屋の中へと駆けこんで来た。


「今バスルームに入ったら、バスタブに全然知らない人が浮いてたわよっ! 誰よアレ! 不審者!? 不審者なのっ!?」


 息せき切って話し始める女を後目に、男は火をつけたばかりのタバコをゆっくりとくゆらせる。


「すぅぅ……はぁ……。まぁまぁ。落ち着けよ」


「落ち着いてなんていられないわよ。誰よアレ! そんな落ち着いてる所をみると、あの人もアンタの仲間なのね!? って事は、これから3Pって事? 3Pって事なのっ! だとすると話が違うわよっ! 3Pは別料金なんですからねっ! って言うか、私、3PはNGなんですからねっ!」


 なおも言い募る女に対し、男は面倒臭そうに眉根を寄せる。


「3Pはやらねぇよ。アイツはそう言うんじゃねぇんだ」


「そう言うのじゃ無いって、それじゃあ一体なんなのよっ! 私、見られながらするのも嫌よっ! それから、それからねっ!」


 ――ピンポーン


 チャイムの音が二人の不毛な会話を断ち切った。

 誰かがドアの外に来たようだ。


 男は不審がる女を部屋に残したまま、出入り口となるドアへと歩み寄って行く。

 そして、ドアに設置されたのぞきドアスコープから来訪者を確認すると、男は自分からドアを押し開いた。


「ルームサービスをお持ちしました」


 部屋の外に立っていたのはベルボーイ風の青年。

 彼の横には料理を乗せた銀色のワゴンが並んでいる。

 このラブホテルは単に休憩や宿泊をするだけではなく、ルームサービスなど一般的なシティホテル並みのサービスが受けられる事も大きな特徴となっているようだ。


「おぉ、あんがとさんよ。頼んだものはテーブルの上に置いて行ってくれ」


 男は自分の肩越しに部屋の中央にあるテーブルを指さすと、ベルボーイ風の青年を部屋の中へと招き入れた。


「ちょちょっ、ちょっと! ひぃっ!」


 そのやり取りを部屋の中央で全裸のまま見ていた女。

 彼女は突然奇妙な悲鳴を上げると、猛ダッシュで近くのベッドへと潜り込む。

 ベルボーイ風の青年は一瞬、気まずいような表情を浮かべはしたものの、流石にそこはラブホテルの従業員である。

 特に何事も無かったかのように料理を並べ終わると、そのまま一礼の後、部屋を出て行ってしまった。


 部屋に残されたのは、男と女の二人だけ。


「ちょっとっ! 他人を部屋に入れるなら入れるって、先に声掛けなさいよっ! 恥かしいじゃないのよっ!」


 もっともな言い分ではあるが、よくよく考えてみれば目の前の男だって他人と言えば他人である。となると、ホテルのベルボーイに裸を見られたとて、結局は五十歩百歩なんじゃないの? ぐらいの表情を浮かべつつ、男は女の言い分を完全に無視。

 目の前に並べられた料理の中から、何かのフライを一つ手掴みすると、自分の口へと放り込んだ。


「ねぇそれ……私も食べて良いの?」


 依然、ベッドの中に入り込んだまま、不満気に顔だけを覗かせる女。


「お前に食わせる訳ねぇだろ。お前は自分で言った通りシャワーでも浴びて来いよ」


 男はなおも素っ気ない態度で、自分だけは料理を口に運び続けている。


「そんな事言ったって、バスルームには別の人が……」


 そう言いながら、女がバスルームのある方へと視線を向けた。

 するとそこには。


「ひぃ!」


 いったい何時からソコに居たと言うのか?

 頭のてっぺんから足のつま先まで。

 全身ずぶ濡れとなった人物が、部屋の隅で茫然と立ち尽くしているではないか。

 女は驚きのあまり短い悲鳴を口にすると、もう一度ベッドの中へと潜り込んでしまう。


「おぉ……お疲れさま……もう、終わったのか?」


 その異様な姿を見ても表情の一つも変える事の無い男。

 声を掛けられた方は、しばらく思案した後、小さく頷きを返した。


「そうか、終わったか。で、どうだった?」


「……減った……腹」 


 男の問いに対し、少々的外れな様にも思える回答。

 しかし男はそんな事など全く気にも留めず。

 全身ずぶ濡れの人物に対し、対面にあるソファーに座る様手招きすると、テーブルの上に乗せられた料理の一つを差し出した。


「……熱い」


 差し出された料理を手掴みで食べようとしたのだろう。

 少々緩慢な動きではあるが、料理に触れた手を残念そうに引っ込めるずぶ濡れの人物。

 その様子を見ていた男は、手前にあったスプーンを手に取って見せた。


「スプーンだ。スプーン。言ってみろ。スプーン……」


「……すぷーん」


「そしてこれは、カレーだ。カレー。カツカレーだ」


「……かれー」


 復唱させてはみたものの、若干のカタコト感は否めない。


「ほら、こうやって食うんだ。前にも教えただろ? ほら、こうやってすくってから、こう……口に運ぶんだ」


 順手で握ったスプーン。

 男の動作に合わせて目の前のカレーを雑にすくい上げると、おもむろに自分の口元へと運んで行く。

 しかし、まだ慣れていないのだろう。

 運んだ料理の大半がスプーンの上からテーブルの上へとこぼれ落ちてしまうようだ。

 男はその様子を眺めながらも咎めもせず。

 どちらかと言えば、満足そうに自分の目の前にある料理を口の中へと放り込んでいる。

 食事のマナーと言う意味においては、男も、その前に座る人物も、さして差のないレベルと言って良いかもしれない。


「で? 今回はどうやったんだ?」


 男は何かのフライを片手に持ったまま、更にもう片方の手で器用にも缶ビールの栓を開けてみせる。

 一方、問いかけられた方はスプーンを運ぶ手を止め、思案する様子を見せ始めた。

 やがて。


「……首……刺した」


 無理やり絞り出したような声。

 いや、答えか。


「そうか、首か。それなら確実に死んでそうだな。となると、男の方はどうした?」


 次なる質問に、目の前の人物が再びスプーンを持つ手を止めた。

 そして今度はジェスチャー付きでその答えを表現してみせたのだ。


「……腹……切った……自分」


 その様子を感慨深げに眺める男。


「そうか、自分の腹を切ったのか。でもそれじゃあお前が……」


 と言いかけた所で、男は急に黙り込んだ。

 男は知っていたのである。

 この自称『神』であると言うこの人物が他人の意識を乗っ取った場合、その相手の持つ感情や感覚までおも共有してしまうと言う事を。

 そしてその傾向は、一度に乗っ取る人数が少なければ少ないほど、顕著に表れるらしいのだ。


 今回精神操作を行い、意識を乗っ取った男はただ一人。

 恐らくその痛みや恐怖も、この目の前に座る自称『神』であると言う人物が共有していたであろう事は想像に難くない。


 常日頃より感情を面に出さず、場合によっては抜け殻と言われても仕方がないような人物である。にもかかわらず、たとえとは言え、自死を選択すると言うその気持ちが男には推し量れないでいたのだ。


「いったいどう言う育ちをするとこうなるんだろうな……」


 これも世にいう、サヴァン症候群の一つなのかもしれない。

 男は自分なりにそう納得すると、少しぬるくなったビールと一緒にそのモヤモヤとした気持ちを喉の奥へと流し込んだ。


「……欲しい……ミルク」


 食事の手を止め、目の前の人物がめずらしくもみずから話始める。


「なんだ、飲み物が欲しいのか? ビール……って訳には行かねぇやな。カツカレーには水の方が良いか? あぁそうだ、冷蔵庫にミネラルウォータがあったはずだな、取って来てやるよ」


 男はそう言いながら立ち上がろうとしたのだが。

 目の前の人物は微かに首を左右に振ると、部屋の奥にある大きなベッドの方へと視線を向けた。

 それに合わせて男もベットの方へ顔を向けると、ソコには布団の間から顔を覗かせる女の姿が。


「あぁ……そう言う事か。お前もなかなか気が利くようになったじゃねぇか」


 男は薄っすらとした笑みを浮かべながらホテル備え付けの冷蔵庫の元へ。

 そして、冷蔵庫の中から自前で買い置きしておいた牛乳パックを取り出すと、再びソファーへと戻って来た。


「えぇっと、コップは……っと。まぁ、俺が使わなかったこのビール用のコップで良いか。それからっと。ナイフ、ナイフは……」


 男は料理に添えられてきたバターナイフを手に取ってみるのだが、これでは使い物にならぬと、早々に断念。


「なぁ。いま適当なナイフが無いんだが、これで代わりにならねぇか?」


 男はテーブルの上にあったフォークを手に持つと、軽く揺らして見せる。

 すると、男の正面に座る人物は小さく頷きを返したようだ。


「よし、それじゃあ、これで頼むわ」


 男の言葉に合わせ、正面の人物が不器用な手つきでコップへと牛乳を注ぎ込み始めた。

 なみなみと注がれた牛乳が、コップの縁よりいくぶん溢れ落ち、テーブルに小さな牛乳だまりを作ったのはご愛敬と言う所か。

 次に正面に座る人物は、男より手渡されたフォークを逆手で握りしめると、何の躊躇ためらいもなく、反対の手の平を突き刺したのだ。


「ひぃっ!」


 ベッドの方から軽い悲鳴が聞こえて来る。

 しかし、男も、その正面に座る人物も全く動じる気配は見受けられない。

 そればかりか、ともに平静な顔をして、じっと手の平に浮かび上がる血の玉を見つめて続けているだけ。

 そして、そろそろ頃合いと思ったのだろう。

 男の正面に座る人物が牛乳の注がれたコップの上で自分の手を強く握りしめた。


 ―ポタ、ポタッ……ポタッ


 一滴、また一滴と、したたり落ちるのは、ルビー色に輝く体液。

 やがて真っ白であった牛乳が、ほんのり桜色へと変色し始めた頃。

 男の正面に座る人物はその行動を止め、再び残りのカツカレーを己が口へと運び始めたのだ。


「出来たか。よぉし、ネェちゃん。こっち来いよ。お前に良いモン飲ませてやるからよぉ!」


 男は楽し気な声で、ベッドに隠れる女に対してそう呼び掛けた。

 しかし、その一部始終を見ていた女は恐怖に顔を引きつらせたまま、その場所を動こうともしない。


「いっ、嫌よっ! そんな訳のわかんないモノ、絶対に飲みませんからねっ!」


「まぁ、そう言わずにさぁ」


 男は淡い桜色となった液体を片手に、女が潜むベッドの方へと近付いて行く。


「嫌って言ったら、絶対にイヤッ!」


 なおも断固拒否を貫く女。

 しかし、男はベッドの端に腰掛けると、桜色に染まったコップを女の鼻先に突き付けながら、こう言い放ったのだ。


「ここは黙って飲んでくれよぉ。もしお前がこの部屋から生きて帰りてぇんだったらな……」

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