第147話 オムニバス(エピソードⅢ)
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【注意(CAUTION)】
グロテスクな表現が含まれています。
得意でない方は、読み飛ばして下さい。
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ビルの合間より望む小さな空には、どんよりとした雲。
つい数時間前まで降っていた雨の所為だろう。
所々に小さな水たまりが出来上がっている。
通常、アスファルトに出来た水たまりは、非常に見わけにくいモノなのだが。
周囲の派手なネオンのお陰もあってか、踏み避けるのにさほどの苦労は無さそうだ。
「携帯持ったか?」
ハンドルを握る男が声を掛ける。
「持ったー」
オウム返しのように、気のない返事をする女。
「最近、危ないヤツが増えて来てるからよぉ」
生返事の彼女に多少の苛立ちを覚えつつも、男は注意事項を再び繰り返す。
「さっきも聞いたー」
彼女は薄っすらと輝く携帯に目を落としたまま、白いワンボックスカーからアスファルトの歩道へと降り立った。
「何かあったら、直ぐに連絡すんだぞ!」
男はなおも助手席の窓を開け声を掛けるのだが、結局彼女は返事をする事もなく、片手を挙げただけで、車の向きとは反対の方向へと歩き始めた。
――カツ、コツ、カツ……
恐らく何度も通った道なのだろう。
迷う事なく歩みを進める彼女。
派手な化粧などはしていない。
服装も、どちらかと言えば地味な方だ。
あえて彼女の美醜を評価するならば、良くて『中の上』と言う程度か。
もう少し若い頃であれば『上の下』であると言い張っていたかもしれないが、数年前に三十路を迎えた彼女にとって、『中の上』と言う評価ですら御の字だと言えるのではなかろうか。
とは言え、今もなお店のホームページ上では二十代前半と掲載している彼女。
それは店の方針なのか、それとも彼女の意地……なのか。
「確か、今日の客は四十代前後のサラリーマン……だったわね」
道すがら、彼女はふとマネージャからの連絡事項を思い出す。
マネージャと呼ばれる男は店に所属する嬢の管理をする傍ら、自身も受付として顧客からの電話に出ているのだ。
入れ替わりの激しい渋谷界隈で、長年店舗を維持して来た経験と勘がモノを言うのか。彼の見立ては流石に十割とは行かないが、八割方は正解している事が多い。
そんな敏腕マネージャの言葉に全幅の信頼を寄せる彼女は、一人しずかにほくそ笑んだ。
なぜ彼女はそんな表情を見せたのか?
それは、四十代前後の男性が彼女のストライクゾーンだから。
つまり『カモ』だと言う事に他ならない。
所詮、彼女にとって男と言う生き物は『股間で物事を考える低俗な生物』でしかなかった。それは彼女のポリシーであり、彼女の持論でもある。
そんな低俗な生き物から金を巻き上げて一体何が悪いと言うのか?
男も四十前後ともなれば、ある程度自由に使える金を持っている。
子供の教育費や家のローンなど、本当に金が掛かるのはもう少し先の話だ。
恐らく成人男性が一生のうちで比較的自由に金が使えるのは、この数年間がピークと言っても過言ではないだろう。
しかも四十代前後の男性は、社会的ステータスも気にしがちだ。
それは、守るべきモノが多いと言う事。
守るべきモノが多くなれば、おのずとそれが弱点となる。
それが故に、この手の客はあまり無茶を言わない。
店のケツ持ちにヤクザが絡んでいる事を匂わせれば、とたんに大人しくなってしまう。つまり、客あしらいが非常に簡単で楽なのだ。
家庭では小さな子供を抱える嫁が早晩女から母へと様変わりして、亭主の事など一切見向きもしなくなり。会社内では仕事と責任のプレッシャーに苛まれ、
そんな不平や不満を解消するはけ口として、風俗を利用しようとするのは現代日本において、もはや必然と言えるのかもしれない。
やがて彼女は立ち並ぶいくつものラブホテルの前を通り過ぎると、
小さなエントランスホール。
片側の壁一面には部屋の写真がはめ込まれた大型のパネルが設置されていて、来客はここで好みの部屋を選択できるようになっていた。
彼女はパネル上で灯りの消えた目的の部屋を指し示すと、監視カメラに向かって軽く投げキッスを披露してみせる。
既に顔パスなのだろうか?
彼女は誰からも
――ピンポーン
部屋の中で人が動く気配が。
恐らく来訪者を確認する
しばらくすると、ゆっくりとドアが開き始める。
「CLUB童夢から来たアンナです。今日はよろしくお願いします」
彼女は深々としたお辞儀を披露してみせる。
この商売を続けて久しい彼女だが、未だにこの瞬間は慣れる事が無いと言う。
それはそうだろう。
この場で客から
ほんの数年前までは
しかし最近ではそう言うケースも稀に経験するようになった。
偶然、客の好みと会わなかっただけ……と辺りに言い訳してはみるものの、性としての商品価値に陰りが見え始めている感は否めない。
「……どうぞ」
緊張しているのか。
それとも生来の根暗なのか。
消え入りそうな声で部屋の中へと招き入れてくれる中年の男性。
歳の頃で言えば三十代後半ぐらい。濃紺のスーツに真面目そうなメガネ姿。
熟練マネージャの読みの鋭さに感嘆しつつも、無事部屋の中に入れてもらえた喜びに、思わず打算的な笑みを浮かべてしまう彼女。
「それでは今の時間からスタートとなりますが、よろしいですか?」
「……」
彼女からの明るい問い掛けに、無言で頷き返す根暗風の男性。
――プルルルルル……
「あ、アンナです。お客様OKいただきました。これからスタートします。……はい……はい。よろしくお願いします」
彼女の職業はデリバリーヘルス嬢。
無店舗派遣タイプの性風俗店に勤めている。
彼女の所属する店では、主に渋谷近辺のラブホテルやシティホテルを中心に営業活動を行っており、移り変わりの激しい業界の中でも、老舗と呼ばれる隠れた名店でもあった。
利用方法は至って単純。
電話で予約を行えば、顧客の宿泊するホテルの部屋へ指定された嬢が訪れると言うシステムで、費用は主に時間制。九十分や百二十分など、顧客の好みで選択できるようになっている。
ちなみに、この店では嬢が室内に入った時点で契約が成立。嬢の
「お客様、それでは先にシャワーをお願いしてもよろしいでしょうか? 私も準備をしてから参りますので、一緒に洗いっこしましょう!」
言うが早いか、彼女はテキパキと男性のスーツを脱がせに掛かる。
脱がされる男性の方も特に異論は無い様子で、されるがままに洋服を脱がされた後、さっさとシャワールームへと追いやられてしまった。
一部、客が奥手な事を良い事に、なかなかサービスに移ろうとしない嬢もいるようだが、彼女の場合は少し違う。
なにせ、彼女にとっては久しぶりの
今回、目一杯サービスをする事で、リピーターとなるよう仕向けた方がよほど実入りは大きいとでも考えたのだろう。
彼女自身、急いで自分の服を脱ぎ終わると、男性の洋服ともども丁寧に折りたたんで近くのテーブルの上へ。
奥手な男性の場合には、こういった
ここで彼女はふと顔を上げた。
バスルームからは僅かながらに連続的なシャワーの音が聞こえて来る。
恐らく今であれば、突然バスルームから男性が舞い戻って来る事は無いだろう。
そう確信した彼女は、ハンガーに掛けたスーツの内ポケットに素早く手を差し入れた。
案の定、胸ポケットには少し古びた長財布が。
軽く左右を見渡してから中身を確認すると、一万円札が三枚に千円札が五枚ほど。更に各種クレジットカードや運転免許証、健康保険証まで入っている。
早速名前を確認すると、マネージャから聞いていた名前と相違は無さそうだ。
「これなら大丈夫そうね」
彼女が行ったのは身元の確認。
お客がシャワーを浴びている間に、金銭を抜き取ろうなどと
しかし、それにしてもお客のプライベートを無断で覗き見る行為は犯罪にも等しい。
ただ、彼女にしてみれば、将来的な太客候補に対する素性調査は、自分の身を守る上での必要悪だと割り切っているようにも見えた。
満足気に頷いた彼女は整えた髪を濡らさぬよう、備え付けのバスタオルを頭に巻き付けると、自分の店舗より持ち込んだ消毒液や肌に優しいボディソープを両腕に抱え、軽い足取りでスバスルームへと向かって行った。
「お待たせしましたお客様。早速洗いっこしましょうかっ!」
濛々とした湯煙の充満するバスルーム。
彼女は後ろ手でバスルームの扉を閉めると、未だシャワーを浴び続ける男性の背中に向かって語り掛ける。
「……」
しかし、男性からの反応は無い。
見た目通りの奥手な男性なのか。それとも、シャワーの音に遮られ、彼女の声が男性に届いていなかっただけなのだろうか。
彼女は抱えていた消毒液やボディソープを大きな鏡の横にある棚へ並べると、慎重に男性の背後へと近付いて行った。
彼女とシャワーを浴びる中年の男性。
その距離は近く、彼女が軽く手を伸ばせばその背中に手が届くほどだ。
熱くも無いシャワーの水滴が、三十路とは言え十分に手入れの行き届いた彼女の柔肌を軽く弾きながらも伝い落ちて行く。
それでも彼女に気付かぬ中年の男性。
いい加減彼女は業を煮やし、もう一度男性に声をかけようとした……その時だった。
――ズブリ……。
「ガハッ……ひゅー、ひゅー」
アイラインで彩られた彼女の目が、これ以上無いほどに大きく見開かれる。
彼女は何かを訴えかけるかのように口を何度もパクパクと動かして見せるのだが、残念ながら思うように声を出す事が出来ない。
それもそのはず。
肺より送り出された大量の空気は無情にも、彼女の首元から色鮮やかな鮮血とともに漏れ出していたのだ。
「ひゅー……ひゅー……」
言葉にならぬ風切り音がバスルームにこだまする。
一体何が起きたと言うのか?
いまだ理解が追いつかず、茫然と立ち尽くす彼女の眼前には、完全に感情の抜け落ちた男性の顔が。
そして視線をゆっくり下へと動かして見れば。
男性の手には刃渡り二十センチはあろうかと言う出刃包丁が握られており。
その切っ先は、まごう事なく彼女の首元へと突き刺さっていた。
ようやくここに来て、現実的な痛みが脊髄神経を経由して彼女の脳へと一気に伝播。
彼女は必死の形相で出刃包丁の刃先を握りしめると、自身の指が切り落とされる事すら
――バシュゥゥゥ! ジャバジャバジャバ……。
包丁を引き抜く際に、
先程にも増して、真っ赤に輝く鮮血が噴水のごとく溢れ出して来る。
「アガッ……アガッ!」
両目を見開き、言葉にもならぬ呻き声を上げる彼女。
彼女の目の前では、命の源とも言うべき鮮血が無造作にもだくだくと排水溝へ流れ込んで行く。
その一滴一滴こそが、彼女自身の命、彼女の分身。
一刻も早く拾い集めねばとでも思ったのだろうか。
彼女は片手で首元を押さえつつ両膝を付き、排水溝へと手を伸ばした。
生死を分かつ緊急事態。
にもかかわらず、この時彼女はある事に気が付いた。
彼女の首から胸、そして足元を経由して流れゆく赤い血潮。
それ以外にも、別のルートより流れ来る更に太い血の大河が見受けられたのだ。
この時既に極限の激痛により
現実逃避すべく、新たに発見した大河の源流を探し出すため、その川上へと視線を
するとそこにはあの中年男性が己が下腹部へと包丁をあてがい、真一文字に切り裂いていたのである。
「アガッ……」
男性の下腹部より溢れ出す色鮮やかな血液と内臓。
小腸に大腸、胃までもが立ち上る湯気の中で煌びやかに輝いて見える。
その色は、彼女の人生の中で最も美しく、最も生命力に溢れ、そして最高の絶望に満たされた……赤。
(あぁ……綺麗)
それが彼女の最後の記憶だった。
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