第146話 オムニバス(エピソードⅡ)

 東京都渋谷区渋谷。

 多くのファッションビルやセンター街、スクランブル交差点など、若者が集う街として有名な場所だが、実は住所としての渋谷は、渋谷駅の東側、青山学院大学青山キャンパス辺りまでの一帯に過ぎない。ちなみに109の所在地は渋谷では無く道玄坂である。

 そんな若者の街渋谷には、意外にも小学校や中学校、更には関連する学習塾なども多く点在しており、これらの学校に通う児童や生徒を多く見かける街でもあった。


「先輩っ! もう一軒行きましょうよ、もう一軒。俺、良い店知ってるんっスよぉ!」


 センター街にもほど近い歓楽街。その裏路地をフラフラと蛇行しながら歩く二人組のサラリーマンがいた。

 ともに歳の頃で言えば二十代半ばのように見える事から、恐らくは先輩風を吹かせた若手社員が、今年入ったばかりの新入社員を連れて飲み歩いている真っ最中なのだろう。


「嘘つけぇ。だいたいお前、地方大卒で東京に出て来てまだ一ケ月じゃねぇか。そんなお前が一体どんな店知ってるって言うんだよ」


「あ、先輩っ! いま地方を馬鹿にしましたね。都会には都会の良い所があるかもしんないっスけどぉ、地方は地方で、都会には無い良い所が一杯あるんですから!」


 時刻は夜の九時を少し過ぎた頃か。

 まだよいの口と言っても良い時間帯ではある。

 ただ、この段階でここまで酩酊めいていするとは、よほど早い時間から飲み始めたのか、それとも酒に弱い性質なだけなのか。

 

「わかった、わかったよ。だから、とにかく真っ直ぐ歩けって! 他の人に迷惑だろ!」


「何言ってんスか、先輩。僕はちゃんと真っ直ぐ歩いてますって! ねぇ、そうですよねぇ、そこのお姉さんっ! 見てみて! ほら僕、ちゃんと真っ直ぐ歩いてますよねぇ!?」


 いまだ学生だった頃のノリが抜けないのだろう。

 突然、見ず知らずの若い女性に声を掛ける後輩サラリーマン。

 先輩社員は後輩のそんな無分別とも言える行動に思わず眉根を寄せた。


「お前っ、やめろよ! 言っとくけどな、この辺りであんまフザケタ事してっと、後で痛い目見るぞ!」


「いやいやぁ、先輩怖いなぁ。恐いこわい。先輩の顔がちょー怖い。って言うか、何ですか、その痛い目ってヤツは?」


 叱られたばかりにもかかわらず、後輩サラリーマンには全く反省の色が見受けられない。

 そればかりか、先輩社員の顔を下から覗き込むようにしておどけてみせる始末。

 先輩と呼ばれた青年は軽い苛立ちを抑え込みながらも、後輩サラリーマンの首根っこを摑まえて強引に引き寄せた。


「オイ、よぉく聞ぃとけよ。俺ぁ東京こっちの大学だからさぁ。当時の先輩に良ぉく言われたんだわ。『渋谷じゃ絶対に逆らっちゃいけないヤツらがいる』ってな」


「ヤツらぁ? それって外国人……とかって事っスか?」


 後輩の斜め上からの反応に、先輩サラリーマンが心底呆れた様子で溜息をつく。


「ちげーよ。よぉく聞いとけよぉ! まず第一に注意しなきゃならねぇのはだなぁ、半グレや反社関係の人達だな」


「まぁ、それはそうでしょうねぇ。地方にだってヤクザ関係の方々はいらっしゃいましたから。流石に、そんな人たちに迷惑なんて掛けませんよ。そんなの当たり前じゃないっスかぁ! 流石の僕だって、そんなヘマはしませんよっと」


 さも当然と言わんばかりの後輩サラリーマン。

 首に回されていた先輩の腕を難なく振りほどくと、すぐ傍を通り過ぎるうら若い女性の姿をいやらしい目つきで追いかけ始めた。


「はぁ……本当に分かってんのかぁ? 反社の人達は一筋縄じゃ行かねぇんだからな。それになぁ、本当にヤバいのはそれだけじゃねぇんだぞぉ、夜の繁華街で一番関わっちゃいけねぇ相手ってのはだなぁ……」


「はいはいはい。分かりました。もう分かってますって。その話はもう大丈夫です。お腹いっぱいでぇす。そんな事より見て下さいよ、アレ! ほらアレあれ!」


 まだ話を続けようとする先輩社員を雑にいなすと、後輩サラリーマンは興奮気味に、先ほど通り過ぎた綺麗めの女性を指さした。


「ボン、キュ、ボンの凄いプロポーションっスねぇ。やっぱ都会の女性は違うわぁ。アレって、何処かのお店の人ですかね。それとも素人さんかな? いや、アレは絶対にプロですよプロ。間違い無く嬢っスよ。僕の勘がそう言ってます。よし、先輩っ。ちょっとココで待ってて下さい。僕、何処のお店なのか聞いて来ますからっ!」


 言うが早いか、全速力で駆け出して行く後輩サラリーマン。

 先ほどまでのおぼつかない足取りが実は芝居だったのではないかと疑いたくなるほどのかわりようだ。

 先輩社員は呆れかえりつつも、親が自分の子を見送るような優しい目でその背中を眺めやった。


 しかし、事はそう上手くは運ばない。


 最初のうちこそ苦笑交じりで話に付き合ってくれていた彼女。

 しかし、恐らくは後輩サラリーマンの強引な態度が癇に障ったのだろう。

 時間が経つにつれ、だんだんと彼女の眉間にはシワが寄り始め、やがてすっかり機嫌を損ねた彼女は不満げに辺りを見回すと、偶然にも通りかかったに向かって軽く手を上げた。


「兄ちゃん……何やってんの?」


 内臓をえぐるような重低音のダミ声。

 

「えっ?」


「え? じゃねぇよ。俺ぁ、何やってのかって聞いてんだよ。まずはそこの所からハッキリさせようか」


 サラリーマンの背後より声を掛けて来たのは、三十代ぐらいのごく普通に見える二人連れの男性だった。一人はワイシャツにダークグレーのスーツ姿。もう一人は淡いブルーのスカジャンに、ダメージジーンズと言ういで立ちだ。

 少し安堵した表情を見せる女性の様子から、この二人の男性は彼女の知り合いなのだと言う事がうかがい知れる。


「いやぁ、ちょっとお姉さんとお話してただけっスよ。それに、アンタ達とは関係ないですよね。なんでそんなこと聞かれなきゃならないんスか!? ホントマジ、なんなんスか!?」


 半分キレ気味に言い返し始める後輩サラリーマン。

 彼を強気にさせたのは酒の力か? それとも打算に裏付けされた結果なのだろうか?

 確かに、アラサー側もサラリーマン側も成人男性の二人連れ。

 ただし、学生時代に何らかのスポーツをかじっていたであろう後輩サラリーマンは、先輩社員だけでなくアラサーの男性の二人よりも体格が良く上背が高い。

 単純な腕力だけを考えるならば、サラリーマン二人組の方に分がある事は一目瞭然であった。


「イキがってんじゃねぇぞ、この若造がぁ」


 スカジャンを着込んだ男が後輩サラリーマンを見上げながら凄んでみせる。

 後輩サラリーマンの方もその対応に、後には引けなくなったのだろう。

 かさにかかってスカジャン男を睨み返した。


 一触即発。

 無言で睨み合う二人。


 しかし、その静寂はスーツ姿の男性による一言で破られる事となる。


「おい、止めとけ」


 片方の口角を少し上げ、二人の間に割って入るスーツ姿の男性。

 その落ち着いた言動と様子から、スカジャン男よりも上位者としての貫禄が感じられた。


「兄ちゃん威勢が良いねぇ。俺ぁ狭真会きょうしんかいってところに所属してるモンだが、往来の真ん中で相手に喧嘩売っちゃダメだろ」


 そう告げる彼のスーツの胸元には、いぶし銀のバッヂが。


「こう言う場所で喧嘩売られるとさぁ、俺達、買わない訳には行かないんだよねぇ。いや、勘違いして欲しくないんだけどさぁ。俺達ぁ、別に兄ちゃんとの喧嘩を買うのが嫌だって言ってる訳じゃあ無いんだよ? でもなぁ、買わねぇ事に越した事ぁねぇんだよなぁ」


 スーツ姿の男性が、おもむろに上着の内側から刃渡り五センチほどの小さなバタフライナイフを取り出して見せる。

 流石に直のナイフを見せられて、怯まない人間などそうはいないだろう。

 しかし、それでもなお、後輩サラリーマンは虚勢を張り続けてしまう。


「そっ、それじゃあ、喧嘩してみれば良いだけじゃないっスか。そんな小さいナイフなんて、全然怖く無いんスよ。おっさんたち、本職だって言いましたよね。もし、そんなモン持ち出したら、一発で警察に捕まりますよ? しかも、おっさんたちだけじゃなくて、所属する組の人達全員がヤバいんじゃないっスかね? そうっスよね? 確か、そうなんっスよね!」


 暴対法の施行以降、暴力団組員への風当たりは確かに強い。

 ちょっとしたイザコザであろうと公権力介入の口実となる事から、組織全体に与える影響が大きすぎるのだ。

 そう考えるとするならば、こんな何の得にもならない素人との喧嘩に、本職の人間が首を突っ込むはずは無いのである。

 恐らく後輩サラリーマンも同じように考え、高を括っていたのだろう。

 酔ってはいても、意外に頭は回っているようだ。


 しかし、多少とは言え社会人経験のある先輩社員の方はそうも行かない様子で。

 完全に腰が引け、今にも泣き出しそうな顔をしている。

 しかも、既に自分の力ではどうしようも無いと悟った先輩社員は、道行く誰かに助けてもらおうと、先ほどから必死で辺りを見回していたのだが。残念ながら誰一人として声を掛けてくれる訳でもなく、一様に見て見ぬふりをしたまま、全員が無言で通り過ぎて行くだけ

 現代日本の人情や親切心など、所詮その程度のモノでしかないと言う事らしい。


「もしかしてビビッてんスか? 俺、アメフトでインカレにも出た事あるんでぇ。おっさん達には絶対に負けないんでぇ」


「そうかい、そうかい。でもなぁ、喧嘩って言ってもさぁ。殴り合いだけが喧嘩じゃねぇんだよな。例えばさぁ、想像してみてよぉ。オレがこの小さなナイフで、ほんのチョットだけ兄ちゃんの手に傷を負わせる訳だ。すると、兄ちゃんは警察を呼ぶわなぁ。もちろん、俺達ゃその時ぁトンずらこいて、この場にはいねぇ。そんでもって、兄ちゃんは事情徴収を受けながら、警察が呼んだ救急車に乗って病院に行く事になるって流れよ」


 ともすれば、教師が生徒に語り掛けるかのように、優し気な口調で淡々と話し続けるスーツ姿の男性。


「この辺りの病院の数なんて高が知れてらぁな。しかも、救急車ってヤツぁ必ずサイレン鳴らして走って行くからなぁ。どこの病院に行ったかなんて、ただ分かりだ。病院が特定できりゃあ、担ぎ込まれたヤツの身元を調べるなんざ簡単な仕事よ。あっと言う間に、兄ちゃんの本名に住所、場合によっちゃ、カード番号まで分かっちまうんだぜぇ……」


 ――ゴクリ


 ようやくこの段になって、スーツ姿の男の言いたい事が分かり始めたのだろう。

 後輩サラリーマンは真顔のまま、大きく喉を鳴らして唾を飲み込んでいる。


「後はどうするかなぁ……。会社に乗り込んでも良いし、兄ちゃんの実家へ追い込みを掛けても構わねぇな。まぁ、人ひとりの人生を滅茶苦茶にする事なんざ、俺達にとっちゃ造作もねぇからな。恐らくひと月もしねぇウチに、兄ちゃんの親御さんが俺の目の前に札束を差し出しながら、平身低頭土下座する事になると思うんだが……なぁ、どう思うよ兄ちゃん?」


 先ほどまでの威勢はどこへやら。

 後輩サラリーマンの顔面は既に蒼白。

 膝はガクガクと震え出し、立っている事すら危ぶまれる始末だ。


「そうそう、大事なこと言っとくの忘れてたぜ。この辺りは狭真会きょうしんかいが仕切っててなぁ。兄ちゃんたちもこの街にとっちゃ大切なお客様だ。ただなぁ……ウチの店で働いてる嬢に悪さしちゃいけねぇやなぁ。しっかり大人の分別を持って遊んでもらう分には、俺たちゃ何にも言わねぇからよぉ。な、悪ぃ事は言わねぇ、今日の所はもう帰んな。そんでもって、また大人になってこの街に遊びに来てくれよ。そん時は歓迎するからよぉ」


 スーツ姿の男性は先輩社員と後輩サラリーマン、両方の肩に手を回すと、軽くはにかみながらも、彼らの肩をポンポンと叩いて見せる。

 そんな極道者の予想外の気遣いに、ようやく二人の緊張も解け始め、安堵の溜息をつこうとした……矢先だった。


「オジサンは……狭真会きょうしんかいの人?」


 ひと声聞いて子供と分かる幼声。

 いくら渋谷に児童や子供が多いとは言え、流石にこの時間帯では珍しい。

 スーツ姿の男性は少々いぶかしみながらも声のした方へと視線を向けた。

 するとそこには、赤いリボンも愛らしいツインテールの少女が一人。

 精気の全く感じられないダークブラウンの瞳を見開いたまま、ただひっそりとたたずんでいるではないか。


「なんだい嬢ちゃん。子供はもう寝る時間だぜ。早く家に帰って……」


「……オジサンは……狭真会きょうしんかいの人?」


 男性の言葉も終わらぬ内に、先ほどと同じ問いを投げかける少女。

 スーツ姿の男性はしばらく思案した後、何か思い当たる節でもあったのだろう。

 少女の目の前で軽く身を屈めてから、強面の顔を不器用に操作しつつも雑な笑顔を創り上げて見せる。


「あぁそうだ。俺たちは狭真会きょうしんかいの人間だ。それがどうした? なんだ? お前の父ちゃんもウチの組に居るのか?」


「……」


 しかし、少女は答えない。

 依然、精気の無い瞳をスーツ姿の男性へと向けているだけ。

 やがて少女は抑揚のない声で、独り言のように呟いてみせたのだ。


「……しね」


 ――バチバチバチッ!


 突然ほとばしる青白い閃光。


「うごっ!」


 スーツ姿の男性は大声を上げる間も無く地面にうつ伏すと、そのままアスファルトの上でビクビクと体を痙攣けいれんさせ始める。


「兄貴っ!!」


 ――バチバチバチッ!


「あがっ!」


 その光景を間近で見ていたスカジャン男。

 彼自身、倒れた男性の元へ駆け寄ろうとしたのだろう。

 しかし、ただの一歩すら踏み出せぬまま、スーツ姿の男性同様、短い叫び声とともに硬い地面へと平伏してしまった。


「あがっ……あががっ……」


 言葉にもならぬ呻き声をあげながら、陸にあげられた小エビのようにビクビクと体を痙攣させ続ける男たち。

 ふと気付けばそんな彼らの事を、十名を超える少年少女たちが静かに取り囲んでいるではないか。


「殺せ……」

「シね……」 

狭真会きょうしんかいは……」

「全員……」


「……コロセ」


 呪怨のごとく、抑揚のない声で殺意を口にする子供たち。

 彼らはそれぞれが手にしていた懐中電灯のようなスタンガンを手提げ袋にしまい込むと、今度は同じ袋の中から刃渡り二十センチはあろうかと言う出刃包丁を取り出した。


「……レ……」


 やがて、子供たちの頭の中にだけ響くの声。

 少年少女たちはその見えざるに導かれるまま、手に持つ包丁を天高く振り上げた。


 ◆◇◆◇◆◇


 刑法第四十一条、責任年齢。


 十四歳に満たない者の行為は、罰しない。


 本刑法あるが故に、夜の繁華街で一番恐ろしいのは『子供』……であると言う人も確かに存在する。それは単なる都市伝説なのか、それとも……。



※補記:罪に問われないとは言え、何らかの措置を受ける事はありますし、根源的に法に触れるような事をしては絶対にいけません。

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