第145話 オムニバス(エピソードⅠ)

 ――ジュワアァァァ……


 威勢の良い音と共に、熱せられた蒸気が勢いよく天井へと噴き上がった。

 そのわずか数秒後。

 今度は思わず顔をしかめたくなるほどの熱気が、ヒノキの香りとともに容赦なく頭上から降りそそいで来た。


「くぅ!」


 男は俯いたままの格好で、押し寄せる拷問のような熱さを耐え続ける。


 時間は? 何分経った?


 わずかに開いた男の目が、壁に掛けられた大きなアナログ時計を睨み付ける。

 しかし、時計の針は男のその行動自体を嘲笑あざわらうかのように、遅々として進まない。


 俺、昔からサウナは苦手なんだよなぁ……。


 そんな想いが、男の脳裏を過ぎる。


 しかしこの場所は上顧客クライアントが指定した場所であり、上顧客クライアントとの良好な関係を維持するためにも、断る事など許されない。

 男はむせ返るような熱波の中、周囲を取り囲む他の男たちに気取られぬよう、細心の注意を払いながらも、諦めの溜息をついた。


 東京の東部。

 下町と呼称される街、錦糸町。

 駅前周辺は再開発化が進み、若者や家族連れもが訪れるスポットへと変貌を遂げている。しかし、一歩裏通りへと目を向ければ、そこには昔ながらの猥雑わいざつとした庶民の街としての面影が色濃く残されていた。

 

 そんな下町の一角にそびえ立つのは、少々場違いな雰囲気を持つスーパー銭湯。

 中層ビルを一棟まるごと使った大掛かりなモノで。元々は安価なカプセルホテルだったビルを、最近の健康ランドブームに便乗して大改修。複数の温浴設備とサウナ、更には宿泊場所を合わせ持つ複合レジャー施設となっていた。


「……おい」


 ヒノキの香りも清々しいサウナ室。

 その中で、不躾にも男に声を掛けて来たのは、隣に座る初老の男性だった。


 決して良い体格をしている訳ではない。

 どちらかと言えば、小柄だと言っても良いだろう。

 しかも、少し薄くなった頭頂部と突き出た腹は、初老男性にありがちな悲哀をも感じさせる。

 にもかかわらずである。

 どう言う訳か、彼が身に纏うオーラには何人なんぴとたりともあらがう事が許されないほどの貫禄と威厳が感じられるのだ。


「なんですか、会長? 実は私、このサウナってヤツがどうにも苦手でしてね。細かいお話しについては、ラウンジの方でさせていただきたいのですが……」


「……なぜ……失敗した?」


 会長と呼ばれた初老の男性は、男の懇願にも似た提案を完全に無視。

 男の方も自分の提案が受け入れられない事ぐらい既に織り込み済だったのであろう。ため息交じりに首を数回を左右に振った後で、おもむろに男性の方へと向き直った。


「会長、聞いて下さい。確かに今回の計画は失敗におわりました。しかし、計画はこれだけではございません。既に第二、第三の計画が進行中なのです。大丈夫です! 最終的には会長の思い描かれた絵図を完成して御覧に入れますので、今しばらくお待ちいただければと存じます」


 男が慇懃いんぎんに頭を垂れる。

 しかし会長はそんな男の様子をうかがう事も無く、依然正面を向いたままだ。


「……だから、なぜ……失敗した?」


 同じ問いを繰り返す初老の男性。

 それに合わせて、男は薄っすらと浮かべていた愛想笑いを……止めた。


「敵に……狭真会きょうしんかいの幹部に、同業の者が居ました。少なくとも真瀬美里さなせみさとと同等レベルの使い手と思われます。会長からは、同業の者は真瀬美里さなせみさとただ一人だとお伺いしていたはずですが?」


 男の言葉尻には初老の男性をなじる気持ちが透けて見える。

 しかし、初老の男性は眉根の一つも微動だにしない。


「相手の事を調べるのも……仕事の内だ……」


「えぇ……わかっていますよ。……わかって……います」


 繰り返される男の言葉は、会長へと向けられた謝罪なのか。

 それとも、自分自身への戒めか。


「次は……無いぞ」


「……」


 不機嫌そうな男を後目に、初老の男性がゆっくりと立ち上がった。


 ――ザッ


 男性の動きに合わせ、周囲を取り囲んでいた他の男たちもが一斉に立ち上がる。そして、初老の男性に続いて次々とサウナ室を後にして行く。


 一人取り残された男はもう一度深い溜息をつくと同時に、自分の過去について思いを馳せた。


 男はこれまで、色々な商売に手を染めて来た。

 若い頃には暴力団の使いっ走りのような事もやったし、薬の売人になった事もあった。しかし、そのどれもこれもが長続きせず、一時はホームレスとして路上生活者の真似事をしていた時期すらあったと言う。


 しかし数週間前、男はとある事から、ある不思議な人物と出会ったのだ。

 その不思議な人物は自分の事を『神』であると言い切った。

 最初の頃、男は自称『神』を頭のイカレたクソ野郎だと思っていたのだが、さにあらず。

 なんと自称『神』は男の想像を超えるような奇跡の数々を見せてくれたのである。


 しばらくして、男はある事に気が付いた。

 この自称『神』は金勘定が出来ず、常に騙され、誰かの言いなりになっていると言う事。そして、この自称『神』と自分が組めば、更に大きな金を稼ぐ事が出来るであろうと言う事を。


 ようやく運が向いて来た……そう感じた男は、早速行動に出る。

 まずは、当時自称『神』を使って小金を稼いでいた男を、飛び降り自殺に見せかけて殺害。

 いや、正確には自殺に見せかけたのではなく、のだ。自称『神』の力をもってすれば、造作もない事だった。


 その後、男は若い頃に世話になった事のある暴力団事務所へと転がり込む。

 但し、庇護下に入るのではなく、あくまでも対等のパートナーとして……である。

 最初の頃こそ信頼を得るのに苦労はしたものの、日を追うにつれ、男と自称『神』のコンビは、の仕事を任されるようになって行ったのだ。


「もう、良い頃合いか?」


 男は先に出て行った男たちの気配がなくなった事を確認すると、おもむろにサウナ室の扉を開けて外に出た。

 浴室の湿った空気ではあったが、サウナ室とは比べ物にならないほどの涼やかな風が肌に心地よい。


 男はサウナ室に長居しすぎた事を後悔しつつ、ふと、壁に掲げられた小さな看板に目を止めた。



『刺青のある方の御利用はお断りしております』



「チッ! ……全然、断ってねぇじゃねぇか……」

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