第138話 死をも凌駕する恐怖

 ――ブオォォ……キュラキュラキュラ……ガシャンガシャン……


 きしむような異音を響かせながら、びついたシャッターがゆっくりと上がり始めた。

 徐々に見え始めたのは人影……では無く、眩しいほどに輝く巨大な四灯のヘッドライト。


 ――ブロォン、ブロロロロ……


 いまだシャッターが動いている最中にもかかわらず。

 黒塗りの高級車を先頭に、複数のワンボックスカー工場内へとなだれ込んで来た。

 そして車が停止するやいなや、厳つい顔をした男たちがワンボックスカーより次々と降り立ち、先頭の高級車へと駆け寄って行くのだ。


 ヤクザ者だ。

 一目で分かる。

 顔見知りの人は……残念だけど、いないようね。

 となると、皆藤かいどう組の増員……って事か。


 指一本動かすだけでも苦労する私に、これだけの人数を相手に大立ち回りを演じる事など望むべくもなく。

 今の私に出来る事と言えば、無言のまま男たちの行動を凝視する事だけ。


 ――バタム。


 やがて運転手と思しき男が現れ、慣れた手付きで後部座席のドアを開けた。

 車の中から姿を現したのは、少し神経質そうな一人の男性。


 手入れの行き届いたグロマンスグレイの髪に、銀色シルバーに輝くサテン生地のスーツ。見た目で言えば、六十代後半……と言った所か。

 外資系ホテルのロビーですれ違ったのであれば、怪し気な事業で成功を収めた派手な成金実業家と言った風情だろう。


 しかし、残念ながらココは真夜中の廃工場。

 こんな場所に、そんな上流階級ハイソな人種が現れるはずもなく。


「お疲れです」「お疲れ様ですっ!」


 車を囲む男たちが、一斉に腰を屈めて挨拶をする。

 ロマンスグレイの男は無表情のまま軽く頷き返すと、廃工場の中を見回し始めた。


「アレが皆藤かいどう組長よ。見た目、成金のオジサンだけど、直ぐにキレるから気を付けて。絶対に逆らっちゃ駄目。あとそれから、さっきの件、よろしく頼んだわよ」


 真瀬さなせ先生はそれだけを言い残すと、皆藤かいどう組長の方へと駆け出して行ってしまった。


 アレが皆藤かいどうか。


 真田さなだ会長が現役の頃は、その参謀役として会長を陰から支え、狭真会の拡大に尽力した人格者だと聞いた事がある。

 それが狭真会きょうしんかいの役員人事に異を唱えるとはどう言う意図なのだろうか?

 何か裏の目的が……それとも、来栖くるすさん達の暗躍がバレたとでも!?


「んだよ、ボビーもチ〇コ噛まれたのか? ホントコイツはしもの話になると学習しねぇなぁ! なぁ、オイ! あ? 何だって? そう言う俺も同じ穴のムジナってか? がはははははっ、違ぇねぇや。女にゃあ、いつも泣かされっぱなしよぉ! さっきもノーパン焼肉でチ〇コの上にタレこぼしちまってよぉ。店のねーちゃんに舐めろっつったんだけど、全然舐めてくれねぇのよ。ホント困ったもんだぜ。なぁ、がははははっ!」


 前言撤回。

 全っ然、人格者じゃ無かった。


 高濃度のアルコールで焼かれたしわがれ声。

 ただ、その腹の底をえぐるような重低音の響きには、聞く者に有無を言わさぬ特殊な力が感じられる。

 人格は別として、ヤクザ者を束ねる貫禄だけはありそうだ。


「ところで真理恵まりえ。ウチの組員のチ〇コ嚙み切った女ってぇのは、どいつだ?」


「それでしたらあちらに。ちなみに組長、私は真理恵まりえではなくマリーです」


「おぉそうかい。悪かったな」


 まったく悪びれた様子もなく、謝罪の言葉を口にする皆藤かいどう組長。

 そんな皆藤かいどうを、真瀬さなせ先生が納得の行かない顔つきで私の元へと連れて来た。


「ほほぉ、良い面構えしてんじゃねぇか。にしてもなんだな。この女、既にボロボロじゃねぇか」


 皆藤かいどうは興味なさげに、手に持った電子タバコの端で私の胸を数回つついてみせる。


「どうした? 例のAV野郎どもが散々輪姦まわした後か? もうちょっと小綺麗だったら味見の一つもしておきてぇと思ってたんだが……まぁ良い。使いふるしは願い下げだ」


 んだとこの野郎っ!

 こっちの方こそ願い下げだっつーの!


「ところで真理子まりこぉ」


「マリーです」


 真瀬さなせ先生はどうしても、ソコは譲れない部分らしい。

 って言うか、皆藤かいどうはわざとボケてんのか?


「どうして残ってんのがお前とBobyだけなんだ?」


 おっ!

 皆藤かいどう組長、真瀬さなせ先生の『私はマリーです』発言はスルーするのか!?

 って言うか、あれ、この話の流れって……なんか雲行きが怪しいぞ。


「例の……あのぉ、誰だったか? あの若いヤツ。チ〇コ噛まれたヤツじゃなくて、ほら確かもう一人いただろ?」


 ヤバい!

 気付かれた!

 あの若手ヤクザの件だ。

 真瀬さなせ先生はどう言い逃れるつもりなの!?


「あ、この女がりました」


 即答かよっ!

 真瀬さなせ先生ってば、何の躊躇ちゅうちょも無く即答なのかよっ!


「この女がっただぁ?」


「はい、りました。この女が間違いなくりました」


 なに念を押してるんだよぉ。

 完全に自分だけは逃げ切る作戦じゃん。

 私の事をかばう気、完全にゼロじゃんっ!


「んだよ、この女は男二人のチ〇コ噛んだ上に、ウチの若ぇヤツを殺したってぇのか!?」


「えぇ、狂暴な女です」


 どの口が言う!

 アンタがちょっと小突いただけで、若いヤクザ君は死んじゃったんだぞっ!

 誰が狂暴って、お前が一番狂暴だろ!?


「そうかぁ。世の中には危ねぇ女が居るもんだなぁ……」


 信じるのかよっ!

 素直かよっ!


「ホント、そうですね」


 って言うか、どの口が言う、パートⅡだよっ!

 組長! アンタの傍に居るその女が一番狂暴なんだよっ!


「ところで組長」


「おぉ、なんだ? 満里奈まりな


「……」


 こらえたっ!

 真瀬さなせ先生、ココはグッとこらえたゾっ!

 ついに『私はマリーです』発言封印っ!

 必殺のボケ殺し、ボケスルー発動だっ!


 だってこれ、完全に組長に遊ばれてるよね。

 だってそうだよね。

 一回目、二回目のボケは許せるけど、三回目は流石にボケが過ぎるよね。


「くっ、組長。この女がウチの組員を殺したのは不運な事故が重なったからであった様に思います。私も丁度この場に立ち会っておりましたので、間違いございません。ここはひとつ穏便なご裁断をお願い出来ませんでしょうか」


 おぉぉ!

 やるな真瀬さなせ先生っ!

 ここに来て、女を上げたなっ!

 やっと私の事をかばってくれる気になったんだねっ!

 ありがとう先生っ!


 でもまぁ、よくよく考えてみると、本当に殺したのは真瀬さなせ先生なんだから、私が感謝するのは筋違いなような気がしないでもないけど。

 まぁ、細かい事は置いておいて。

 それでも頑張ったよっ!

 真瀬さなせ先生、ナイスファイトだよっ!


「ふぅぅむ、そうだなぁ」


 おぉ!

 悩んでる悩んでる。

 組長、悩んでるっ!

 もしかしたら許してもらえるかもしんないぞっ!

 よし、もう一息だっ!

 真瀬さなせ先生っ、もう一言、もう一言付け加えるんだっ!


「ちなみに組長」


「なんだ?」


「私の名前はマリーです」


 あちゃー。

 そっちかー。

 やっぱ、そっち気になっちゃったかぁぁ!

 今はその話は良いんだよっ!

 それより、私の話ッ!

 私への恩赦について、話を戻してよぉぉ!


 とここで、皆藤かいどう組長が訳知り顔で頷いてみせる。


「分かってるよ、お前の言いたい事ぐれえはよ。つまり、お前はこの女を殺すなって言っいてぇんだろぉ? 仕方がねぇな。お前がそこまで言うなら生かしておいてやっても良い。だがな……」


 組長が軽く手を上げると、彼の後ろで数人の男たちが何やら動き始めた。


「今回の目的を忘れる訳には行かねぇ。まずは俺達がコイツらをさらったって言う確証が必要だ」


「確証……と言いますと?」


 真瀬さなせ先生が問いかける。

 すると皆藤かいどう組長は怪し気な笑みを浮かべながら、自分の小指を彼女の目の前へと突き出して来たではないか。


「これよ、これっ! おいっ、お前ら、この女の指一本詰めてから、その指を新会長の家に送っとけ。立花へは俺から話を付ける」


「「へいっ」」


 組長の後ろで準備を進める男たちが一斉に返事を返した。

 彼らが準備をしていたモノ。

 それは刃渡り二十センチはあろうかと言う出刃包丁とまな板、それに小さな発砲スチロールの容器が一つ。


「組長、確か……彼女たちにはAVに出演してもらう事で、確証代わりにすると聞いていたのですが……」


 着々と進んで行く話に困惑の色が隠せない真瀬さなせ先生。

 どうやら、彼女にとってもこれは予想外の出来事なのだろう。


「ヤクザ稼業を生業とする者がそんな甘っちょろい事してどうすんだよ。落とし前付けるって言やぁ、指に決まってんだろぉ。それによぉ、指詰めた後は東京湾に沈めるつもりだったんだが……まぁ良い。お前がそこまで言うんじゃしょうがねぇ。俺だって人の子、鬼じゃねぇんだ。この女は生かしておいてやるよぉ」


 そこまで言った皆藤かいどう組長は、更に別の男を手招きする。


「おい、この女は殺さねぇ。指詰めた後で、東南アジア行きのコンテナ船に放り込んでおけ。長旅になるだろうから、詰めた指にバイキンが入らねぇようキチンと消毒しとけよ。分かったな」


「組長、東南アジアって……」


「おう、マリーは知らねぇようだから教えておいてヤルよぉ。最近はクスリや銃なんかも、密輸は東南アジアルートがメインでなぁ。中には借金抱えた野郎や女をそのままする事も結構あるんだ」


 そう言いながら、皆藤かいどうは再び電子タバコの端で私の手の小指をもてあそび始める。


「しかしなぁ……この女、面白くもなんともねぇ指してやがんなぁ。女なら、もうちょっと盛った指してもらわねぇと、誰の指だかわかんねぇじゃねぇか」


 こちとら医療関係者だからな。

 手指のケアは必須事項。

 当然、華美な装飾とは無縁だ。

 確かにこの指では女の指と言う事ぐらいは分かったとしても、私の指である事までは分からないだろう。


 皆藤かいどうは私の髪を掴んで、力任せに自分の顔の高さまで持ち上げた。

 私はその痛みに顔を歪めつつも、千載一遇のチャンスとばかりに、唾の一つも吐きかけてやろうとしたのだが……。

 残念ながら思うように力が入らない。


「ふぅむ。そうだな、コイツの耳ぃぐかぁ」


 みっ、耳!?

 何言ってんだ、コイツっ!!


「この女、ピアスしてやがんだろぉ? これなら、見るヤツが見れば、誰かぐらいは想像出来るはずだ。よし、指は良いから、耳ぃ削げ」


「「へいっ」」


 背後の男たちが出刃包丁片手に私の方へと歩み寄って来た。


 マジか!

 いくら後で復活出来るとは言え、耳が削がれるのはどうなんだ!?


「わ、わたし……海外に……売られるんでしょ……。商品傷付けて……どうすんのよ」


 今の私に出来る精一杯の虚勢が口を突く。


「おぉ、そうか。そうだなぁ。でもなぁ、世の中には変わった性癖フェチのヤツも多くてなぁ。どうしても、お相手を自分の手で壊さねぇと絶頂イカねぇヤツも居るんだよ。まぁ、俺の近くにも一人居るがなぁ」


 その言葉を聞いて、真瀬さなせ先生が忌々し気に目を伏せる。


 え? どう言う事?

 真瀬さなせ先生も、そういった猟奇的な趣味があるって……そう言う事!?


「ってな訳でなぁ。耳の一つや二つ、揃ってねぇぐらいが丁度良いんだよ」


 なんだよそれっ!

 何が丁度良いんだよっ!


 一か八か。

 Noirノワールを出すか?

 それしか無いのか!?

 しかし私の魔力は既に底をついている。

 正に崖っぷち、一歩踏み出せば間違いなく谷底に落ちる瀬戸際だ。

 落ちればそこにあるのは、確実な死……のみ。


 それじゃあこのまま何もせず、耳が削がれるのを待つのか!?

 それも嫌だっ!

 恐い、怖すぎる。

 意識を保ったまま、何の抵抗も出来ず。

 ただ目を見開いて、自分の耳が削がれて行くのを耐えるのみ……。


 あぁ、気が狂いそうだ!

 そんな事、絶対に容認できない。

 それだったら死んだほうがまだましだっ!


 分かってる。


 いまを耐えれば。

 そうすれば武史たけしが来てくれる。

 武史たけしが来てくれれば、バックアップしたCOREから元に戻れば良い。

 嫌な記憶だって元通り、何事も無く昔の生活を送る事が出来るんだ。

 それだけ、たったそれだけの事なのに。

 いまだけ、今だけを耐えれば……。


 くっ……くっそぉ!

 ダメだ、駄目だ、だめだっ!

 イヤっ!……やっぱ無理。

 恐い……怖すぎる。


 無理だ……理性が働かない。

 論理的な思考が……出来ない。


 耳を裂かれると言う恐怖。

 ほんの数秒後には現実のモノとなるそのあまりにも具体的なイメージは、朧気おぼろげな死への恐怖を軽く凌駕りょうがして有り余る。


 ダメだ。

 出す。

 私はNoirノワールを出す。

 論理的では無い。

 正解では無い。

 確かにそうかも、そうなのかもしれない。

 でも……無理。

 自分の耳が。

 知らない男の手によって。

 無慈悲にも切り削がれる。


 痛いっ、イタイ、痛いっ!!


 そんな恐怖を味わうぐらいなら。

 いま、目の前の崖を……飛ぼう。

 そうだ、それしか無い。

 絶対にそれしか方法は無い。

 それしか無いんだっ!


 私は大腿に伝う僅かな温かみを感じつつ、呟くようにその言葉を念じた。

 いや、念じて……しまった。


 出て来て、お願いっ……私を助けて。


 Bootブート The COREコア Noirノワール……。

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