第136話 敵か味方か

「キシャァァァ! キシャァァァ!!」


 幾度となく繰り返される、けたたましい咆哮ほうこう


 それは、戦うべき時と場所を与えてくれた己が主人に対する忠誠心によるものか、それとも魔獣の本能に由来する勇ましくもおぞましい魂の叫びなのだろうか?


「くっ……!」


 いまにも膝先より崩れ落ちそうになるやわな体。

 それを手近な古コンテナにもたれ掛かる事でなんとかこらえ、私は目の前に広がる白煙の中を凝視し続けた。


 ……チッ!


 予想より早く落ち着き始めた蒸気。

 その向こう側に、いまだ臨戦態勢を取り続けるNoirノワールの姿が見え始める。


 ダメだ……。


 小さいっ!


 最初の咆哮を聞いた時点で、既に嫌な予感はあった。

 聞き慣れたはずのNoirノワールの声。

 その声が少し甲高いように感じられたのだ。


 今の私のつたない魔力操作技術では、BootするNoirノワールの大きさを意図的に変える事など出来ない。

 もちろん、多少の『頑張り』による誤差もあるにはあるが、特に意識したりしなければ、Bootした際に出現する魔獣の大きさは、自身がその時点で安全に創り出せる最大の大きさであると言って良いだろう。

 恐らく理性的な何かが安全弁となって、過剰な魔力消失を防いでくれているのかもしれない。


 そう考えた場合、目の前にいるNoirノワールは……いつもより明らかに小さい。先に創り出したNoirノワールよりも、更に一回りは小さいだろうか。

 なにしろ小型犬と中型犬の中間ぐらいの大きさしかないのだから。


 つまるところ、これが今の私にできる最大戦力と言う事か……。


 それに対し、フードを被った男はかなり強い。

 いくら傷ついていたとは言え、前のNoirノワールはヤツの一撃で倒されている。

 どうやら一般人では無さそうだ。

 プロの格闘家か、Boby同様神々の終焉ラグナロクの出場者か……。

 そんなヤツを相手に、いくらBootした直後で無傷とは言え、この大きさのNoirノワールが勝利を収めるのは至難の業だろう。


 となれば……だ。


 Noirノワールが時間を稼いでくれている間に、私たちが逃げるしか方法は無い……な。

 可愛いNoirノワールを置いて行くのは不憫ふびんな話だが。

 背に腹は替えられない。


 もちろん、小さいとは言えNoirノワールだって魔獣だ。

 当然、その狂暴性は同じ大きさの動物とは比ぶべくもない。

 多少の時間稼ぎぐらいであれば、耐えきってくれるはずだ。


 ――ズキンッ


「うぐっ」


 息をする度、太い針が突き刺さるかのような痛みが胸全体を激しく襲う。

 コンテナに体重を預けているとは言え、立っている事すら危うい状態だ。


 こうしちゃいられない。

 早く綾香あやかを連れてココから逃げなきゃ。


 彼女は元いた場所で倒れ込んだまま動かない。

 どうやら気を失っているようだ。


 綾香あやか綾香あやかっ! 起きてっ! 逃げるよっ! 綾香あやかっ!


 残された力を振り絞り、何とか綾香あやかに声を掛けようとしたのだけれど。

 実際に口を突いて出たのは荒い呼吸音と赤黒い血の塊だけ。


「コホォ……コホォ……、ごほっ! ごぼ、ごぼっ!!」


 こみあげて来たモノに気道を塞がれ、激しいせきが止まらない。

 しかも、そのあまりの辛さに耐えかねた私は、思わずその場にしゃがみ込んでしまったのだ。


 ぐはっ!

 ヤバい、全然力が入んない!


 一度ひざを付いてしまうと、今の体ではそう簡単には立ち上がれない。

 綾香あやかを連れて逃げるどころか、このままでは彼女の居る場所にすら辿り付けるかどうかも怪しい状態だ。


「ヒュー……ぜはぁ……苦しっ……ヒュー……ヒュー……」


 息が……息が出来ない。

 体全体を使って深呼吸を繰り返してはみたものの、一向に息苦しさは改善されず。

 それどころか、肺を含む体中の痛みは更に激しさを増して行くばかり。


 もう……ダメ……。


 朦朧もうろうとする意識の中で……微かに何かが……折れた。


 それを待ち構えていたかのように、必死で繋ぎ止めていたはずの意識が両腕の間から静かにこぼれ出して行くのが分かる。

 今の私に出来るのは、ただ茫然ぼうぜんとその様子を見守る事だけだ。


 あぁ……私……ここで……死ぬんだ……。


 そう思い定めた矢先。


「ねぇ、ちょっと。聞こえてる? ねぇ、ねぇ」


 本人が納得済みで手放した意識。

 それを、何の断りもなく横合いから乱暴に拾い上げると言う暴挙。

 その元凶は耳元でささやくように話しかけられる若い女性の声であった。


 え? 誰?

 誰か助けに来てくれたの?

 綾香あやか

 いいえ、違う。

 ……この声……は?


「ねぇ、こんな所で気を抜いてちゃ駄目よ。このままだとマジで死んじゃうから。本当はね。女に手を貸すのは私の主義に反するんだけど……。まぁ良いわ。魔力を少し分けてあげる。私の見てる目の前で犾守いずもり君の友達が殺されちゃったら、流石に寝覚めが悪いからね」


 鉛のように重いまぶたを薄く開けてみれば。

かすむ視界の先にはフードを目深に被ったの姿が。


「……え? どうして?」


「あまりしゃべらないで。たぶん魔力の過剰変換に体が耐えきれなかったんだと思うから。特に肺の毛細血管が潰れちゃったんだろうね。吐血と息苦しさはその所為よ」


 彼……いいえ、彼女は軽々と私の事を抱き上げてから、慣れた手付きで手近なテーブルの上へと横たえてくれる。

 そして、軽い溜息とともに、目深に被っていたトレーナーのフードを取り払った。


「さ、真瀬さなせ……先生」


「ふぅ……そうよ、気付かなかった? 正直、最後まで顔を出すつもりは無かったんだけど。でも、組関係の人がみんなアンタにヤられちゃったからね。仕方なくよ、ホント仕方なく」


 少し迷惑そうな顔をしながらも、真瀬さなせ先生は私の口元にこびりついた赤い血を自分のハンカチを使って丁寧に取り除いてくれている。


「まずは安心して。あの若いヤクザは途中で逃げ出そうとしたもんだから、一発ブチのめしてコンテナの後ろでもらってるし。それとぉ……残念ながら、私はソッチの趣味は全然無いんだけどさぁ。まぁ、緊急事態って事だからコレで勘弁してよね」


 そう言うなり、彼女は自分の唇を私の唇へと重ねて来たではないか。


「あ、えっ!? あの、先生っ……むぐっ……んんn……」


 長いような、それでいて短いような。

 甘美と言うには余りにも切なく、驚きに満ちた初めての経験。


「……んぱぁ。どう? 少しは落ち着いた?」


「えへ……えへへ……!!……はっ!……はいっ、ぜっ、全然!」


「全然って、どっちよっ!」


 こんな予想外の事をされて、落ち着けとかって言う方が全然無理だし。

 でもなんだか体中な少しほわほわするのは、先生のおかげなのか、それとも単に私が一人で盛り上がっているだけなのだろうか。


「魔力を融通するだけなら、キスが一番簡単で効率的なのよね。もちろん性行為に及べばもっと効率的に融通する事も出来るんだけど。まぁ、流石にココではチョットねぇ……」


 いやいや、場所の問題じゃねぇし。

 ココじゃなくても、それはそれで色々と違う問題もあるし。


「あ、ありがとう……ございます、真瀬さなせ先生。なんかチョット……良くなったような気がします」


 実際問題、真瀬さなせ先生にキスしてもらってからは、先程までの息苦しさが噓のように消えてしまったようだ。


「アナタは確か犾守いずもり君やクロちゃんと同じゼノン神の祝福持ちよね。だとすれば、放っておいても魔力さえ回復すれば自動治癒オートヒーリングが発動するんでしょ? あぁ、でも駄目かぁ。あれだけ魔力の過剰変換やってるからなぁ。特異体質の犾守いずもり君は別として、アナタが普通の魔力量クラスだったら、魔力が回復するまで一週間ぐらい寝たきり状態ってトコよね」


「いっ、一週間も……ですか?」


「そうね。もしそれが嫌だったら……いっその事犾守いずもり君にズッコンバッコン、二、三回、ガッツリ中出しキメてもらえば、直ぐに元気になると思うわよ」


「んなっ! 中出しっ……ですか!?」


「えぇ、そうよ。さっきも言ったけど、性行為は効率的な魔力の融通に最適なの。キスやオーラルセックスでも代替は可能だけど、その効果は限定的ね。あとそれから、経口剤か何かでチャンと避妊はしときなさいよ。アナタの方がお姉さんなんだから」


 一応私も医療関係者の端くれって事で、一通りの性関連の言葉ワードには慣れているつもりだったけど。

 こんな綺麗な大人の女性から、避妊やらオーラルセックスやらの言葉を真顔で聞かされるのって……逆になんかエロい。

 あぁ、イカンいかん。

 なんか、違う方向の扉が開きそうだわ。


「はっ、はい。分かりました。良く覚えておきます。それから……真瀬さなせ先生、危ない所を助けていただいて、本当にありがとうございました」


 彼女は私の感謝の言葉に軽く驚きの表情を浮かべた後で、少し自嘲気味に首を左右に振ってみせる。


「えぇっとぉ、確かに私は学校の先生もやってるけど、今この場に居るのは組の用心棒兼神々の終焉ラグナロクファイナリストのブラッディマリーとしてよ。つまり仕事の一環って事ね。そう言う意味では、ついさっきやんちゃブッこいてたBobyと何ら違いは無いわ。あえて付け加えるとするならば、少なくとも今の私はアナタの味方では無いって事……かな?」


「え!? それってどう言う事ですか!? 今だって、私の命を救ってくれたじゃないですか!?」

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