第135話 身体機能の崩壊

「いやっ……いやぁ……」


 眼前にそそり立つ暴虐の予兆。

 その得体の知れない代物から、一ミリでも遠くへと離れたいのだろう。

 綾香あやかは首を大きく左右に振りながら、ジリジリと後退あとずりして行く。


「オイッ、ボビー! このクソ野郎っ! 相手はこのアタシだっつってんだろぉが! その娘を離しやがれっ!」


 そんな私の叫びは好餌こうじを前にしたボビーに届くはずもなく。

 ただ空しく廃工場の中でリフレインするだけ。


「おいおい、暴れんなよ。お前の相手はBobyじゃなくてこの俺達だ。いい加減諦めて、コッチに来いっ!」


 私の両腕を乱暴に抱え上げるのは、形だけの筋肉に彩られたAV野郎の二人連れ。

 裸同然の私を舐めまわすかのように見つめるいやらしい目つきに、心底虫唾むしずが走る。

 いっそこの場で殴り倒してやろうか? とも思うが、ここは我慢のしどころだ。


 当然、私がこの程度の男に殴り合いで負けるとはこれっぽっちも思っていない。

 ただそれも、相手が一人タイマンであれば……と言う条件付きだ。


 見せ筋肉エセマッチョとは言え、大柄な男が両側に二人。

 さらに喧嘩慣れしているであろう若手ヤクザがその後ろに控えている。

 これだけの人数を相手にするのは、流石の私でもかなり厳しい。


 厳しいどころの騒ぎじゃないわね。

 どっちかって言うと……絶対に無理。

 勝てっこない。


「いやっ……いやっ!」


 数メートル先の硬いコンクリートの上では、後ろ手に縛られた綾香あやかかたくなに体を折り曲げ、いまだ最後の抵抗を続けていた。


 Bobyは力まかせに彼女の腕や足を奪おうとするのだが、思うようにコトが進まない。

 そんな諦めの悪い彼女に嫌気が差したか、あるいは軽い苛立ちでも覚えたのだろう。

 男は無言のまま、少女の長い髪を乱暴に掴んで高々と引き上げた。


 ――スパァン!


 少女の顔面に容赦なく振り下ろされる平手。

 少し幼さの残る美しい横顔が思わぬ衝撃と苦痛に歪む。


綾香あやかぁぁ! 何しやがんだ、てんめぇぇぇ! 覚悟しろゴルァァ!! Bootブート The COREコア Noirノワール! ヤツをっ! ヤツを噛み殺せぇっ!」


 ――バシュゥゥゥゥ!


 私の雄叫びに呼応して、視界を遮るほどの白煙が湧き起こった。


「What's happened!?」

「うおっ! なんだっ!?」「火事かっ!?」


 次々と驚きの声を上げる男たち。


「キシャァァァ! キシャァァァ!!」


 そんな男たちの動揺に拍車をかける、金属音にも似た不穏な咆哮ほうこう


「Oh!!! Oh my god! Oh my god!! Help! Help!! Oh!! Oh!!!!!」


 いまだ白煙が立ち込め、その先で繰り広げられているであろう事態を把握する事は難しい。

 しかし、工場内に響き渡る猛烈な振動と破壊音により、ボビーが得体の知れぬと激しく揉み合っている事だけは確実だ。


「おいっ! ボビー、どうしたっ!? 何があった!? おいっ! 大丈夫かっ!? 返事しろっ! おいっ、おいっ!!」


 背後から、若手ヤクザの声が飛んだ。


「「うぉ! おわぁ!」」


 そんなヤクザの声に合わせて、私の両腕を掴んでいたAV男優二人が軽い悲鳴を上げながら突然工場の奥へと逃げ去って行く。


 目の前で繰り広げられているボビーの異常事態に怖気おじけづいたのか?

 それとも、これから起こるであろう命の危機に、野性の感でも働いたと言うのだろうか?


 いや、違うな。


 振り向けば、ヤクザ者の手には少し小ぶりの拳銃が握られていて。

 正確に私の胸元へと狙いを定めていたのである。


 なるほどな。


 一般人がヤクザ者の持ち出す拳銃チャカを見て、平静で居られる訳がない。

 少しでも関わり合いにならぬよう、逃げられるウチに逃げておくのが正解と言う事か。


「グワァオロロロ……」


 しばらくして。

 薄れゆく白煙の中、得体の知れぬの低い唸り声が聞こえて来た。

 どうやら、でも決着が付いたようだ。


 白煙の成分はその殆どが蒸気。

 一度晴れはじめれば、全て消え去るのに長い時間は掛からない。

 やがて、立ち込めていた蒸気が一気に霧散すると、煙の向こう側で繰り広げられていたであろう惨状がつまびらかに開示される結果となった。


 古いコンテナにもたれ掛かり、半裸の状態で打ち震える少女が一人。

 その横には中型犬のような黒い生物が牙を剥き出しにして、こちら側を威嚇し続けている。

 更にその足元。

 そこには喰い千切られた腕とともに、Bobyと思われる大柄の男がうつ伏せの状態で倒れていた。


「ボビィ……」


 目を凝らしてよく見れば。

 ピクリとも動かぬBobyの首元には出来たばかりと思われる小さな血だまりが。

 しかしその血だまりは、続々と溢れ出す新しい血流によって、更に大きく広がり続けているようだ。

 すくなくともこの状態であれば、残念だが彼の生存は望めまい。


「うぐっ! おいっ、女っ! 何だコレは!? お前か!? お前がナニかヤッたのかっ!?」


 その愚かな問い掛けには一切答えず。

 私は不敵な笑みを浮かべながら、若いヤクザ者の前へと立ちふさがった。


「うっ、動くなっ! ナニか怪しい動きをしてみろっ! お前の胸に風穴が空くぞっ!」


 小刻みに震える男の両腕。

 経験の少なさが一目瞭然だ。


「形勢逆転……って所ね」


 これまで経験した修羅場の数と度胸だったら、アタシの方がお前より上なんだよっ。


 私は冷めた目つきで、若いヤクザを睨み付けた。

 しかし、慢心はしていない。

 震えてはいるけど、ヤツの銃口は確実に私の胸元を狙ったままだ。

 たとえ撃たれたとしても、獣人の力を併せ持つ私であれば、ある程度の傷は回復できるはずだ。

 しかも武史たけしに預けてあるバックアップを使えば、どれだけ深刻な怪我を負ったとしても元通りになれる。

 

 だけど……それもこれも、私が生きていれば。

 と言う条件付き。


 即死はもちろん一発アウト。

 バックアップを受け取ったとして、そのCOREからChangeを行うだけの魔力量が回復するまでの間に死んでしまえば、当然復活する事は出来ない。


 魔力の枯渇。

 これはかなり深刻な問題だ。

 しかも、魔力の過剰使用は身体機能の崩壊をまねき、最終的にそれは死に直結するらしい。


 保有する魔力はBootした時やChangeした時に最も多く消費され、その状態を維持している間も時間経過とともに減り続けて行く。

 BootよりChangeの方がいくぶん魔力消費量が少ないと言うメリットはあるものの、継続的に魔力が減って行くと言う意味で大きな差は無い。


 後は……恐らくだがBootやChangeは、作り出す相手の質量が大きく影響しているように思える。

 実際に武史たけしから譲り受けたKuroちゃんのビーストタイプCOREであるNoirノワールを、後先考えず自分の出せる最大の魔力量でBootさせてみたとしても、武史たけしの繰り出す壱號いちごうの大きさの半分にも満たない事は実証済だ。


 そんな私が最後の切り札であるNoirノワールをBootした。

 いや……私としたことが、怒りに任せてBootしてしまった……と言った方が正解だろう。

 しかも、具現化できたNoirノワールは、中型犬ほどの大きさしか無かったのである。


 これは……非常にマズい。


 今日の昼まで立花のCOREを使い続けていた事を考えれば当然の結果とも言える。

 私の残存魔力量は既にEMPTYランプが点灯している状態……つまり、これが私の限界だと言う事に他ならないのだ。


 ――ポタッ……ポタッ……


 はだけた胸元に感じる生暖かい感触。


 血……。


 左手で鼻の下を拭ってみる。


 赤い……。


 間違いない。私の鼻血。

 私の体が変調をきたし始めている証拠だ。


「アンタも逃げるんなら今のうちだよ。ウチのNoirノワールちゃんは、あんな小さななりしてるけど、結構狂暴でねぇ……。あのBobyみたいにこの廃工場の硬ェコンクリの上で小汚こきたねしかばねさらしたく無かったら、サッサとこの場から消え失せなっ!」


 私の威勢の良い啖呵たんかに、動揺を隠せない若いヤクザ。

 やがて少しずつ後退りを始めたかと思うと、終いには一気に背を向け、一目散に出口の方へと駆け出して行ったのである。


 マジかっ!

 やったっ!

 勝ったっ、勝ったぞっ!


 踊り出したいほどの衝動をなんとか堪え、私は仁王立ちのまま、走り去るヤクザ者の背中を眺めていた。のだが……。


「なっ! 何しやがるっ! 放せっ、離せよっ!」


 シャッター横にある出入口付近。

 急に大声を張り上げる若いヤクザ者の男。

 その横には、例のフードを目深に被った男が忽然と現れ、逃げ去ろうとするヤクザ者の首根っこを掴んで離さない。


 あのフード野郎、今まで何処に隠れてたの?

 って言うか、出入り口付近に居たって事だよね。

 つまり、ボビーの事は見殺しにしたって事!?


 フードを目深に被った男はジタバタと暴れる若いヤクザを片手で軽々と引きずると、何事も無かったかのような足取りで、私たちの元へと近付いて来るではないか。


 何だか嫌な予感がする。

 しかも、私の魔力量は残りわずか。

 Noirノワールを具現化しておける時間だって、限られてる。


 こうなったら……ヤルしか無いっ。


 一人るのも、三人やるのも同じ事っ!

 手加減している余裕は何処にもない。

 一気に決着をい付けさせてもらうっ!!


Noirノワール! その二人も噛み殺せっ! れっ! るんだっ!!」


 命令一下。

 その高度な身体能力を生かし、一気にフードを被った男の喉笛目掛けて襲い掛かるNoirノワール


「キシャァァァ! キシャァァァ!!」


 獲ったっ!


 常人では絶対に回避不可能なタイミング。

 コンマ数秒後には、喉笛を食い千切られ血反吐を吐いた男が冷たいコンクリートの上にひざまずくはずだった。……のだが。


 ――ボグッ!!


 工場内に響く鈍い打撃音。


「ギャンッ!」


 更にその打撃音を打ち消したのは、あろうことかNoirノワール悲鳴鳴き声であった。


Noirノワール! Noirノワールっ!!」


 完全に喰らった。

 一撃だった。

 まさかそんな事が!?


「くっそぉ! Shutdownシャットダウン Noirノワール!」


 私は断腸の思いで吹き飛ばされたNoirノワールを緊急停止させる。


 あのNoirノワールが負けるなんて!?

 いや、それは無い。あり得ない。

 Noirノワールはまだ小さいけど、れっきとした魔獣よ。

 車崎くるまざきさんが管理するレッサーウルフより断然強い。

 あのBobyにだって勝ったんだもの。

 それなのに、あんな小柄な男に負けるなんて……。


 とここで、私はある事に気付く。

 いや、気付いた……と言うのは間違いだろう。

 人と言うのは追い詰められると、物事を良いように解釈する。

 もちろん、当時の私にそんな事は知る由もないのだが……。


 そうか、そう言う事か。

 Bobyとの戦いの中、Noirノワールも傷ついていたに違い無い。

 それであれば話は分かる。

 万全のNoirノワールが人に……人間なんかに負けるはずが無い。


 チクショウッ!

 人間めぇ!

 私の大切なNoirノワールになんて事をっ!!


 私はこの時、完全に我を忘れていた。

 直前にBobyを殺した血に酔いしれ。

 更には、大切なNoirノワールが傷つけられた事により、冷静さを欠いていたのだ。


Bootブート The COREコア Noirノワール! 我は命じるっ! ヤツを噛み殺せぇっ! そして息の根を止めろっ!!」


 ――バシュゥゥゥゥ!


 再び舞い上がる濛々たる白煙。


「キシャァァァ! キシャァァァ!!」


 そして、新たな魔獣の咆哮が廃工場に響き渡った。


 行けっ!

 Noirノワールっ!

 私の可愛い……Noirノワールよっ!

 行ってヤツを、ヤツらを倒すのよっ!


 我が子を応援するような甘美な想いとは裏腹に、細胞と言う細胞からゴッソリと全ての活力が抜け落ちて行くおぞましい感覚が全身を襲う。


「……ウォッ……ウォォエェェェッ!」


 突然口内より溢れ出したのは、胃液ではなく赤黒い血流の塊であった。


 魔力の過剰使用は身体機能の崩壊をまねき、最終的にそれは死に直結する。


 そうか、そう言う事か。

 体が壊れると言うのは……こう言う事……か。

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