第126話 噛みしめる唇
「ふわぁぁ……眠ぅ……」
テーブルの向かい側に腰掛ける少女は、恥ずかし気もなく、あてがった手からはみ出さんばかりの大きな
「おいおい
そんな俺からの指摘に一切動じる風もなく。
更に彼女は不満気な視線で俺の事を睨みつけて来る。
「だってさぁ、まだ土曜の昼過ぎだよぉ。あーしのメインは夜からなの。だいたい休日の昼間になんて、最近じゃ殆ど出歩かないんだもん」
ふと、オープンカフェのテラス越しに外へと目をやれば。
渋谷駅からもほどちかい裏通りでは、初夏を思わせる陽気も手伝ってか、薄手の装いに身を包む若者たちが楽し気に行き交っている。
活動開始が夜からの女子高生って……。
「はぁぁ……」
深い溜息とともに浮かぶ落胆の色。
しかし、それすらも彼女には何の効果も与えられてはいないようだ。
どうやら、彼女の辞書には『緊張感』と言う単語が、含まれたページごと欠落しているに違いない。
俺は呆れた様子で目の前に置かれた白磁のカップを手に取ると、少しぬるくなったラテに軽く唇を触れさせただけで、また元の位置へと戻してしまう。
柄にもないが、どうやら俺の方が緊張しているのは間違いが無さそうだ。
それもそのはず。
今日はケツ持ちである
理由は分からない。
この前のカラオケ店での後始末の件か?
それともV-MAXの売り上げの話なのかも?
これまで然したるミスも無くやって来た。
上納金だって一度たりとも滞った事は無い。
上手く立ち回って来た……俺にはその自信と自負がある。
多分……大丈夫……だろう。
ちなみに、俺に電話を掛けて来たのは、若手有望株の
以前は立花さんと少し距離を取っている様にも見受けられたが、最近ではほぼベッタリの様子らしい。
他の組員さんたちからの情報によると、
大人の事情は良くわからん。
そんな
あの人、
しかも、ちょっとした事ですぐにキレるものだから、さすがに沸点が低すぎだろって事で、
ちなみに、液体ヘリウムの沸点は4.2 K(−269 ℃)である。
「ねぇ……他の三人はどうしたの?」
「あぁ、和也と芳樹は体調が悪いから今日は休むって今朝連絡があったよ。それに智也は……」
智也とはここの所、連絡が全く取れていない。
毎日と言って良いほど頻繁に交換していたチャットすら、今週のあたまぐらいから全く
「クスリの影響か……」
三人の様子が明らかに変わって来たのは、例のクスリを売りさばく様になってからだ。
アイツらが
実際問題、渡した
だが俺はこれまで、その事自体には目をつぶって来た。
商品を広めるためには、多少のサンプル提供も必要だろうし。
アイツらだって、自分の子飼いに『オイシイ』思いをさせたいと考える事だってあるだろう。
その程度の旨味が無ければ、幹部に上り詰めた意味が無いと言うものだ。
そんな事より俺が困惑させられたのは、俺の
ミイラ取りがミイラになるなんて……。
クスリは一度手を出すだけで、身も心もズタズタに破壊されてしまう。
副作用の無いクスリなんて、この世には存在しないんだ。
どうしてその程度の理屈が分からないんだろうか?
俺は再び目の前の
「そう言えば、キミはこの前
自分の発言に引きずられ、例のカラオケ店で見た彼女
激しく唇を絡め、弄り合う二人。
当時の事を思い出し、自分の意思とは関係なく、軽く熱を帯び始める自身の股間が恨めしい。
恐らく俺が望めば、嫌々ながらも彼女は股を開いてくれる事だろう。
しかし幸いな事に、こんな手近な所で自分の性欲を処理しなければならないほど、相手に不自由をしている訳では無かった。
そんな事より気になるのは……。
「あぁ、アレね。かなりヤバそうな
そう言いながら屈託もなく笑う彼女。
「へぇぇ……そう言うモノなんだね」
俺は適当な
「ところでさぁ、あの時の
「え? あの
まだ話し足りない事でもあったのだろうか?
少し不満げな表情を浮かべつつも、彼女は当時の事を思い出そうと、自らの顎へと人差し指をあてがってみせる。
「そうねぇ。私が渋谷を歩いている時に、向こうから声を掛けて来たのよ。確かぁ……
それにしては変だな?
ただ、その友達と言うのも、同年代である女子高生である場合が殆どだ。
確かに所属するキャストの姉やその知り合いが紹介されて来る事もあるにはあるが、非常に稀なケースであると言って良いだろう。
確かに
いやしかし、そんな話は聞いた事が無い。
一抹の不安が胸をよぎる。
怪しい……。
同業他社のスパイか?
場合によっては、国家権力のおとり捜査と言う可能性も考えられる。
しかし、
もちろん、トップキャストはそれなりの金額をもらい受ける事になってはいるが、それだって顧客側と合意の上での話だ。
警察機構から付け入られる様なヘマは犯しちゃいない。
急に難しい顔をして黙り込む俺に慌てたのか、
「あぁ、でも安心して。私、
何も聞いて来ないだと?
となると、本当に
いや、それは今だけの話かもしれない。
この後、
「そうか……それなら安心したよ。でもね
「うっ、うん。そうだね。ふさわしくないよね。次にまた連絡があったら断っておくよ」
「折角スカウトしてくれたのに、ホント申し訳ないけど、よろしく頼むよ。この埋め合わせは必ずするから」
少し残念そうな表情を浮かべつつも、素直に頷く彼女。
気が強いだけじゃない。
折れるところは折れ、譲るべき所は譲る。
彼女はそんな気配りが出来る
「あぁ、えぇっとぉ。お話し中すみません。
横合いより遠慮がちに声を掛けて来たのは、先月から
メンバーになってまだ間もない事もあり、立ち位置としては幹部候補生と言った所か。
本来であれば他のメンバーの手前、
佐竹が抜け、腕っぷしの強い幹部の二人が休みがちな今、
多少……?
いやいや、そんな事は無い。
見てくれは
初めて大会に出場した時には大怪我だけはしないように……程度にしか思っていなかったけど、あれよあれよと言う間に連戦連勝。
最近ではブラッディマリーさえ出場していなければ、優勝間違いなしとまで言われるほどのトップランカーに上り詰めている。
僕の護衛を任せるには、これ以上無いほどの人材と言って良いだろう。
「ん? なんだい、
「あぁ、いえ。えぇっとぉ。そろそろ集合時間かなと……」
スマホの待受けを見れば、時刻は午後一時三十六分。
「そうだね、呼び出しの時間は午後二時だから、そろそろ移動し始めた方が良さそうだ」
俺が目配せをする間もなく、
言葉遣いや態度はいい加減だが、伊達にウチの
店を後にした俺達三人は、連れ立って渋谷の街中を闊歩して行く。
「あ、
「こんちは、
「ワァオ! 見てみてっ! あの後ろにいんのって
すれ違う若者たちから次々と声を掛けられ、俺は軽い笑顔でその言葉を受け流して行く。
晴れやかで、誇らしげな気持ちになる、そんないつもの光景。
それがなんだか、今日は少し違うように感じられて……。
「
「はっ、はい」
不満の原因は分かっている。
俺の従順な
ヤツの評判が、日に日に高まっているのだ。
出会って間もない頃は、年相応に少し反抗的な態度を示す事もあったけど。
最近では僕や他の幹部連中に対しても敬語は欠かさない。
本人は帰宅部らしいから、部活動なんかで上下関係を厳しく叩きこまれたと言う訳でも無さそうだし。
だけど、あの戦闘力から考えれば、この従順な態度の方が逆に薄気味悪く感じられてしまうのも事実だ。
「最近……調子良いみたいだねぇ」
「あぁ、はい。えぇっと、いえ……そんな事は」
俺は何を言ってるんだ?
まさか、俺はコイツに嫉妬してるとでも言うのか?
溢れんばかりの苛立ちと、言い表しようもない不可解な自己嫌悪が胸中を襲う。
くそっ……クソッ……このクソがっ!
噛みしめる唇。
口中より鼻に抜けるのは自分の血の臭いか。
俺は平静を装いつつも、幾分早くなった足取りで約束の場所へと向かって行ったのさ。
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